CubとSRと

ただの日記

虚仮(こけ)の一念

2020年04月11日 | 日々の暮らし
2013.04/21 (Sun)

 「虚仮の一念、岩をも通す」、という言葉があります。
 「念力、岩をも通す」と同様の言葉だそうです。

 これ、ずっと「苔の一念」だと思ってました。苔は木や草と違って、岩肌の全く隙のないところにだって、張り付くようにして生きてますからね。
 だからなりふり構わず、必死にしがみついて生き残ろうとする生命力の強さ、逞しさを言うのだ!と思ってました。

 ところがどうもそうじゃないらしい。
 最初に書いた通り、「虚仮の一念」が正しいということです。
 何でも元々は仏教用語で、「虚」は虚ろで中身がない、「仮」は真実でない、或いは偽り、だから、「見てくれだけで中身がない」というのが「虚仮」の意味なんだそうです。
 そう言われてみれば、「虚仮にする」というのは端(はな)からバカにして相手にしない、ということだし、「こけおどし」は「虚仮威し」で、「見た目は威(厳)があって立派だけど中身がない」ということです。

 「外見と中身が違う」。だから、採るに足りないもの。
 しかし、ここに「一念」がつけられると、途端に意味が変わってくる。俄然、侮れない強かな力と色を帯びてくる。
 「虚」、「中身が(今は)ない」、「仮」、「形も出来てないバカバカしいこと」を、一念で以て必死に取り組み、現実のものにしようとする。
 悪く言えば「バカにつける薬はない」みたいなものですが、そんな風に言う人はいません。却って「虚仮の一念」「バカの一念」は、「~バカ」と同じように、好意と、或る種の尊敬の目を以て見られる。でしょう?

 「今」現在、は、思念の世界のものでしかないけれど、「虚仮の一念」、「念力、岩をも通す」で、思い続けて必死に取り組めば成ることもある。
 「思い切ったら(覚悟を決めたら)少しも揺らぐことなく、それに集中する。」
 これができそうで、できない。
 だから、どうしても折々に冷静になって全体を見直そうとする。
 困ったことに、周囲もそんなときに限って
 「落ち着け。冷静になれ」
 、なんて助言をしたりする。「善意の敷石」だ。

 冷静になって全体を振り返って見ると、やらなければならないことは山ほどあって目が眩むほどだけれど、できていることはほんの僅かだ、と分かる。
 それで「日暮れて道遠し」どころか、
 「これ、目的地に着くんだろうか。それより本当にこの先に目的地なんてあるんだろうか」、と、もう絶望的な気分になる。

 「これはもしかして間違ってるんじゃないか」
 「まだやり直せるかもしれない!」
 「やり直すならいつやる?今、でしょ!」
 「やっぱり才能の問題かな」
 「これやって何の意味があるんだ。文句言われるばかりで、揚句に『一番でなきゃ駄目なんですか!?』なんて決めつけられて」、とか。

 そんなことを思い出すともういけない。肝腎なことを忘れてしまう。「できるかできないか」ではなく、初心、発心である、「何が何でもこれをやろう!」という気持ち。これを忘れてしまう。世間でいう「挫折」、というやつです。

 で、その後ろ向きになった気持ち、消極的になった目で見ると、これまでやってきたことは失敗ばかり、に見えてくる。「反省」のつもりが「後悔」にしかなってない。

 「ああすれば良かったのに。もう少しあそこで頑張っておけば良かったのに」
 「今更やり直しは利かない。過ぎ去った時は戻らない!」
 「もうやめよう。杜子春みたいに小さな幸せが手に入ったんだから、良いじゃないか・・・・」

 昔読んだ話に、無学文盲ながら、まじないの言葉一つで、失せ物を見つけたり、問題を解決したりする人の話があった。
 何でも、「このまじないは能く利くから」、と教えてもらったのを素直に信じて行ってみたら、不思議なくらいに何でも上手くいく。これは良い、と請われるままに人のために懸命にまじないをすると、他人の問題も面白いくらいに解決する。
 それで評判になった。

