CubとSRと

ただの日記

「海保の憂鬱」

2020年04月24日 | 心の持ち様
2010.09/12 (Sun)

 昔、「常勝レオ軍団」と言われていた西武ライオンズの森監督は
 「チームは結束力が大事」
と、どんな下らんことでもいい、全員が知っている話題で、相手チームの悪口を言い、選手全員、悪口で盛り上がって試合に臨んだ、という。
 勿論カラッとした、軽口に近いもので、陰湿な悪口ではなかったろうことは、言うまでもない。
 
 たとえば。
 「あの、レフト、な。脚短いだろ?お前なら3歩で取れるとこ、あいつ、7歩ぐらいかかるんじゃないか?守備範囲、狭いぞ」
 、みたいな、愚にもつかない軽口を言って、その場に居合わせた選手達を笑わせ、その中に、これまでのデータから導き出した、相手選手のウィークポイントを一つ二つ入れてみる。
 悪口を言って気を許し、緊張がとれている中の事実は、洗脳の如くに身体に染み通る。
 巧みな教導法、誘導術だと言えるし、効果も大きい。
 けれど、これが繰り返されていくとどうなってゆくか。

 悪口を言って、それで団結力が高まって、試合に勝つ。そうやって勝ち続ける。それを、冷静になった時、思い出したらどんな感興が湧くだろうか。

 「人の心は弱い」と言われる。一方で、「あの人は鉄みたいな意志を持ってる」ということもある。
 その時々の、認識、それによる判断が意図的に、その都度なされていれば、確固とした(認識、判断による)意志が積み重ねられる。「鉄の意志・強い心」になる。
 逆に、その場しのぎの、ちゃんと見詰めない、深く考えないで雰囲気に流されるままに、その意志決定が積み重ねられたら、「人の心は弱い」、の見本ができる。

 俳句のことで四苦八苦しているうちに、シナ漁船の体当たり事件。
 船長を逮捕、という珍しく強硬な手段に出たと思ったら、案の定、シナより「船長の逮捕は不当だ」と引き渡し要求。
 間、髪をいれず、監視船という名の中古軍船がやって来る、ガス田開発の会議は延期する、と「大国」らしからぬヒステリックな通告。

 「珍しく強硬な手段に」と思っていたが、西村真悟氏のブログをはじめ、いくつかのブログを見ると、そんな「思いつき」みたいなことではない。
 「武力による対立も辞さない」、という姿勢を見せたように見えるけれど、事はもっと深刻だ。

 なんでも、最近は(特に今年になって)尖閣諸島近辺では、日本の経済水域(排他的水域)に連日数十隻のシナ漁船が入って、操業しているという。
 こちらが、いくら領海だと言っても、シナは自国領だ、として譲らない。
 何しろ、我が国の元首相が「(どっちの物か分からないから)今から話し合いましょう」みたいな事を平気で言ってしまう。
 それに加えて、シナ漁民の認識は領海云々ではなく、「昔からここで漁をして来たから、ここは自国領だ」という実に大雑把な捉え方。「昔」というのが何年前か、何百年前か、でさえ、はっきりしない。

 言ってみれば、そういう違法操業漁船の、これまでの我がもの顔のやり方に、「日本の水域です、出て行きなさい」と言い続け、追い払ったら、別の漁船が入って来て、の果てしない繰り返し、いたちごっこがあって、今回、遂にその中の一隻が居直った、というだけではないか。

 海上保安庁が、「逮捕許可を得るまでに半日もかけた」、のではなく、「半日もかかった」のだ、ということが見てとれる。
 巡視船に体当たりまでされては、もう逮捕しかない。けど、官邸はなかなか決断しない。それで、半日かかった。

 「海上保安庁よ。よくやった!」ではない。海上保安庁にそこまでやらせることになった、現政府の、その場しのぎ、言いわけばかりの施策に問題がある。
 現に、昨年こうやって違法行為をはたらいた船は数隻。今年は既に数十隻を超えている、という。

