CubとSRと

ただの日記

否定の否定(ブレーキ開発の現場で)

2020年04月05日 | 心の持ち様
2017.05/29 (Mon)

「新人は、朝から晩まで、試験車の整備をやらされる。クルマをジャッキアップして、ネジをゆるめて、タイヤをはずして、部品交換をしてブレーキやらスプリングを組みかえて、またタイヤをつけてネジをしめる。
 こうして整備の方法とクルマの機構を覚えていくのですが、整備士の免許が取れるのではないかと思うほど毎日繰り返す。
 先輩たちは、いともたやすく、そういう仕事をやって見せてくれるのですが、新人は整備を覚えるどころか、そもそもトラックのタイヤが重くて持ち上げられない。そういうことひとつとっても、先輩たちはすごいなと思いました。
 係長さんに相当する組長さんになると、ブレーキの神様に見えてしまうくらい仕事ができる。そういう日々でわかってきたことは、クルマというのはメカニズムの塊であるということでした。ものづくりとはメカニズムづくりなんだとわかる。
 しかし僕は電子工学の勉強しかしていない。メカニズムも材料も学んでいない。
 そこではじめて、これはヤバイぞと気がついた。自動車の開発という仕事がわかっていないから、漠然とブレーキの電子制御の開発をするのだろうと簡単に考えていたけれど、メカニズムがわからなければ電子工学の知識があっても、ブレーキ制御の機構を考えることさえできないわけです。
 ブレーキ実験の現場に配属されてみると、電子制御がどうしたこうしたなんてことはふっ飛んじゃって、とにかく自動車のメカニズムを学ばないと、ダイハツでは生きていけないと思った」


         (ダイハツコペン開発物語 中部勉)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これも、別にダイハツだけが特別変わったことをしているということではない。
 一通り物事を把握した(と思っていた)者が、「その世界」に飛び込む。
 「自分の実力ならこの世界を変えられる(向上させられる)」と、自信と余裕を持って入ってみる。
 ところが自分が「把握した」と思っていたものは、あまりにも大雑把で尚且つ穴だらけの代物であり、とてもじゃないけど「世界を変える」どころか、自身、即戦力にさえなれないことを痛感した。

 今までやってきた(把握した)と思っていたものが、不用だとか役に立たないとかいうのではない。それならまだいいけど「用いることができない」「役に立てられない」のだということが分かる。
 把握したものを役に立てられない、ということは「把握したもの、そのもの」が駄目なのではない。自分にそれを「役に立てられる(使える)実力」がない、ということだ。

 ならば、学んできたことはひとまず置き、とにかく把握の前段階(把握のための取り組み)を我が物にしなければならない。
 (しかし、主観的には「ひとまず置き」なんて余裕は全くない。これまでの自分を全否定する、当人としては絶体絶命の状況なのであって、大げさに言えば決死の覚悟が必要なほど追い込まれている。)

 ということで、まず電子工学の知識ではなく、「ブレーキ制御の本来の目的」、という初歩を見詰め、ブレーキに関する技術を使えるようにする。その上で初めて、袋小路打破の手段として電子工学の知識が必要になってくる。
 まず、電子工学の知識でブレーキというものを把握していたつもりになっていた「自身」を否定し、次に「ブレーキの目的」について詰めた時、「それでは十全ではない」と気が付き、改めて否定する。
 マルクス主義と違うところは、きちんと詰めた上での「肯定に基づく否定」が繰り返されているということだ。ただ否定する、だけでは、「会社」は潰れてしまうしか途はない。

 新入社員の研修を「仕事の概要を知るためだけ」、「それぞれの部署の気持ちを分かるためだけ」、と捉えると、そこには「支配者と被支配者」、「資本家と労働者」の関係しか生まれない。これは公務員も同じだ。
 勿論、そんなことでは「向上・発展」は望めない。
 「肯定に基づく否定」、次に「肯定に基づく否定の肯定」に基づく否定、というのを行い続けてこそ、それぞれの社会(企業とか役所とか)で、向上・発展が期待できる。
 
 
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変化(劣化も向上も)

2020年04月05日 | 心の持ち様
2017.05/27 (Sat)