 それを聞いた禅宗の或る僧が、「それは奇特なことだ」と尋ねてきた。
 禅僧が、どんなまじないなのか聞くと、その人は勿体ぶることもなく、そのまじないの言葉を教えた。
 禅僧は聞いた瞬間に、それが経文にある言葉を聞き間違えたもの、と気づいたから、
 「それは有り難い言葉ではあるけれども、ちょっと間違って居る。正しくはこうだ」、とその文言を教えてやると、まじないを能くする人は大変喜んで
 「これでもっと多くの人が喜んでくれますね」
 、と礼を言う。
 禅僧は良いことをしたと思い、まじないを能くする人の方も、正しいことを知った、と同じく喜び、別れた。

 さて、それから後、正しいまじないの言葉を唱えてみるのだけれど、ちっとも利かなくなってしまった。
 仕方がないから元のまじないに戻してみたのだけれど、これまた、サッパリ利かなくなってしまった、と。

 「これは正しいことだから上手くいく筈だ」
 、とか
 「これは概ね正しいけれど、ちゃんと詰めて見て置かなければ、そこが弱点となって失敗する」
 、とか言うけれど、
 「正しい」というのは何度か書いてきたとおり、「一を以て止む」「これしかない」と思い切り、虚仮の一念で向かうこと、と考えたら、
 「正しいことだから上手くいく『筈』」
 、と思った時点で、もう上手くいかないことが明らかになっている、と言えるのかもしれない。
 「ちゃんと詰めて見なければ『そこが弱点となって』失敗する」
 、というのも、『そこが弱点となる』と思った時点で後ろ向きになっているから、もう駄目、と言えるのかもしれない。

 苔だって別にどうやったら上手く生き延びられるか、なんて考えているわけじゃない。ただ、その場で、それこそ「虚仮の一念」で張り付いて生きるだけだ。
 苔だってできるんだから、我々人間、最悪の時のことを考えて(想定して)生きるのは良いけれど、でも「これしかない!」と思い切り、一途に、一所懸命に生きることを、また(何かに)真剣に取り組むことを、しなければ、「最悪の想定」のパワーに追い立てられて世の中に絶望するしかない、なんてことになるんじゃなかろうか。

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倭寇の刀法(素朴な疑問)

2020年04月11日 | 重箱の隅
2013.04/13 (Sat)

 一見、あまりにも単純でつい見逃してしまっていることに、実は色々な問題点が潜んでいることって、多い。

 「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」という事について考えたことがあった。
 負けるには本当に山のように色んな理由があるけれど、勝てるはずのない者に勝つという事は、そうそうあるものではない。
 けれど、偶然であろうが奇跡であろうが、それなりの信じられないくらいの僅かな可能性に乗った結果だ、ということは間違いないわけで、それが何故か分からないから「不思議の勝ち」と表現するしかない。
 それが「不思議の勝ち」だ。だから、実は不思議でもなんでもない。
 「答えを見出せなかった」だけのことだ。

 という事は、「敗因を反省し、分析する」より、「勝因を反省し、分析する」事の方が有意義だという事になる。
 で、その「勝因」って、単純でつい見逃してしまっていることの中にあるんじゃないか、という話。与太話ですよ。妄想だ、と思って流し見てもらえれば助かります。

 「反省には勝因も敗因も入ってるんだよ。何を今さらそんなことをちまちま考えなきゃならんのだ!」
 大方の大人はそう思うから、やらない。大人がやらないくらいだから、子供がやるわけがない。考える頭を持っている大人がやらないのに、まだ頭もできてない子供がする筈がない。