 これまでに、繰り返し書いて来たけれど、日本のこの高度な文明と文化を、我々日本人は生まれながらにして持っているのではない。
 生まれた瞬間から教えられ続け、途中からは自らの努力で手に入れ、磨き続けている。
 そして、人間は(日本人も)生物(なまもの)だ。常に学びつづけ、身につける努力をし続けている。
 だからこそ、日本文化を受け継いでいる、と言える。守っている、と言える。

 職務としてであれ、何であれ、海上保安庁は終わりのない絶望的ないたちごっこを真剣に、終日、国のために、と、行っている。「確固とした意志」の積み重ねに命を懸けている。
 そうやってつくり続けている「鉄の意志」で、絶対にやりたくなかった非常措置(逮捕)を採った。
 政府はどうか。「その場しのぎ」で、「あやまらず」、「言い分けばかり」を繰り返して来た政府はどうか。

 「僅か二箇月だから」と言うが、僅か二箇月でも、「鉄の意志」の兆しくらいは、本来見えるようになるものではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「非情の句」 俳=人情を排す?

2020年04月24日 | 心の持ち様
2010.09/10 (Fri)

 俳句は、僅か十七文字であるが故に、逆に、行間はまるで「空即是色」。何でもそこに包含されているようです。
 「脱ロバ」を目指す身としては、これまでの知識、体験の全てを動員して、そこから何かを読み取ろうとする。

 一般的に「俳句」と言いますが、当時の人は、「俳諧」、と言っています。俳句をひねる人も、「俳句作家」、ではなく、「俳諧師」と言っていたようです。
 「俳」は、「人の感情を込めない」。「諧」は、「言葉自体の面白さ」で、いずれも和歌とは正反対の立場で、物事の味わいを追求しているようです。
 蕉門が中心となる俳句もあれば、小林一茶のような味わい方もある。
 さらに柄井(からい)川柳のような俳諧も、ある。

 最近、「ペケポン」という番組で、下の句を言い当てる、というゲームをやってますが、あくまでもゲームとは言うものの、俳諧という藝術に、誰もが親しめる、それをつかって遊べる、また、それが、テレビ番組として受けいれられる。藝術を遊び心として楽しむ文化が日本には、ある。これには感心しています。
 
 「俳句」の「俳」は、「感情を込めない」と書きました。
 実際、和歌などは作者の心があって、見たり感じたりしていることが、そのまま表現されます。対して俳句は、それが、ない。「後は読者にお任せ」、です。文字数が多くなると、収拾がつかなくなる。だから、十七文字。いい手、です。いろんな光景を思い浮かべることができる。「第二芸術だ」、なんてとんでもない。

 御存知のように、俳句、俳諧は、元々みんなで楽しむことの多い連歌の「発句(ほっく)」、です。
 連歌の始まりは、付けていく人のために、付けやすい始まり方をしなければならない。早い話、コメントしづらいのは困りものなんです。私の日記みたいなのは最悪なわけです。

 蕉門の発句集をつくろうとした時でしょうか。
 榎本其角が
 「柴(の)戸や 錠のさされて 冬の月」
 と一句。 
 芭蕉の一番弟子です。ただ、その場に其角は居なかった。
 
 それを芭蕉が読み、
 「其角にしては、平凡な句だなあ。まあ、悪くはないが。」
 、と評した。

 わび住まいの質素な柴の戸。その上に冬の月が出ている。主人は他出でもしているのであろう、錠がかかっている。
 まあ、いかにも「風流な冬の景色」ではあるけれど、わび住まいの「柴の戸」に錠がかかっている、というのは、些か、無粋ですね。それに、柴の戸に、おそらくは藁屋根の家。そこに冬の月、となると、あまりにも「これできまり!」みたいで、面白味がない。
 芭蕉にすれば、「其角にしては~」、だったんでしょう。

 それが、実はそうではない、と分かった。
 芭蕉が読み違えたのか、編者が読み違えたのか分からないのですが、後から其角から聞いたのか、芭蕉から連絡があった。
 「あれは秀句だ。」
 「あれは『柴戸』ではなく、『此(の)木戸』だそうだ。それなら全く違う。とても良い句だ」 
 「此木戸」。確かに縦書きで、ざっと見ると、「此」と「木」が重なって「柴」に見えますね。一字違いで大違い。