 「ダイハツコペン開発物語」について書こうと、今朝、ネットを見た。書評が一つ、出ていた。
 「プロジェクトXみたいだ」ということ。そして「この本を読むとこの車が欲しくなるだろう」ということ。
 個人ブログながらちゃんとした書評なので、これから書こうと思っている思い付きだらけの脱線(ばかりになるであろう)日記とは全く違う。だから、安心して書くことにする。

 「万物は変化する」。時には「劣化」と呼ばれ、時には「向上・発展」と評されることもある。まさか劣化を望む者はないだろう。
 誰だって向上・発展を求めて日々努力している(筈だ)。それでも劣化してしまうものだから、困ったものだ。
 あ、先に言っておくけど、「現状維持」というのは「変化してない」、のじゃない。ちゃんと変化している。「現状維持」に見えるか否かは見る者が変化を見出そうと努力しているか否か、にかかっている。
 見る者が、向上・発展を見つけ出そうと前向きな気持ちで見れば向上・発展が見え、否定的な気持ちで見れば劣化の部分が見える。
 良いことも悪いことも事実は事実として原寸で見えればいいのだけれど、肯定的に見ようとすると、見詰めるため、原寸で見えるのが普通だ。
 けれど、否定的な気持ちで見ると、見詰めようとしないために不都合が必要以上にクローズアップされ、全体像をゆがめてしまうのが通常だ。「幽霊の正体見たり~」と核心を衝くなんてことは、まず、ない。一部の不備、欠点が、全体の致命的欠陥にまで見えてきてしまう。

 本の中にこんな一文があった。
    ↓
 「メーカー企業では、工場は現場と呼ばれて、もっとも尊敬されている。現場は製品の品質を最終的に決定し、現場から出荷された製品がそのまま顧客へ渡るから、絶対に手抜きができないメーカーの生命線である。どのようにすぐれたビジネスモデルや開発技術があろうとも、現場が悪ければ品質がおちるので、そのメーカーは衰退する。そのものづくりの労働の現実を、新入社員にたたき込んで教育するのが工場研修だ」
 ・・・・・・

 「すぐれたビジネスモデル」・「すぐれた開発技術」、というのが「向上・発展」に該当する。これがいくら望まれていても、肝腎の「工場」(それに取り組む姿勢)が肯定的(或いは全幅の信頼)でなければ、活かされる筈がない、ということだ。
 この同じ形が工場研修と同列に並べられた「販売店研修」にも見られる。
    ↓
 「販売店研修は、ダイハツの看板をかかげる販売店へ行って、ダイハツの商品や会社の評判を聞き取り調査することであった。この研修によって、外部からの声で、ダイハツを理解するのが目的だ。~(略)~ 」
 「~販売店といってもディーラーではなくて、いわゆる町のモータース屋さんをまわれと支持される。モータースへ行くと、たいていの店には社長たる親父さんがいて、ダイハツが好きなんだ、という話をしてくれる。ダイハツは歴史のある会社だし、地道に真面目にクルマをつくっているから信用している。ホンダみたいな派手さはないクルマだけれど、頑丈で丈夫で長持ちするのがダイハツのクルマだ、ということをおしえてもらった。ダイハツの製品を売って整備する、お客様と直接の関係にある、モータースの親父さんの意見だから、ダイハツというのは、こういう会社で、こういう製品をつくって、お客様に喜ばれているんだということが、すとんと腑におちるわけです」

 ・・・・・・
 この文も、同じく、まずは取り組む対象を肯定視するところから始まっている。
 これは何も「ダイハツだけの」、とか「ダイハツ独特の」、ものというわけではない。それどころか、どこの企業体、自治体、でも同じことが言える筈のものだ。ということは、国家の構想だって同じではないか。

 何かを向上・発展させたいと思うならば、まずその「何か」を肯定視し、見詰め、意欲を搔き立てることだ。
 そりゃそうだろう、「何か」を発展させたいのに(発展させようとして)否定的に見詰める、ということは、決して向上・発展にはならず、まずは破壊・解体して0から始めようとする、つまり「やり直す」ことにしかならないのだから。
 向上・発展のための「革新」はあっても、「革命(破壊・解体)」はあり得ない。
 これは「保守」というのが、実は物事を肯定的に見詰め、「革新」を繰り返すことにより、成り立っているということでもある。
 現状をただ否定する(或いはその都度、是非を問う)ことは、決して向上・発展にはつながらない。
 
