2017.05/29 (Mon)
「新人は、朝から晩まで、試験車の整備をやらされる。クルマをジャッキアップして、ネジをゆるめて、タイヤをはずして、部品交換をしてブレーキやらスプリングを組みかえて、またタイヤをつけてネジをしめる。
こうして整備の方法とクルマの機構を覚えていくのですが、整備士の免許が取れるのではないかと思うほど毎日繰り返す。
先輩たちは、いともたやすく、そういう仕事をやって見せてくれるのですが、新人は整備を覚えるどころか、そもそもトラックのタイヤが重くて持ち上げられない。そういうことひとつとっても、先輩たちはすごいなと思いました。
係長さんに相当する組長さんになると、ブレーキの神様に見えてしまうくらい仕事ができる。そういう日々でわかってきたことは、クルマというのはメカニズムの塊であるということでした。ものづくりとはメカニズムづくりなんだとわかる。
しかし僕は電子工学の勉強しかしていない。メカニズムも材料も学んでいない。
そこではじめて、これはヤバイぞと気がついた。自動車の開発という仕事がわかっていないから、漠然とブレーキの電子制御の開発をするのだろうと簡単に考えていたけれど、メカニズムがわからなければ電子工学の知識があっても、ブレーキ制御の機構を考えることさえできないわけです。
ブレーキ実験の現場に配属されてみると、電子制御がどうしたこうしたなんてことはふっ飛んじゃって、とにかく自動車のメカニズムを学ばないと、ダイハツでは生きていけないと思った」
(ダイハツコペン開発物語 中部勉)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
これも、別にダイハツだけが特別変わったことをしているということではない。
一通り物事を把握した(と思っていた)者が、「その世界」に飛び込む。
「自分の実力ならこの世界を変えられる(向上させられる)」と、自信と余裕を持って入ってみる。
ところが自分が「把握した」と思っていたものは、あまりにも大雑把で尚且つ穴だらけの代物であり、とてもじゃないけど「世界を変える」どころか、自身、即戦力にさえなれないことを痛感した。
今までやってきた(把握した)と思っていたものが、不用だとか役に立たないとかいうのではない。それならまだいいけど「用いることができない」「役に立てられない」のだということが分かる。
把握したものを役に立てられない、ということは「把握したもの、そのもの」が駄目なのではない。自分にそれを「役に立てられる(使える)実力」がない、ということだ。
ならば、学んできたことはひとまず置き、とにかく把握の前段階(把握のための取り組み)を我が物にしなければならない。
(しかし、主観的には「ひとまず置き」なんて余裕は全くない。これまでの自分を全否定する、当人としては絶体絶命の状況なのであって、大げさに言えば決死の覚悟が必要なほど追い込まれている。)
ということで、まず電子工学の知識ではなく、「ブレーキ制御の本来の目的」、という初歩を見詰め、ブレーキに関する技術を使えるようにする。その上で初めて、袋小路打破の手段として電子工学の知識が必要になってくる。
まず、電子工学の知識でブレーキというものを把握していたつもりになっていた「自身」を否定し、次に「ブレーキの目的」について詰めた時、「それでは十全ではない」と気が付き、改めて否定する。
マルクス主義と違うところは、きちんと詰めた上での「肯定に基づく否定」が繰り返されているということだ。ただ否定する、だけでは、「会社」は潰れてしまうしか途はない。
新入社員の研修を「仕事の概要を知るためだけ」、「それぞれの部署の気持ちを分かるためだけ」、と捉えると、そこには「支配者と被支配者」、「資本家と労働者」の関係しか生まれない。これは公務員も同じだ。
勿論、そんなことでは「向上・発展」は望めない。
「肯定に基づく否定」、次に「肯定に基づく否定の肯定」に基づく否定、というのを行い続けてこそ、それぞれの社会(企業とか役所とか)で、向上・発展が期待できる。
「新人は、朝から晩まで、試験車の整備をやらされる。クルマをジャッキアップして、ネジをゆるめて、タイヤをはずして、部品交換をしてブレーキやらスプリングを組みかえて、またタイヤをつけてネジをしめる。
こうして整備の方法とクルマの機構を覚えていくのですが、整備士の免許が取れるのではないかと思うほど毎日繰り返す。
先輩たちは、いともたやすく、そういう仕事をやって見せてくれるのですが、新人は整備を覚えるどころか、そもそもトラックのタイヤが重くて持ち上げられない。そういうことひとつとっても、先輩たちはすごいなと思いました。
係長さんに相当する組長さんになると、ブレーキの神様に見えてしまうくらい仕事ができる。そういう日々でわかってきたことは、クルマというのはメカニズムの塊であるということでした。ものづくりとはメカニズムづくりなんだとわかる。
しかし僕は電子工学の勉強しかしていない。メカニズムも材料も学んでいない。
そこではじめて、これはヤバイぞと気がついた。自動車の開発という仕事がわかっていないから、漠然とブレーキの電子制御の開発をするのだろうと簡単に考えていたけれど、メカニズムがわからなければ電子工学の知識があっても、ブレーキ制御の機構を考えることさえできないわけです。
ブレーキ実験の現場に配属されてみると、電子制御がどうしたこうしたなんてことはふっ飛んじゃって、とにかく自動車のメカニズムを学ばないと、ダイハツでは生きていけないと思った」
(ダイハツコペン開発物語 中部勉)
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これも、別にダイハツだけが特別変わったことをしているということではない。
一通り物事を把握した(と思っていた)者が、「その世界」に飛び込む。
「自分の実力ならこの世界を変えられる(向上させられる)」と、自信と余裕を持って入ってみる。
ところが自分が「把握した」と思っていたものは、あまりにも大雑把で尚且つ穴だらけの代物であり、とてもじゃないけど「世界を変える」どころか、自身、即戦力にさえなれないことを痛感した。
今までやってきた(把握した)と思っていたものが、不用だとか役に立たないとかいうのではない。それならまだいいけど「用いることができない」「役に立てられない」のだということが分かる。
把握したものを役に立てられない、ということは「把握したもの、そのもの」が駄目なのではない。自分にそれを「役に立てられる(使える)実力」がない、ということだ。
ならば、学んできたことはひとまず置き、とにかく把握の前段階(把握のための取り組み)を我が物にしなければならない。
(しかし、主観的には「ひとまず置き」なんて余裕は全くない。これまでの自分を全否定する、当人としては絶体絶命の状況なのであって、大げさに言えば決死の覚悟が必要なほど追い込まれている。)
ということで、まず電子工学の知識ではなく、「ブレーキ制御の本来の目的」、という初歩を見詰め、ブレーキに関する技術を使えるようにする。その上で初めて、袋小路打破の手段として電子工学の知識が必要になってくる。
まず、電子工学の知識でブレーキというものを把握していたつもりになっていた「自身」を否定し、次に「ブレーキの目的」について詰めた時、「それでは十全ではない」と気が付き、改めて否定する。
マルクス主義と違うところは、きちんと詰めた上での「肯定に基づく否定」が繰り返されているということだ。ただ否定する、だけでは、「会社」は潰れてしまうしか途はない。
新入社員の研修を「仕事の概要を知るためだけ」、「それぞれの部署の気持ちを分かるためだけ」、と捉えると、そこには「支配者と被支配者」、「資本家と労働者」の関係しか生まれない。これは公務員も同じだ。
勿論、そんなことでは「向上・発展」は望めない。
「肯定に基づく否定」、次に「肯定に基づく否定の肯定」に基づく否定、というのを行い続けてこそ、それぞれの社会(企業とか役所とか)で、向上・発展が期待できる。