 「此(の)木戸」の「木戸」というのは、「柴(の)戸」のような「侘び住まい」の折り戸と違って、しっかりとした頑丈な戸、です。
 そして、この「木戸」は、「錠のさされて」、とあるから、頑丈なだけでなく、相当な大きさの木戸。
 普通に考えれば、城門です。藁屋根ではない、黒瓦を漆喰でとめた厳めしい瓦屋根です。
 「(大きな)城門に錠がかかっている(らしい)。冬の月がかかっている」
 主人のいない、人の気配のない、雑草も枯れ果てている城門と、冬の月。
 「侘しい」、などでは間に合わない。月は三日月よりも、半月か満月、の方が似合いそうです。
 巨大な人工物と、おそらくは雲のかかっていない空。
 寒風吹き荒ぶ荒城。
 何だかゾクゾクしませんか。狼男じゃないんですけど。

 自分勝手な解釈ですが、これが、「俳句」の、一つの形じゃないか、と思うんです。
 人の気配が全くなくって、人工物の最たるものとして城門があって、自然そのものの月に伍している。だから、読んでいる者は、その世界に、たった一人で、瞬時に入って行ける。

 全く個人的な思い出ですが、神戸の垂水区に、「五色塚古墳」というのがあります。つくられた時と全く同じ形に、という考えで復元された大きな前方後円墳です。
 あの、木々の生い茂った、穏やかな曲線を描く優しい形の古墳、ではありません。円墳の斜面も、方形の前部も、全て幾何学的な直線と曲線です。そして、地上から見えるのは直線だけ。
 辺りの住宅の直線とは桁違いの長い直線が家々の灯りを遮って、異質な夜の闇をつくり出している。

 それを見た時、「此(の)木戸や~」の句を思い出したのです。
 「非情」。 俳句ってのは、今でも前衛的です。
 やっぱり、これも、「粋(すい)」、でしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「武者のダンディズム」(後)

2020年04月24日 | 心の持ち様
2010.09/08 (Wed)

 「武者のダンディズム」そのもの。
 ただ、この大事件、江戸町民の噂にはなったものの、事件の概要をおおっぴらに噂することはできませんでした。
 この話が、虚実ない交ぜながら、陽の目を見たのは50年ほども後、のことです。
 赤穂浅野家浪人の吉良邸襲撃事件、です。

 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、海音寺潮五郎の説では、「武士道ではなく、武者気質(むしゃかたぎ)」なんだ、と。
 初めてこれを読んだ時は、ああそうか、成程、と思ったものでした。とは言っても、武者気質と武士道は違うらしい、という感じから、だけでしたが。

 武士というのは、武芸を以って毎日を生きる者、ですが、「武士道」となると、少し、意味合いが変わります。こちらは、武士として、主人に侍(さぶら)う、侍(はべ)ることが前提となります。
 (蛇足ですが「侍(さぶら)う」から、「侍(さぶら)い」、「侍(さむらい)」です。)
 だから、「武士道」は主人に対しての「従者の在り方」、となって、武藝で以って主人に仕える、「主人のために、いつ何時でも、淡々として命を投げ出す生き方」が、武士道、ということになります。

 赤穂浪士は、切腹(実は扇子腹だったとも言われます)させられた主君の仇を討つために、吉良邸に討ち入ります。
 時の将軍綱吉の裁きに対し、公然と異を唱え、徒党を組んで、隠居した高家の私邸に乗り込み、一人の老人の首を刎ねた。
 本意は「大義のために命を捨てる」、だけです。目的達成の後は、斬首(処刑)でなく、切腹(自己責任)をさせてほしい。
 しかし、赤穂浅野家は、広島浅野の分家。浅野と言えば譜代大名。浅野家の家士が、主人浅野の主人たる徳川将軍家の裁きに異を唱え、実力行使、討ち入りの挙に出る、というのは、純然たる「謀叛」です。決して、「武士道」ではない。