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「ダイハツコペン開発物語」

2020年04月05日 | 心の持ち様
2017.05/25 (Thu)

 先日、万年筆のカートリッジを買いに行こうと三宮まで行った。
 同じ神戸市内ではあっても、住んでいるのは六甲山西端のベッドタウン。
 それでだろうか、近所に一軒しかない文具も置いてある書店に行ってみても、ボールペンはあるが万年筆は、ない。
 だから当然なのかもしれないけど、インクも置いてない。勿論、万年筆用の吸い取り紙なんてものはある筈もない。

 というわけで、仕方がない。駐車違反の切符を切られないかと、ひやひやしながら三宮の街中にバイクを停めた。速攻で買ってこなければ危うい。
 しかし、バイクを置ける場所は本当に少ない。あった、と思ったら大概125cc以下の「原付」までだ。

 それはそれとして。
 首尾よくインクカートリッジと吸い取り紙を手に入れたんだから、さっさと帰りゃいいようなものだが、この文具店(ナガサワ文具センター)、だいぶ前に自前(?)のビルを閉めて、本店を淳久堂書店内に構えている。
 だから、出入りの際には必ず書店内を通ることになる。
 ・・・となると、どうしても書籍の棚に目が向くことになる。

 最近(と言っても十年以上だけど)、老眼が進んで、本を読まなくなった。月に一、二冊読めば良いところだろうか。
 それでもここへ来ると、自然に二輪・車のコーナーへ足が勝手に進む。
 で、「ダイハツコペン開発物語」(中部勉)という本を見つけた。
 奥付を見ると、発行されてから、もう一年近くになるらしい。

 パラパラとめくってみると、前回の日記と同じく、やはり色々なことを肝腎な「知識」「見方」を抜きにして早とちりをして済ませていたのではないかと指摘されているような気がした。
 けれども、それよりも大きな「諸事に通ずる大事」を見落として、これまで生きてきたのではないか、と直感した。

 これは面白そうだ。
 当然、すぐ購入し、寄り道もせず帰宅した。
 その読書中に色々思ったことを早く書いておこう、ということで手始めに書いたのが、前回の日記だった。
 国家とか社会の「在り方とその発展」について考えさせられたことを書いておこうと思う。

 物事を皮相的に見て早合点するな、ということ。以前に或る方が書いておられた「韓国の鋼材は高くつくから使わない」と見事に結論付けられた話を読んだ時と、同じ質の得心があった。