 先日の国会中継で、東国原氏が
 「子供の成りたい職業で政治家は百番をはるかに下回ったところにいる。総理はこれをどう思われますか」
 と聞いたところ、安倍総理
 「偶然目に入ったのですが、一つ上が『彫師』とありましたね。小学生で『彫師』なんて言うんですかね」
と、やんわり、あまり意味のないアンケートだ、といったようなことを応えていましたが、続けて意見を、と聞かれた新藤大臣、
 「私なら、その順位より、そんな答えをした小学生を叱りますよ。国政をなんだと思っているのか、と。これは家庭教育で教えるべきことではないですか。」

 東国原議員、ちょっと狼狽えたようで、それでも
 「叱るんじゃなくて、我々議員が、背中で教えるよう身を正すことがだいじなんじゃないですか」
 と反論していたけれど、「子供を育てる」、という事に対して、正反対の考え方をしていることが見事に表れていました。
 これだって、「つい見過ごしてしまっていること」です。「考えるための頭を『つくりつつある』子供」が、大人と同じ頭を持っている、と思っている。

 死ぬわけじゃないことなら、また、取り返しのつかないことになるおそれがないのなら、「一考の価値あり」、ってこと、そこら中にあるでしょう。
 「仙丹をつくる」と言って水銀を使って薬をつくり、服んで見たら死んじゃった。
 「だから、水銀は違う。やめときなさい」
 と墓に刻ませた道士がいるそうだけど、水銀服んで死んだ道士は、以降も何人も居たらしい。

 題名に全く関係のないことを書いているようだけど、さにあらず。
 ここから本題の妄想日記です。

 昔、「武備志」だったか、「紀効新書」だったかで、倭寇の刀法について書かれてあったのを見た。
 「倭人の持つ刀は五尺。倭人はとても敏捷で、一足で一丈ほども跳び込んで来るため、我が軍の短兵では届かず、長兵では間に合わず、一刀で倒されてしまう。」
 みたいなことが書かれてあり、早い話が
 「全く対抗策がない、お手上げだ」
 、となっていた。

 で、仕方がないので、特殊な槍をつくった。「梨花槍」、だったか。
 普通の槍を遣う同じ名前の槍術が有名らしいが、それとは違って仕掛けのある槍だったらしい。
 何でも、先に花火がついていて、倭寇に向けて火をつける。すると、瞬間に大変強い光を発する。倭寇が眩しさに目が眩んだところを刺し殺すのだそうだ。
 困ったことに、連続使用ができないことや、不発だったりすること。勿論倭寇は目が眩むのだけれど、自分等もかなり眩しいわけで、あんまり戦果を挙げたという話は書かれてない。
 まあ、そんな面白兵器のことは置いといて。

 「我が軍の短兵」というのは「兵士」ではなく「短い兵器」のこと。
 ここでは中国刀、正式には「単刀」(あの単刀直入、の単刀)、反りの大きい、片手で遣う、刀身5、60センチの刀を言う。

 「長兵」というのは、反対に柄の長い、一般に「大刀」と言われるもの。
 桁違いに大きい大薙刀、と言った方が良いかもしれない。刃渡りは4、50センチながら、柄が五尺ほどもあり、全体の重さが軽いものでも20㎏。重いのになると3、40㎏あるんだそうで、これで切り付けられると生身の人間はひとたまりもない。
 その代り、この大きさと重さだから腕力だけでは遣えない。一種の体術が必要で、そのための身捌きが十分でなければならない。武科挙(科挙には文挙と武挙の二科があったんだそうです。文挙ばかりだと思ってました)の試験では、この「大刀」の扱いが重視されたんだとか。
 これは京劇などでこの大刀(青竜刀)を使った立ち回りを見ればわかる。曲芸のように見えるけれど、あのようにしなければ遣えないのが長兵で、倭寇との闘いには、なるほど、欠点ばかりが目立つ。
 
 それに対して、倭寇は
 「一足飛びに一丈も跳び込み、五尺の刀を以て切り付ける」
 、とある。一丈は約3メートル。五尺は1,5メートル。
 「計4,5メートルも離れたところから、なんて、そりゃいくらなんでも大袈裟だよ。一足で3メートルも跳び込めるもんか。それに、刀は柄を入れても精々3尺から4尺だろう?明軍、どれだけビビりなんだ?」
 これが通説。