 にも拘らず、江戸町民は心の中で快哉を叫び、何より大名の多くが「天晴れ、武士の鑑よ」、と、誉めた。手放しで、とはいきません。何しろ、かげで幕府の悪口を言っても、面と向っては言えない。あの水戸光圀でさえ、将軍綱吉には皮肉を言うのが精々だったのです。

 将軍の力というのは半端ではありません。腕力、武力がどうこうではない。将軍と、その周りをかためる頭脳が、「優秀」過ぎるくらい優秀なのです。その頭脳で以って、正論を吐かれたら、頭脳で勝てる者(大名)は、一人もいません。武力でなら勝てるか、となると、これは、考えること自体が野暮でしょう。関ヶ原から、70年以上、既に江戸は完全に文民政治が行われていた、と言えます。
 けれども、「天晴れ、武士の鑑!」と誉めた大名の大半は、まだ、概念としての武士道が理解できていない。ただ「浅野殿は良い家来を持った」、だけです。

 繰り返しますが、この「討ち入り」という行いには、見返りはありません。既に主人は死んでおり、公儀に反した罪で全員処刑されるのが初めから決まっています。
 それが「処刑」でなく「切腹」となったのは、「天晴れ武士の鑑よ」との雰囲気が大勢を占めたため、であって、早い話、将軍家が理を枉げて、大名やその家臣の気持ちを収めさせるためであった、ということです。
 罪一等を赦すどころか、切腹の栄誉までも与えることで、幕府は人心を収攬することに成功した、と言えるかもしれません。
 (でも、個人的な感想ですが、徳川幕府が計算づくでそれをやったのなら、人心はもっと早くに幕府から離れ、幕府は百年も経たずに瓦解していたことでしょう。)

 司馬遼太郎の説通り、「武士道」が発生したのは室町期と思われます。
 「武者気質」と「「侍(さぶら)い=従者の心積もり」の精華として、「儒学」というより「儒教」が、武士の生き方のそこかしこに、まるで腕時計の歯車軸を支えるダイヤモンドの如くに、ちりばめられるようになります。
 家臣(従者)になりながらも、武者として主人と並んでいた頃の境地と矜持を持ち続ける。だから、卑屈さ、賤しさがない。

 「目立たぬこと、地味であること」、そして「日々の努力を重ねつつそれを決して表に出さない」。
 西欧の「騎士道」に比較される「武士道」は、こんな風に成長し、「粋」のもう一つの形になったと言えます。
 稚気からのやせ我慢の「粋」に、室町期(戦国期)の時代背景が影を落として、「日々努力」のやせ我慢の成立、それからの「粋」を生み、それは「武士道」として、今に残ります。
 しかし、稚気からのやせ我慢の「粋」は、というと、これまた、ちゃんと武者気質からの流れを汲んで、竹の皮をつかって股引を穿く、といった職人や、歌舞伎に熱狂する江戸町民へ、とやっぱり、ちゃんと受け継がれています。

 そして、今、日本人は「武士道」の「粋」も、武者から江戸町民へ、と伝わった「粋」も、どちらも一個人の中に(具現化の有無はさておき)精神的風土として、持っています。

 こんな民族は世界中、どこをさがしたって居ないでしょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「武者のダンディズム」(前)

2020年04月24日 | 心の持ち様
2010.09/07 (Tue)
 「武者は死を覚悟して戦に臨む。その際、見苦しくないように、と、化粧をした」
  或る方のコメントです。

 はるか昔、北斉の皇族であり将軍の蘭陵王は、絶世の美女ならぬ、美男だったそうで、その美しい顔を見れば、敵は侮り、味方は士気が下がるため、戦に臨む時は、目を見開き、口を大きく開けた、獰猛、醜怪な表情の仮面をつけて、戦い、大勝した、という話があります。舞楽の「蘭陵王」は、その故事により作られたものです。
 これは、「武者の化粧」とは全く違うように見えますが、己を客観視しているところは、同じです。