 次回から、少しばかりそれを書き留めてみる。

 ~~~~~~~~~~~
 (昨年の日記から、関連部分を再掲↓)

 「検査に合格している安い韓国製鋼材を使わないのは何故か」
 「高くつくからです」
 「???」
 「(韓国製鋼材は)板厚が不均等で、硬さもばらつきが有る。多段曲げをすれば偏差が大きくなる」「ボンデ被膜が厚めで不均等。そのため溶接の際に溶着が安定しない」「結果、作業の度に確認、補正が必要となり、不安を抱えての作業になるから効率、品質が低下する」
 ということは、「明確に高くつく。だから私は使わない」。
 見事な説明だ。

 けれど、これだけ事を分けて説かれても、その時、質問者はとても実感などできなかっただろう。おそらく「はあ・・・」と分かったような分からぬような表情になり、煙に巻かれたような感じだけを抱いた、と思われる。
 いずれ数日、数ヶ月、いや数年後に「その時(分かる時)」は来るかもしれないけれど、多くの「取材」の一場面だったならば、ついに「その時」は来ないのかもしれない。
 子供の頃「見て分からん者は聞いても分からん」と子供同士からかい合っていたけれど、事を分けて話されたって当人にそれを把握する能力がないのだから、至極当然のことなんだ。

 口では「ほんの少しの工夫を積み重ねることで次の段階にいける~」と言うけれど、それは飽く迄も傍から「見た目」の話。
 当人からすれば寝食を忘れ、必死になって取り組み、「大発見!」と自身では思うような「大工夫」を次から次へと気が遠くなるほど重ね続けて、それでも次の段階へ行けるかどうか、というのが本当のところだろう。

 こうやってみると「ほんの少しの工夫を淡々と積み重ねて得た(と見える)もの」というのは、そのままコピーすれば同じようなものはできるかもしれないけど、実は全く似て非なるものしか作れない、と言えるだろう。
 それ以上に問題なのは、コピーする者は「ほんの少しの工夫」を「淡々と積み重ねた」としか見てないから、「本質」もそこに至る「試行錯誤」も自ら体験し、苦悩してきていないということだ。そのため、自身で次へ進める実力を養成していない、ということになる。

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至極当然(或いは浅知恵、早合点)

2020年04月05日 | 心の持ち様
2017.05/24 (Wed)

 昔、こんな話を読んだ。
 ジャガーだったか、英国製のスポーツカーを手に入れて乗り始めた人がいた。
 或る時、雨が降り出したので、慌てて幌をかけたのだが、走っていると雨漏りがする。
 「これは不良品だ!折角、高い金出して買ったのに」
 、と、腹を立ててディーラーに苦情を言う。
 「この車、幌をかけたら雨漏りがしたよ。どういうことかね」
 すると、ディーラー、しばらく考えて曰く、
 「お客様。もしや、雨の日に運転されませんでしたか?」

 何じゃ、そりゃ、と、読んでいて、つい噴き出した。
 英国と言えば、一年の大半が曇りか雨、の土地柄だ、と何かの本で読んでいた。
 「そんな土地で、オープンカーに乗るんだ、雨の日は幌をかけて走るに決まってんだから、雨漏りなんて、許されないだろう。そうか、英国車ってそんなにいい加減なのか」

 そんな風に、僅かばかりの知識で簡単に納得していた。早とちり、早合点、というより、ほとんど浅知恵による曲解だ。
 しかし、この早合点、致命的な情報不足から来たものだった。そのせいで、おそらくは百八十度違った合点になったのだろう。
 だから言い訳をしておくけど、この小話を案出した人も「上手い話を思いついた!」とその時はにんまりしたんだろう。
 「それじゃ『幌』掛ける意味ないだろ、って。一同、爆笑だな」とか何とか、考えたんだ。

 この話を読んだのは確か20代の前半。
 バイクも車も運転したことがなかった。この、肝腎なことが抜けた状態で、
 「英国製のスポーツカーはポンコツ。ジェームスボンドも大変だ」
 と呆れ、噴き出していたわけだ。
 
 「北風と太陽」の話を思い出すまでもなく、寒ければ重ね着をすればよい。けど、暑ければ脱げば良いかというと、そう簡単にはいかない。物事には限度というものがある。衆人環視、なんてことは無視するにしても、素っ裸になったら強い陽射しのために、熱中症や日焼けなどで、却って命の危険にさらされる。

 だから陽射しの強い時には幌を掛ける。
 つまり、幌は雨除けではなく、日除けが目的なんだ、ということだ。
 「お客様。もしや、雨の日に運転されませんでしたか?」
 というのは、至極当然な返答だったのだ。
 (まあ、「雨漏りがする」と聞いた段階で分かっていることで、そこが小話、ヒューマンジョークというやつなんだけど)

 その「日除け目的の幌」を、更に機能を高めたら、陽射しだけでなく「小雨をしのぐこともできる」という予想外のサービスもできた。
 当然、お客は喜ぶ。