 「倭寇のあまりの強さに、誇張して書かれているのだろう。5尺もある刀なんて、遣えるものではない。」
 これで考えるのをやめていた。
 けれど大事なことが抜けている。
 3メートルを一足で、というのは確かになかなかできることではないけれど、二足ならどうだろうか。やってみたんでしょうか?
 「そんなのやらなくたって、ちょっと考えて見りゃ分かる」
 中には
 「おれは剣道をずっとやってきた。経験から考えるに、そんなのは無理だ」
 なんて言う学者もいるかもしれない。
 でも、しつこいようだけど、やってみたんでしょうか?
 跳び込む際に、左肩を前に出す半身から、身体を反転させたら?
 左足を前に出して置いて、大きく踏み出し、その勢いで右足を引き付け、その右足をそのまま蹴り足にして、左足が再度着地したと同時に身体を反転させ、右足を前に持って行けば?

 「それじゃ、4、5歩も踏み込んでいるじゃないか」?
 そこでこそ、「誇張して書かれているんじゃないか」という言葉が活きてくる。
 左足前で、一度や二度継ぎ足で踏み込んだって半身のままなら、相手からは「その場足踏み」にしか見えない。右足だけが大きく踏み込んだように見える。
 これで「一丈ほども跳び込む」ことが現実のものとなる。

 もう一つの、「五尺の刀」の件。
 「刀身が五尺」とは書いてない。「総長が五尺」、かもしれない。
 日本人なら、五尺と言えば刀身、と思う。だから「そんなバカな」、となる。
 けれど青竜刀のことを「大刀」と呼ぶように、刀身の長さを特筆する風はない。
 日本だって、実戦で用いられる刀、というのは柄が長くなければ不便なため、三尺を超える刀身の刀なんて、まず使われることがなかった。
 帯刀が儀礼的になって、定寸となったのは刀身が二尺四寸、柄が一尺弱。
 しかし、いざという時には、柄をもっと長いものに付け替えたという。吉良邸に討ち入った浅野家浪人は、大半が柄を二尺以上の物に替えていたと言われている。
 実際のところ、刀身が三尺もある刀は、柄も同じ程度の長さが必要になってくること、背負い太刀や大野太刀の現存している物をみれば、すぐ納得できるだろう。

 「五尺の刀」は三尺足らずの刀身に、二尺余りの柄をつけた長巻の可能性が高い。
 それで一撃離脱に徹すれば、その破壊力故に
 「短兵では届かず、長兵では迅速な進退についていけない」
 、ということになる。

 歩法と刀の形状から「倭寇の刀法」を見たら、明の分析は満更誇張でもないんじゃないかな、となってくるし、同時に倭寇の側からも最先端の技術(刀の形)と、工夫(歩法)が見えてくる。

 TPPなんかも同じ見方ができるかもしれない。

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誇りを持っている! ホント?

2020年04月11日 | 心の持ち様
2013.04/09 (Tue)

 十日振りに「夕刻の備忘録」からです。
 と言っても、いつもの如く、都合のいいところだけを採ってくるんですが。
 「是々非々という考え方はいかん!」と言われそう・・・・。
 でも、そういう事ではないんですよ。これをきっかけに色々考える。
 備忘録氏は「考えろ!」と言われているわけですからね。

 「政治家を信じたら、一蓮托生。彼らは国のために、と進んで腹黒く生き、死ぬことを選んだ。そんな彼らを選ぶからには、当然のことながら、『元となる己の考えは、考え抜いて』しっかりと持て」
 という事だから、国民としては常にしっかり考える努力を怠ってはならない。
 間違っても、他人の意見を聞くだけで分かった気になって、大して考えもせずに己が考えだと思い込んで、「是だ、非だ」とやってはならない。

 是非を一刀両断するのは己の研ぎ上げた己の刀で・・・・。
 いかん。ますます弁解になりそうなんで、

  転載開始!

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 朝日の頭は腐っているが、産経の頭は呆けている。
 産経は実に支離滅裂である。
 回線が寸断され、思考がバラバラになっている。
             
          (略)

 我が国の新聞の中では、比較的「まとも」だと言われながら、産経に対する支持が一向に拡がらないのは、こうしたまとまりの無さにある。
 言っていることと、やっていることが違う。
 一面と二面で違う、人が変われば違う。
 時期が変われば、また違う。

          (略)

 松下電器の凋落は、企業名の変更に始まった。その原因は変更理由にあった。
 歴史有る社名をマーケティングを理由に貶め、創業者を軽視することで、消費者との信頼関係を失った。
 社名変更手続きの折々に、グローバル企業とやらに向けた対抗心を見せ付けられた。ブランド戦略云々と聞かされた。
 軽薄とはまさにこのことである。「パナソニック幸之助」では元祖「経営の神様」も浮かばれまい。

 産経は危機を訴えながら、その同じページに汚らわしい出稼ぎタレントの写真を大写しにしている。分裂症だと言う所以である。
 タレントを突破口にして、日本文化に食い込み、食い込んだことを証にして、本来それは自分達のものだと虚言をなす。そして、国宝を盗み、島を盗み、領海を侵犯する。
 全ては蟻の一穴から発している。「その片棒を担いでいない」と言い切る自信が産経にはあるか。 

           (略)

 技術流出が本当に問題だと論じるなら、原子力発電所の廃炉にさえ世界最高の技術が必要だ、という当たり前の事実を、広く説くべきではないか。
 大学にその専門課程を作れと主張するべきではないか。
 先の見えない状態ではあっても、国家百年の計のためには、歯を食いしばって頑張って欲しい、と激励するべきではないか。

          (以下略)

              「共犯の自覚無き産経新聞」

               ~夕刻の備忘録~より
                    
   ~http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-911.html

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 手前勝手な引用なんですが、大筋は外れてないと思ってこんな風な採り方をしました。
 題名にした通り、「誇りを持っている」と言いながら、とてもそうとは思えない行動を採っている。それで、「誇りを持っている!ホント?」。

 私自身「日本人であることに誇りだけは持っている」と思っています。
 そして、これは度々書いていることなんですが、
 「日本に生まれただけでは日本人とは言えない。日本をより深く分かろう、日本人になろうと努力しなければなれる筈もない。何故なら、この日本文化、日本文明は、初めっからここに存在していたものではなく、我々の祖先、先輩方が一所懸命に作り上げ、積み重ねてきたものなんだから」
 という意識を持ってこそのものと思っています。

 「日本に生まれてよかった!」「日本人で良かった」等は言えても、「日本人だから生まれつき手先が器用」とか「日本民族は最優秀」みたいな「先天性OK!」みたいなのって、それ、誇りでしょうか?

 松下電器の誇りって何だったんでしょうか。
 松下幸之助の立てた創業の精神だったのか。
 それともマーケティングの面で世界一になろうとする大いなる野望だったのか。
 「創業時の大志」か。
 「世界一を目指す野望」か。
 後者を採ったのだ。だから、知名度の高いパナソニックにした?

 東京大学の誇りって何だったんでしょうか。
 日本一の最高学府であることじゃなかったんでしょうか。
 9月入学で世界の学生を配給される列に並び、名を知られることだったんでしょうか。
 後者を採ったのだ。だから四月はやめて、9月にした?
 「商売だ。理想だけではやっていけん」
 「日本の学生より隣国の学生の方が優秀だ。背に腹は替えられない」

 新聞社は「社会の木鐸」。
 と言って、正論を述べ、儲けは二の次、なんて言ってると購読者が減ってしまう。
 だから、社の方針にそぐわない広告でも載せるしかない。
 「偏っていると言われるより、両論併載の方が」。
 やっぱり「背に腹は替えられない」?

 百歩譲って、三例とも「背に腹は替えられない」としましょう。
 「言行不一致」ということになりますけど。
 「商売だから、仕方がない」、という事で通しましょう。

 さて、そこで、気になること。
 「それじゃ、商売ってのは誇りより大事なんだ」
 となるわけですが、そこで考えること。
 「だったら商売って、どれだけ下らない職業なんだ?」

 これ、書き間違いではありません。
 「仕方がない、背に腹は替えられない。だから嫌々ながらそうするしかない」
 ということでしょう?それが商売だ、と。

 嫌々ながらやってる仕事。誰からも感謝されず、本人もやっていて義務感どころか嫌悪感さえ持って取り組んでいる仕事。それが商売。
 ということでしょう?
 だから「商売だから、仕方がない」、となるんでしょう?

 無理やりなことを書いて来ました。本当は商売ってそんなんじゃありませんよね。商品の行き来がみんなを幸せにする。本当はそれが商売だ、と思います。 

 「仕方がない」とか「背に腹は替えられない」とかじゃなくて、
 「お客さんの笑顔が、『ありがとう』の一言が何よりうれしい」
 それが商売でしょう。
 世界の非常識かもしれないけれど、日本の常識でしょう。
 その意味なら、大学だって、新聞社だって同じじゃないでしょうか。
 「誇りを持ってる」って、口に出したり行動したりするより、そのことについて考え続けることの方が大事だし、そっちの方が難しい。

 でも、我々の祖先、先輩方は神武創業以来、営々として「一所懸命」を積み重ね、誇れる我が国を造って来られたんですからね。
 我々が負けてるわけにはいきません。
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主権回復の日=屈辱の日?

2020年04月11日 | 重箱の隅
2013.04/07 (Sun)

 「狼魔人日記」に、「4・28屈辱の日県民大会」には、自民党沖縄県連は不参加の表明をした、と書かれています。

 「4・28屈辱の日県民大会」というのは、勿論政府主催の「主権回復の日」記念式典に反対する意味合いで開かれるものです。
 最近、このことに関する「天皇親政」のこと、アサヒ新聞の天声人語欄に「沖縄を人質にして独立した」などと酷い書き方がされていたこと等、日記に書いたのですが、そのことについても、「狼魔人日記」に転載されている文があります。果たして沖縄は「切り捨て」られたのか

 さて、今回は狼魔人氏のブログの「おまけ」となっている一文が「お見事!」
と思ったので、そこだけ転載させてもらいます。

 狼魔人氏、グッドジョブ!
 琉球新報さん。お見事!同じ新聞とは思えん。
 まるで「新生」朝日新聞じゃあないか!

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
                (転載開始)

  【おまけ】

 沖縄2紙は1951年9月8日に調印、翌1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約を県民が「屈辱の日」と捉えていると喧伝するが、条約発効当時の沖縄2紙も同じように「屈辱」だと報道していたのか。

 当時の両紙のコピーを取寄せ検証してみた。
 
 驚いたことに紙面のほとんどは「祖国日本が独立し、世界の仲間入りした」という事実を祝す記事はあるが、これを「屈辱」と表現した記事は一行もない。

 一例を挙げると、条約調印の翌日の琉球新報(1951年9月10日)は次のような大見出しで新生日本の門出を祝福しているではないか。

 *****************

 対日講和

 慶びの新生日本の門出

 瞼にしみる日の丸の旗

 *****************

 いやはや到底同じ新聞が書いた記事とは思えない。
 思わず我が目を疑ってしまう大見出しだ。
 何が「屈辱の日」だ!(怒)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ね?
 「占領よさようなら」、と書いた当時の天声人語子の思いを、今の編集子は見事に踏みにじってるけど、琉球新報の見出しだって。

 いや、今の記者はそんな昔の記事なんか、読み直そうなんて思いもしなかったのかな?
 それとも「読まなかったことにしとこう」、と頬被りを決め込んでるのかな?

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数稽古の目的(思い違い)

2020年04月11日 | 心の持ち様
2013.04/06 (Sat)

 数稽古というのは実に合理的な稽古方法です。
 技を身に着けることと同時に身につけねばならない物の考え方、感じ方、そして境地(心境)までもつくる機会とすることができるのですから。

 一点(一技)に集中して、身心共に疲労困憊させ、簡単な判断しかできないところまで自身を追い込む。「簡単な判断」とはたとえば「目標三千回。三千回やり切ったら『できた』と認める」みたいなことです。その間の技の、細かな出来不出来に関してはとやかく言わない。
 とにかく「何が何でも(気持ちの上では)普段に稽古でやっていることを一切気を緩めることなく、やり切る」。

 力一杯、気を緩めることなくやっていれば、けれど無理をしているところが足を引っ張り始めます。それが「痛み」として出てくる。
 疲れはそれで増幅され、もう、途中で技はへろへろになる(かもしれない)。

 そのへっぽこになってしまった技を、それでも気力だけで繰り返していく。
 そうこうするうちに、手抜きをするわけじゃないけれど、何も痛い思いをしてまでその無理な身体の遣い方をしなくたって技を使うことができるように、身体が勝手に加減(工夫)をし始める。
 朦朧とした、簡単な判断しかできなくなった頭が、
 「あれぇ?力を込めなくても身体が勝手に動くじゃないか!」
 と感じる瞬間がある。
 これが数稽古の目的でしょう。身心共に「在り方」を感じるようにする。

 さて、対して「歩くことに神経を使う」。その割合が高くて、周辺のことに注意を払えない。
 「脚力の復旧のために歩き始めたのではない。飽く迄も運動不足解消のためだ!」
 なのに、歩くことに神経を使わなければならない???

 ここには、全てを引っ繰り返した理屈がありそうです。
 我ながら考えてみれば変ですよ、目的が。「運動不足解消のため」と言ってたけど、これ、本当に目的だろうか。
 目的って「達成」をめざすもの?「達成したことで得られること」こそが目的でしょう。

 「運動不足の解消を達成する」って、ほら、変です。
 「運動不足の解消を達成する目的のために何とかかんとか」って書かれると「目的」という言葉が入ってるから何となくそう思ってしまうけど、目的って最終目標とよく似てるけど、目標は目標であって目的じゃない。

 「運動不足の解消」の先に「目的」がある!
 
 あ、忘れてました。
 「ブクブク太ってしまった」から、「運動不足だ」と分かり、それを何とかしようと「歩く」、となったんでした。
 それを机の上で、「運動不足」だから「ブクブク太ってしまった(と分かった)」、と、まるで正反対の捉え方をしていた。 
 「ブクブク太った」から、「運動不足」だと気づいたんでした。

 「運動不足だから」と言うのは優等生の考え方。いきなり、不動の模範解答が出ている。あとは理由の説明でしかない。
 「ブクブク太ったから」という方は、事象を見詰めて、そこから原因、答えを導き出そうとする。

 「太ったから運動不足だと気付いた」
 「歩いてみたら、足腰の衰えが実感できた」
 「足の遣い方に神経を注がねば旧に復することはできないと類推した」
 一点に集中することで不都合な部分が明らかになり、明らかになったところに注意しながらそのことを繰り返すうちに修正が施され、それなりのまとまりを見るようになった頃、ふと気が付くと新しい境地(世界)が見え始めている。

 還暦に近づいたただの怠け者と、この数稽古。そのレベルには雲泥の差があるけれど、その取り組むべき形、その仕組みそのものには共通点が多いようです。

 TPP交渉参加の件も、道州制も、衆院選の違憲判決も、その0増5減の提案への各党の対応も、同じ形で見ることができるような・・・・・・。

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