 ところで、武者もまた、蘭陵王の如く、醜怪にして獰猛な表情の仮面を着けて戦に出たことをご存知ですか。
 甲冑の展示を見たことがある人なら、思い出されるでしょうが、面頬(めんぼお)、猿頬(さるぼお)等といわれる木でつくられた面は、赤や黒の漆で塗られ、髭まで生やした、恐ろしげなものでした。

 オーダーメイドの鎧、それぞれの好みで注文した多種多様な形の兜などと共に、木でつくられた面頬も特注。命を懸けて戦うのです。いい加減な物を着用するわけにはいかない。いかにも強そうな、怖そうな面をつけて戦う。
 でも、やはりお洒落であり、武士のたしなみ、でした。

 「戦に臨んで、化粧と共に、兜に香をたき込めた」、ともあります。
 汗で臭くなる。首を刎ねられた時、我が首を刎ねて手柄とした者が、汗臭さに顔をしかめた、としたら、我が名を地に落とすと同等か、それ以上に彼の名誉をも、汚すことになる。臭い首級を持って帰ることになるからです。
 「美しく名を残して」こそ、武門の誉れ、です。
 (この化粧と香に関しては、源平の合戦の頃の話と思われますが、心ある武将は、室町末期(戦国期)にも実行していたことでしょう。)

 あの「皮を切らせて肉を切る」という言葉は、続けて「肉を切らせて骨を断つ。骨を断たせて命を断ち、命を断たせて名を残す」、なんだそうです。
 名前をそこまで大事にするのは、名を遺せば、名誉の死。恩賞があり、一族も繁栄する。結構、合理性もあり、実用的な考え方だったと言えます。
 勿論、日本人が長い年月をかけて作り上げた日本独自の価値観、社会観があればこそ、です。決して金銭で物事を解決しようということではありません。「靖国で会おう」の一言に、その価値観が凝縮されています。
 「名を残す」、とは、「よい話を遺す」、ということ。後々の笑いものになってはならない。

 中学校の時に習った平家物語で、平敦盛と熊谷次郎直実の話を覚えておられる方も多いでしょう。
 「天晴れ、大将軍よ。敵に後ろを見させ給うものかは。返させ給え」と呼ばわると、敦盛は逃げるのをやめ、戻って来る。名を惜しむが故、です。逃げれば平氏の全てが嗤い者になってしまう。
 そして、百戦錬磨の直実に組み付かれ、落馬、組み敷かれてしまう。
 「名前を申されよ」、と問う直実に、「下賤のお前には名乗るまい。お前には手柄首だ。さあ、早く取れ!」と恐怖の色もなく急き立てるため、我が子と同様の年頃と知りつつ、不憫で泣きたい思いながら、首を刎ねた。

 名前を言わないのは、身分の下の者に首を取られるのは恥、だからです。でも、これは、自分より身分の低い直実に対する思い遣りでもあります。
 大将首だから、いずれ、誰か分かる。そうすれば、知らずに討ち取った直実の大手柄となり、そして、名前を自らは明かさなかった、その誇り高い態度と、直実に対する思い遣りに対し、敵方の源氏側から賞賛の声が挙がる。「名を遺した」ことになります。
 敦盛は、武士の在り様を学んでいるし、直実は、この時初めて、猪武者であった己を振り返り、実子と並べて見て、武士とは何かを悟り、仏に救いを求める。
 「武士(武者)とは、大義のために命を捨てる者」
 武者のダンディズム、です。
 でも、武者には「大義のために命を奪う」という考えは欠落しています。
 我が身のことは「死を怖れない」「死を厭わない」のですが、相手の命を奪うことに関しては、「ただ、良き敵を得たり」、だけで、己より弱い者の命を奪う、時にはなぶり殺しにする、など全く考えても居ない。その感覚は今に至るまで日本人の中に残っています。だから、「戦後補償」、「謝罪」、「最低、最悪の国民と言われることへの罪の意識」に、日本人は今も悩んでいます。