 でも、オープンスポーツカー、というのは「強い陽射しの時だけ幌をかけてドライブを楽しむスポーツカー」なのであって、「雨の日にも幌を掛けてドライブを楽しむ車」ではない。雨のことは想定していない。
 飽く迄も「『雨以外の日』にドライブを楽しむため(だけ)」の車。

 あったらうれしいけれど、ないからと言って文句を言う筋合いのものではない。
 車が水中も走れればいいけど、買ってから「この車は水中を走れないじゃないか!」と文句をつけるのは変だ、と誰だって思う。

 初めに戻って。ディーラーは至極当然のこと、と思って
 「お客様。もしや、雨の日に運転されませんでしたか?」
 と返答した。
 勿論ユーザーの怒りに油を注ぐ結果になって・・・・。けど、そういうわけで、これは理不尽な怒りなのであって・・・・。

 「天皇は祭祀だけしていればよい。退位の必要はない」
 、と有識者会議で保守派の学者が言った、と、えらく喧しいことだった。
 けど、この新聞社の記事の書き方が酷過ぎることはともかく、その内容は間違っていない。
 本来、天皇は神勅を受けて祭祀を以て国を治めてきたのであり、退位云々は国民に相談することなどではなかった。
 逆に、国民が「国事行為が大事」だとか「いや、公務の方が大事」だとかいう捉え方の方が、とんでもなく早合点、浅知恵なんだが。

 「日除けのための幌」を、丈夫な布にしたために「少しの雨ならしのげる」、とユーザーに勘違いされた。
 そんなことと今回の学者の発言など、同列にするな!と叱られそうだけど。
 
 
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お花畑のひとつ

2020年04月05日 | 心の持ち様
2017.05/19 (Fri)

 「争いは良くない。同じ人間、仲良くできない筈はない」

 子供のころから言われていた。私が子供の頃なんだから、もう半世紀以上前のことだ。
 「ケンカはおやめ。お相撲を取れ」。こんなハヤシ言葉。これが養殖お花畑だ。

 外から見れば「ケンカをするより、相撲を取って力をぶつけ合う方が良い」、となって、そうすれば勝ち負けが決まってすぐ仲良くなれる、これで全て丸くおさまる、となる。まるで古代オリンピックだ。
 けど、考えてもみろ。相撲だって古代オリンピックの競技だって元々殺人技だぞ。それに無理矢理ルールを作ってゲームにしているだけだ。殺人技術をゲームにするわけだから、考えようによっては却って性質が悪い。早い話、ルールギリギリのところで危険な本性が現れる。

 周りからそういわれて、「ケンカ」でなくって仕方なしに「お相撲を取って」いる本人(当人)の心中はどうなのか。
 上から目線で、第三者は「ケンカより相撲で解決すればいい」、なんて気軽に言うけれど、戦っている当人同士の心中は本当に「相撲」だろうか。当事者は「相撲」という取っ組み合いの体裁で、力と共に「憎しみをぶつけ合う」ケンカをしているだけなのではないか。

 確かに、傍からどう見られようと、「憎しみをぶつけ合う」うちに(純粋に真正面から相手とぶつかり合う=正心誠意の衝突)、分かり合える部分が生れてくる「こともある」。
 でも、それは決して「ケンカはおやめ。お相撲を取れ」、みたいな余裕をかました「上から目線」の「画に描いた餅」みたいなものではない。一筋の共感の光、程度のもので、ましてや「全面肯定、大団円」なんてあるわけもない。同じ目的を以て師弟となった賀茂真淵、本居宣長の大論争の結果の仲違いを思い出せばわかることだ。

 それでも、この「一筋の共感の光」程度しか、結局は分かり合えない、と見極めた我が国の先人達は、この「一筋の共感の光」から、「相打ち」という境地を発見し、武道という「生き方」を作り上げた。
 
 憎しみを以てぶつかり合っても、それは具体的には戦略、戦術、技となるのだから、全身全霊、頭脳のフル活用でなければまともには発動できない。そんなだから、勿論、当事者である自分が、一歩離れて上から見てみる、なんて余裕は全くない。
 「お花畑」というのは、この全てのものを、「余裕をもって」「指導するように」或いは「ゴーマンかまして」、上から目線で見て、憐れんだり、馬鹿にしたり、否定したりすることだ。

 それこそ「同じ人間、そんなことできる筈がない」筈なのに。
 これを解くヒントは「戦争を、一番、嫌うのは軍隊だ」、という一言にあるだろう。
 いくさをせずとも、「血みどろになることを想像できるか、否か」、だ。
 上から目線で見て、「ゴーマンかまして」いるお花畑の住人には、それは想像できない。いや、それ以前に彼らはその想像すべきことから目を背けようとする。

 だから、点字ブロックの上に平気で椅子を並べ立て、「共謀罪成立阻止!」などと叫び続けることができるのだ。
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