2013.04/21 (Sun)
「虚仮の一念、岩をも通す」、という言葉があります。
「念力、岩をも通す」と同様の言葉だそうです。
これ、ずっと「苔の一念」だと思ってました。苔は木や草と違って、岩肌の全く隙のないところにだって、張り付くようにして生きてますからね。
だからなりふり構わず、必死にしがみついて生き残ろうとする生命力の強さ、逞しさを言うのだ!と思ってました。
ところがどうもそうじゃないらしい。
最初に書いた通り、「虚仮の一念」が正しいということです。
何でも元々は仏教用語で、「虚」は虚ろで中身がない、「仮」は真実でない、或いは偽り、だから、「見てくれだけで中身がない」というのが「虚仮」の意味なんだそうです。
そう言われてみれば、「虚仮にする」というのは端(はな)からバカにして相手にしない、ということだし、「こけおどし」は「虚仮威し」で、「見た目は威(厳)があって立派だけど中身がない」ということです。
「外見と中身が違う」。だから、採るに足りないもの。
しかし、ここに「一念」がつけられると、途端に意味が変わってくる。俄然、侮れない強かな力と色を帯びてくる。
「虚」、「中身が(今は)ない」、「仮」、「形も出来てないバカバカしいこと」を、一念で以て必死に取り組み、現実のものにしようとする。
悪く言えば「バカにつける薬はない」みたいなものですが、そんな風に言う人はいません。却って「虚仮の一念」「バカの一念」は、「~バカ」と同じように、好意と、或る種の尊敬の目を以て見られる。でしょう?
「今」現在、は、思念の世界のものでしかないけれど、「虚仮の一念」、「念力、岩をも通す」で、思い続けて必死に取り組めば成ることもある。
「思い切ったら(覚悟を決めたら)少しも揺らぐことなく、それに集中する。」
これができそうで、できない。
だから、どうしても折々に冷静になって全体を見直そうとする。
困ったことに、周囲もそんなときに限って
「落ち着け。冷静になれ」
、なんて助言をしたりする。「善意の敷石」だ。
冷静になって全体を振り返って見ると、やらなければならないことは山ほどあって目が眩むほどだけれど、できていることはほんの僅かだ、と分かる。
それで「日暮れて道遠し」どころか、
「これ、目的地に着くんだろうか。それより本当にこの先に目的地なんてあるんだろうか」、と、もう絶望的な気分になる。
「これはもしかして間違ってるんじゃないか」
「まだやり直せるかもしれない!」
「やり直すならいつやる?今、でしょ!」
「やっぱり才能の問題かな」
「これやって何の意味があるんだ。文句言われるばかりで、揚句に『一番でなきゃ駄目なんですか!?』なんて決めつけられて」、とか。
そんなことを思い出すともういけない。肝腎なことを忘れてしまう。「できるかできないか」ではなく、初心、発心である、「何が何でもこれをやろう!」という気持ち。これを忘れてしまう。世間でいう「挫折」、というやつです。
で、その後ろ向きになった気持ち、消極的になった目で見ると、これまでやってきたことは失敗ばかり、に見えてくる。「反省」のつもりが「後悔」にしかなってない。
「ああすれば良かったのに。もう少しあそこで頑張っておけば良かったのに」
「今更やり直しは利かない。過ぎ去った時は戻らない!」
「もうやめよう。杜子春みたいに小さな幸せが手に入ったんだから、良いじゃないか・・・・」
昔読んだ話に、無学文盲ながら、まじないの言葉一つで、失せ物を見つけたり、問題を解決したりする人の話があった。
何でも、「このまじないは能く利くから」、と教えてもらったのを素直に信じて行ってみたら、不思議なくらいに何でも上手くいく。これは良い、と請われるままに人のために懸命にまじないをすると、他人の問題も面白いくらいに解決する。
それで評判になった。
それを聞いた禅宗の或る僧が、「それは奇特なことだ」と尋ねてきた。
禅僧が、どんなまじないなのか聞くと、その人は勿体ぶることもなく、そのまじないの言葉を教えた。
禅僧は聞いた瞬間に、それが経文にある言葉を聞き間違えたもの、と気づいたから、
「虚仮の一念、岩をも通す」、という言葉があります。
「念力、岩をも通す」と同様の言葉だそうです。
これ、ずっと「苔の一念」だと思ってました。苔は木や草と違って、岩肌の全く隙のないところにだって、張り付くようにして生きてますからね。
だからなりふり構わず、必死にしがみついて生き残ろうとする生命力の強さ、逞しさを言うのだ!と思ってました。
ところがどうもそうじゃないらしい。
最初に書いた通り、「虚仮の一念」が正しいということです。
何でも元々は仏教用語で、「虚」は虚ろで中身がない、「仮」は真実でない、或いは偽り、だから、「見てくれだけで中身がない」というのが「虚仮」の意味なんだそうです。
そう言われてみれば、「虚仮にする」というのは端(はな)からバカにして相手にしない、ということだし、「こけおどし」は「虚仮威し」で、「見た目は威(厳)があって立派だけど中身がない」ということです。
「外見と中身が違う」。だから、採るに足りないもの。
しかし、ここに「一念」がつけられると、途端に意味が変わってくる。俄然、侮れない強かな力と色を帯びてくる。
「虚」、「中身が(今は)ない」、「仮」、「形も出来てないバカバカしいこと」を、一念で以て必死に取り組み、現実のものにしようとする。
悪く言えば「バカにつける薬はない」みたいなものですが、そんな風に言う人はいません。却って「虚仮の一念」「バカの一念」は、「~バカ」と同じように、好意と、或る種の尊敬の目を以て見られる。でしょう?
「今」現在、は、思念の世界のものでしかないけれど、「虚仮の一念」、「念力、岩をも通す」で、思い続けて必死に取り組めば成ることもある。
「思い切ったら(覚悟を決めたら)少しも揺らぐことなく、それに集中する。」
これができそうで、できない。
だから、どうしても折々に冷静になって全体を見直そうとする。
困ったことに、周囲もそんなときに限って
「落ち着け。冷静になれ」
、なんて助言をしたりする。「善意の敷石」だ。
冷静になって全体を振り返って見ると、やらなければならないことは山ほどあって目が眩むほどだけれど、できていることはほんの僅かだ、と分かる。
それで「日暮れて道遠し」どころか、
「これ、目的地に着くんだろうか。それより本当にこの先に目的地なんてあるんだろうか」、と、もう絶望的な気分になる。
「これはもしかして間違ってるんじゃないか」
「まだやり直せるかもしれない!」
「やり直すならいつやる?今、でしょ!」
「やっぱり才能の問題かな」
「これやって何の意味があるんだ。文句言われるばかりで、揚句に『一番でなきゃ駄目なんですか!?』なんて決めつけられて」、とか。
そんなことを思い出すともういけない。肝腎なことを忘れてしまう。「できるかできないか」ではなく、初心、発心である、「何が何でもこれをやろう!」という気持ち。これを忘れてしまう。世間でいう「挫折」、というやつです。
で、その後ろ向きになった気持ち、消極的になった目で見ると、これまでやってきたことは失敗ばかり、に見えてくる。「反省」のつもりが「後悔」にしかなってない。
「ああすれば良かったのに。もう少しあそこで頑張っておけば良かったのに」
「今更やり直しは利かない。過ぎ去った時は戻らない!」
「もうやめよう。杜子春みたいに小さな幸せが手に入ったんだから、良いじゃないか・・・・」
昔読んだ話に、無学文盲ながら、まじないの言葉一つで、失せ物を見つけたり、問題を解決したりする人の話があった。
何でも、「このまじないは能く利くから」、と教えてもらったのを素直に信じて行ってみたら、不思議なくらいに何でも上手くいく。これは良い、と請われるままに人のために懸命にまじないをすると、他人の問題も面白いくらいに解決する。
それで評判になった。
それを聞いた禅宗の或る僧が、「それは奇特なことだ」と尋ねてきた。
禅僧が、どんなまじないなのか聞くと、その人は勿体ぶることもなく、そのまじないの言葉を教えた。
禅僧は聞いた瞬間に、それが経文にある言葉を聞き間違えたもの、と気づいたから、
「それは有り難い言葉ではあるけれども、ちょっと間違って居る。正しくはこうだ」、とその文言を教えてやると、まじないを能くする人は大変喜んで
「これでもっと多くの人が喜んでくれますね」
、と礼を言う。
禅僧は良いことをしたと思い、まじないを能くする人の方も、正しいことを知った、と同じく喜び、別れた。
さて、それから後、正しいまじないの言葉を唱えてみるのだけれど、ちっとも利かなくなってしまった。
仕方がないから元のまじないに戻してみたのだけれど、これまた、サッパリ利かなくなってしまった、と。
「これは正しいことだから上手くいく筈だ」
、とか
「これは概ね正しいけれど、ちゃんと詰めて見て置かなければ、そこが弱点となって失敗する」
、とか言うけれど、
「正しい」というのは何度か書いてきたとおり、「一を以て止む」「これしかない」と思い切り、虚仮の一念で向かうこと、と考えたら、
「正しいことだから上手くいく『筈』」
、と思った時点で、もう上手くいかないことが明らかになっている、と言えるのかもしれない。
「ちゃんと詰めて見なければ『そこが弱点となって』失敗する」
、というのも、『そこが弱点となる』と思った時点で後ろ向きになっているから、もう駄目、と言えるのかもしれない。
苔だって別にどうやったら上手く生き延びられるか、なんて考えているわけじゃない。ただ、その場で、それこそ「虚仮の一念」で張り付いて生きるだけだ。
苔だってできるんだから、我々人間、最悪の時のことを考えて(想定して)生きるのは良いけれど、でも「これしかない!」と思い切り、一途に、一所懸命に生きることを、また(何かに)真剣に取り組むことを、しなければ、「最悪の想定」のパワーに追い立てられて世の中に絶望するしかない、なんてことになるんじゃなかろうか。
「これでもっと多くの人が喜んでくれますね」
、と礼を言う。
禅僧は良いことをしたと思い、まじないを能くする人の方も、正しいことを知った、と同じく喜び、別れた。
さて、それから後、正しいまじないの言葉を唱えてみるのだけれど、ちっとも利かなくなってしまった。
仕方がないから元のまじないに戻してみたのだけれど、これまた、サッパリ利かなくなってしまった、と。
「これは正しいことだから上手くいく筈だ」
、とか
「これは概ね正しいけれど、ちゃんと詰めて見て置かなければ、そこが弱点となって失敗する」
、とか言うけれど、
「正しい」というのは何度か書いてきたとおり、「一を以て止む」「これしかない」と思い切り、虚仮の一念で向かうこと、と考えたら、
「正しいことだから上手くいく『筈』」
、と思った時点で、もう上手くいかないことが明らかになっている、と言えるのかもしれない。
「ちゃんと詰めて見なければ『そこが弱点となって』失敗する」
、というのも、『そこが弱点となる』と思った時点で後ろ向きになっているから、もう駄目、と言えるのかもしれない。
苔だって別にどうやったら上手く生き延びられるか、なんて考えているわけじゃない。ただ、その場で、それこそ「虚仮の一念」で張り付いて生きるだけだ。
苔だってできるんだから、我々人間、最悪の時のことを考えて(想定して)生きるのは良いけれど、でも「これしかない!」と思い切り、一途に、一所懸命に生きることを、また(何かに)真剣に取り組むことを、しなければ、「最悪の想定」のパワーに追い立てられて世の中に絶望するしかない、なんてことになるんじゃなかろうか。