 騎士道が「博愛」と「正義」を立てる上に、フェミニズムであるのに対し、武者は「大義のために命を捨てる」、だけです。

 室町時代(戦国期)になって、武士道が成立したのではないか、と司馬遼太郎は言います。様々な礼儀作法、武士の藝術等が発展したのは、その頃なのだそうです。小笠原流礼法も、その頃。
 佐々木道誉という人は、武将ながら、活け花の形を造った趣味人だと言われます。切り花を遣って、却って花の永遠の命、力、を見せる。
 後の世に、活け花が欧米にも知られるようになるのですが、欧米人には、
「命を奪われた花が、却って、咲き誇ってエネルギーさえ感じられるように見えるのは何故か」、カルチャーショックとなるのだそうです。
 また、古田織部、という、戦国武将ながら、一大茶人だった人もいます。茶碗一つを秀吉に献ずることで、一国を手に入れようとしたとも言われています。
 彼の美的センスは半端ではない。上等の茶碗をわざと割って、金線でつなぎ、価値を数十倍から数百倍にした、と言われます。一国以上、と言われるほどの茶碗の値打ちを「創出」してしまう。

 後の「歌舞伎」の元になる「傾(かぶ)き者」、のルーツである彼らは、「ばさら」と呼ばれています。とても派手で、目立つことこの上ない。
 藝術至上主義、と言っても良いかもしれない、見事な美的センスを持っていたわけですが、これは勿論、「稚気」からのものです。まだ、「粋」には手が届いていないようです。でも、間違いなく、「ダンディー」、です。

 時代が下って、江戸時代。五代将軍綱吉の時、武者のダンディズムそのもの、といった大事件が起こります。
 
 (後編に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「粋」二態

2020年04月24日 | 心の持ち様
2010.09/06 (Mon)

  話がどんどんずれて来て、「子供の楽園」から、「稚気愛すべき、或る歌詠み」。
 稚気の先にあるのが「粋」だけれど、「粋」にも二通りあって、稚気の延長ではない「粋」もある。
 その一人がボウ・ブランメルであり、日本では、白洲次郎か、麻生太郎、がそうであろう、と書きました。
 もう戻れない、行き着くところまで行ってしまおう。破れかぶれです。

 ボウ・ブランメル、白洲次郎、麻生太郎、と並べると、粋は粋でも、こっちは日本の「粋」、でなく、英国の「粋」か、と思われるかもしれません。
 実は、さっきまで、私自身もそう思ってました。
 でも、書いているうちに「こりゃ、しまった」、と。

 伝統として、この「粋」も、日本になかったわけではない、と気がついた。
 武士の生き方、がそうでした。「目立たぬこと」「地味であること」。
 これは「武者」ならぬ、「武士」の在り方です。
 つまり、「武士道」、武士の生き方、というのは、これ(粋)そのものでしょう。

 ここまで書いて、前回の日記を載せました。
 すると、或る方のコメントに「男はビシッとスーツにネクタイです」とあって、「もはや、私にとっては戦闘服ですから。」「歩く白装束」、とまで。
 仕事として世間、世界を走り回る自分にとって、スーツにネクタイ、は、いつ死んでもかまわない、という覚悟の服、「死に装束」なのである。
 そんな風なことが書かれてありました。
 また別の方からも同様のコメント。
 「いつ死んでも見苦しくないように」「身だしなみにも隙のない状況で」
 私は迷わず「ダンディー」の称号を贈ることにしました。(そんな資格はありませんが。言った者勝ち、です)

 これ、武士道と同じ系列の、「やせ我慢を表に出さない『粋』」、です。
 日本には「稚気から来るやせ我慢、その先の『粋』」、も、「日々の努力を決して表に出さない、というやせ我慢、その先の『粋』」、も、両方共ある。何ともはや。
 「知れば知るほど」抑止力、じゃない、日本は素晴らしい文化を持っています。

 ようやっと、これで、「美的センス」、「粋」の話は終わりです。
 と、思ったら、今度は更に、日本独自の美意識についてのコメントが。
 「武者は、戦に臨んで見苦しくないように、と、化粧をした」、と。

 そうでした。これも書いとかなきゃ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする