CubとSRと

ただの日記

討論番組

2020年04月18日 | 重箱の隅
2010.07/06 (Tue)

 初めて「TVタックル」をみた時は、衝撃を受けました。これまで見たことのある討論番組とは全く違っていた。
 それまでの討論番組はちっとも面白くなかった。
 何しろ、これまでの討論番組は、出てくる人の服装が酷い。「汚い」か、「野暮」か、のどちらかでした。

 「討論に服装なんか関係ない!?」
 いえいえ、大事なことですよ。人は見た目が大事です。いくら高価なスーツだって、袖に、大きなタグをつけたままじゃ笑われるだけです。ネクタイをしないけど、アスコットスカーフはしています、くらいでなきゃ、テレビに出るべきじゃない。

 「朝まで生テレビ!」ってのが、70年代安保からべ平連等で、毎週のように大激論を戦わしていた、というのは知っていたものの、討論にならない自己主張の繰り返しで、大概、嫌気が差していたんです。
 テレビは、やっぱり現実であって現実でない、「魔法の箱」の一面を持っています。
 その魔法の箱に、現実と同じ、汚いか、野暮な格好をしたのが出てきて、毎度、性懲りもなく(人の話を聞かず)延々と自己主張を繰り返す。
 聞き終わると、反論という事になるのですが、その反論、相手の話を聞き終わってから、論理の破綻を、となると、時間がかかるし、間が空いてしまうから、と、(反論ではなく)人の話を聞かず、自分の言いたいことを口にするばかり。
 ソクラテスの「無知の知」なんて、あの場では、誰も思いもしない。

 結局、毎回、自己主張大会が「朝まで」続くわけです。
 でも、「日本はこのままで良いのか」という気持ちは強かった、と言えますか。普通なら、誰も見なくなるような番組なんだけれど、変に人気がありました。

 何故、人気があったのか。
 間で誰かが、掟破りの割り込みをして、討論の場が「荒れる」からなんです。勿論、ただの野次馬根性じゃない。
 論の展開が視聴者からしてみると、面白くない、勢いがない、何を言っているのか分からない、と感じられた時、出演者の誰かが割り込んで、議論を盛んにしたり、視聴者の苛立ちを代弁してくれたりする。その時、感情移入が為されるからです。

 「そうだ!よく言った。その通り!」「よっしゃ!もっと攻撃しろ。泣かしてしまえ!」
 殴り合いもあったかもしれません。怒鳴り合いはしょっちゅうだったみたいです。(何時何分頃、大島監督が怒り出す、と台本にあった、というのは都市伝説でしょうが。)
 それが段々下火になってきたのは、冷戦の終結以降でしょうか。世界規模の論点だったのが、局地的になり、その分、規模も小さくなってきた。面白がって見る番組ではないし。

 「TVタックル」は、関口宏とビートたけしの、司会二人で始まったんじゃないでしょうか。何だか、毎回、番組終了時に、ビートたけしが不機嫌そうな顔をしていたことを覚えています。
 大体一時間の中で、話題は一つか二つ。司会は言葉を投げ掛けるだけで、進行役が別の場所に居る。新しい手法でした。これなら自由に話し合える。
 何より、司会進行役を司会と進行に分けたことで、司会者は活発な討論の場をつくることだけに、力を注げば良くなった。その話題に詳しくなくとも、いや、そうでない方が、場を盛り上げるのに良い。

 司会者は、発言の場、発言者を茶化し、笑いを取り、緊張感を和らげ、「そんなにカリカリしない方が、いい話し合いができる」、と発言者にも視聴者にも思わせた。
 こうなると、関口宏は旧来の司会進行から抜けてないわけだから、ブレーキになってしまう。早々にビートたけし一人になったのは、その故だろう、と勝手に思っています。
 野暮な出演者が長時間、時には激しい怒鳴り合いも交えながら、でも、野暮なままでやっていた、「朝まで生テレビ」。それ以前の退屈なだけのNHKの討論番組。

 それが「TVタックル」で、ネタ振りをして、それぞれが短時間に言いたいことを言う。面白くなかったら、割り込みができるよう、司会者が誰かに即興で質問をする。そこで発言者が反論し、他の参加者が発言する。
 番組の終わりで、一応、終結、まとめをする。けど、当たり障りのないまとめをしたって、まとまらない。
 活発な話し合いを、番組の中心においてあるから、本来、話のまとめようがない。
 で、連歌のように、終わったような、終わってないような、ちょっと気の利いた科白を持って来る。

 司会のビートたけしは、基本的にそれを仕事として、盛り上げる仕事はアシスタントに。(昔は壇ふみ、今は阿川佐和子)
 大竹まことが素人代表、三宅久之が頑固爺代表。
 あとのゲストと並べてみると、ちゃんと各層から出演していることが分かります。
 だから、専門家、或いはその方面の関係者が集まってやる討論番組とは違って、話のレベルが高過ぎてついて行けない、ということにはならない。
 つまり、TVタックルってのは討論番組、というよりも、「男の井戸端会議」「参加型床屋政談」、というべきでしょうか。

 ということは、あれは、娯楽番組なんですね。
 討論番組を娯楽番組にしてしまった!
 (「そこまで言って委員会」は、その長所を取り込み、より高いレベルにしています。話のレベルも娯楽性も。)
 娯楽番組、ということを忘れず、でも、本気で見る。
 日本人の意識って、やっぱり、相当にレベル、高いです。

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割り込みはテロルだ

2020年04月18日 | 重箱の隅
2010.07/05 (Mon)

 テレビを見ると、今日は各党の幹事長が、「報道2001」と「NHK討論」の掛け持ちだったらしく、枝野幹事長、大忙しです。
 「報道2001」が、何だか、例によって焦点が定まりかけると、次の話題に、とやって煮え切らなかったのを、NHK討論が引き継いだ格好でしたが、何とさすがに(?)NHK。各党の幹事長、或いはそれに近い人を、全部呼んでいる。
 「新党改革」が荒井広幸議員、「たちあがれ日本」が園田議員、ですよ。
 初めてゆっくりこの両党の意見を聞けました。

 面白かった。NHKは台本があるのだろうな、とはっきり感じます。
 時間配分、展開に至る質問、全て決まっているのは分かるけれど、どうも喋る時間も秒単位でやっているようです。他の人が喋っているのに割り込んで、反論する、という得意技を、あの幹事長は、ほとんど使えませんでした。

 以前にも書いたことですが、どうも議論の成り立たない理由をはっきりさせていない。
 そのまま、(学者はさておき)国民の話を聞かなければならない「代弁者」という名の国民の代表である国会議員は、まず、最低の条件として、「国民の話を聞いている」筈です。
 それは自党だけではない。他党の議員も同じく彼等の「在りよう」で、国民の話を聞いて来ている。
 つまり、みんな、討論の場には「国民の代表」として、集まっている筈です。

 ならば、まず、相手の議員の話を最後まで聞いて、それから、やおら、順を逐いながら、相手の批判、批難、或いは、質問に答えていかなければならない。
 そんなの当然すぎるくらい当然のことです。
 代議士というのは「言論」という武器一つで、相手と戦うのです。十二分にその力を発揮して、真っ向勝負を挑むのが彼等の仕事です。
 「国民の信託を受ける」というのは、この「真っ向勝負をやります」といった姿勢を、国民が認めて、各個人の権利を託してくれることを言うのでしょう?

 だから、まずは、国会では言うまでもなく、テレビだって、誌上だって、およそ「公開討論」と名がつく場で、相手の言論を遮って、自分が喋る、なんてのは、言語道断のことなんです。
 勿論、街頭演説をしているところへ、割り込んで演説を始めたり、拍手をしたり、囃し立てたり、シュプレヒコールを繰り返したり、なんて「テロル」と同じことなんですよ。それを常識として、知ろうともしない人間が選挙活動をしている。
 それも与党の人間がそれをする、ということがあれば、既にそれは民主主義に対する破壊行為、「言論の弾圧」と同じことなんですから、逮捕されてしかるべきこと、ではあるんです。本当はそうなんですよ。

 さて。
 こんな「討論」の場で、あまりにも簡単な「相手の話を最後まで聞く」、ということが、何故、実行されないんでしょう。
 答えは簡単。「不安」なんです。

 最後まで聞いたら、相手の論が破綻することなく完結してしまう。
 完結してしまうと、これまで反論しようと思ってメモしてきたり、頭に留めていたりしたことが、論拠のないものになってしまう。

 もともと、「自分の考えの正当性を主張する場」である筈の討論の場、なんですが、それが、聴衆を意識したものである以上は、「持論の展開より、まず、相手の論を打ち破った方が効果的だ。」

 そう思うから、討論には「持論の展開はいつでもできる。まず、相手を打ち破ろう」、と言い負かす気、満々で臨みます。
 文句を言うつもりで聞いているのだから、全体を把握して、「貴方はこういうことを言いたいんですね」、なんて親切なことはしない。
 「最後まで聞くことはない。途中で論理の破綻があれば、結論が正しくなるわけはないんだから」とばかりに、途中で切り込んでいく。

 「敵と向かい合って、隙ができた時、そこに間、髪を入れず、切り込まなければ、次の瞬間には、隙は消えてしまう。」そりゃそうです。
 けれども、「言論」という武器をつかって行う、「討論」という真っ向勝負は、「理と理」のぶつかり合いであって、勝負とは言っても、相手の隙を衝いて「倒す勝負」ではない。
 そんな根本的なところを、割り込みが得意な議員は、わかっているとはどうしても思えない。

 「まず、話は最後まで聞く。」
 心配しなくても大丈夫ですよ。最後まで話をさせて、それから反論したって大丈夫。
 最後まで、言わせたからって、見事に完結してしまうとは限らない。
 必ず、欠点は見つかる。それに相手は逃げやしない。後で追及したって大丈夫なんですから。

 それでも、欠点が見つからなかったら?
 潔く「参りました」と言いましょう。討論なんですから。
 国政は正しい考えで執り行わなければならない。
 言い訳は見苦しいだけでなく、国家存亡の危機を招きます。

 「10パーセント案、パクリました。」
 「強い政治、強い経済、のフレーズ、他党のマネしました。ごめんなさい」
 
 そういう風に、ちゃんと謝ったら、
「さすが、与党だ。我々が選んだだけのことはある。潔いじゃないか。」
と、また支持する人が増えますよ、きっと。
 増えなかったら「身から出た錆び」と反省したらいい。

 これ書いたの、一週間前です。
 今日の新聞見たら、「内閣支持率39%に急落」って。

 謝ってないですよね?
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技術が40%、人間が60% 秋山木工

2020年04月18日 | 心の持ち様
2014.04/05 (Sat)

 今朝、「モーニングバード」の人物大図鑑というコーナーで、「秋山木工」という会社の社長のことを採り上げていました。
 何でも、新入社員はみんな丸刈り、ケータイ禁止、恋愛絶対禁止。
 で、仕事はまず、掃除。次は掃除。それから掃除。とにかく掃除。
 勤務時間はみな掃除。
 今年新入の女子社員は、自ら、覚悟の為と丸刈りになっていました。

 「やっぱり、どこでも同じなんだな、習い事というのは」というのが私の感想です。
 それというのも以前にこんな日記を書いていたからです。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

            (略)

 鵤(いかるが)
舎では、新聞、テレビ、車にバイク、(もしかしたら、いや、きっとケータイも)全てなし、だそうです。
 「車やバイク禁止、はよくあることだから、わからんでもないけど」、と思った人。それは早合点です。クルマ、バイクは逆にかわいいもんです。

 「新聞もテレビもいらん。」西岡氏の教えです。
 「どうしてですか?」
 「気が散る」
 とにかく、弟子入りしたら、そういうものは、一切不要。
 鑿と砥石だけ渡す。

 現場に行けばできることは、というと何もない。
 かろうじてできるのは掃除だけ。弟子入りしたら、掃除をすることと、食事をつくる当番の中に加わること。これで(掃除をするだけで)、給料をもらいます。

 というわけで、
 ①しょっちゅう掃除をする。・・・ここで何を学び取るのでしょうか。
 ②仕事(掃除ですが)を終えて工舎に戻る。団体生活です。先輩の生活リズムに合わせての行動。・・・ここで、何を学び取るのでしょうか。
 ③夕食後、道具の手入れ。先輩は、時には鑿だけでも十本以上研ぎ上げます。人によると、日付けが変わる頃まででも手入れをしている。(イチロー選手みたいでしょう?)
 弟子入りしたばかりの者は、一本の鑿を見よう見まねで研ぐ。
 先輩が十本、二十本やっているのを横目で見ながら。
 誰も自分のことで精一杯。相手をしてくれません。・・・・ここでは、何を?

 こういった毎日を積み重ねるうち、①で仕事の手順を、「頭」と「身体(感覚)」で覚えます。
 掃除をすれば、仕事の段取りが「理解」できます(頭、です)。
 掃除をすれば、鉋屑の具合で段取りの進行具合がわかります(感覚です)。
 最初は厚い、ざっくりとした鉋屑が、作業が進むにつれて、ドンドン薄く、滑らかになり、終いには向こうが透けて見えるようになる。
 掃除で仕事の概要を理解する。鉋屑の変容で仕事の中身を分かる。

 ②では、職人としての生活のパターンづくりを倣います。如何に無駄のない、同時に、腕を磨ける生活をしているか。
 新聞やテレビで情報を得るより、先輩の行動をトレースすることで、自身を再構築していくわけです。身も心も、です。

 ③は、意欲を以って行動することを、常態とする修行です。鑿を研ぐことは、大工の必須条件である、「これを遣ってみたい」という心を育てることになります。でなければ、仕事は続かないのですから。

 集中力がここでつくられ、毎日の繰り返しで持続力につながり、持続力が増せば、集中力も以前とは比較にならないほど向上している。
 ここに「量質転化」が見えるでしょう?
 先輩との共同生活の中に、「対立物の相互浸透」もある。だから人間も変わっていく。
 「きれいな鉋屑が出るまでに十年かかるって俺はいってるけど、実際そんなのはもっと早くできるんだよ。できるんだけれども、まだまだきれいに削れるだろうと思って一所懸命やる姿勢が大切なんだ。」

 「新聞もテレビもいらん」「どうしてですか?」「気が散る」
 
  「一芸に達すれば」の日記から

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて、標題なんですが。
 秋山氏は「技術は教えないんだ」と言っています。
 「それよりも人間性が大事なんです。自分勝手な奴が人のために優しくなんてできない。」
 人のことを思ってやるからこそ、技術もついていく。
 これ、謙虚さから生まれる思い遣りが、技術をも向上させる、ということだと思います。前回書いた剣術の師範の話と重なっているんじゃないでしょうか。

 「うん。あれは強くなったが、品がないな。いや、品はなくともかまわんがな」
 一代限りなら構わないけれど、全てのことは最良のものとして伝承する努力をしてこそ我々の世界ですからね。その大本は謙虚さと思い遣り。
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「迷惑料十億」その後。

2020年04月18日 | 重箱の隅
2013.06/29 (Sat)

 世の中、前後を見なければ分からないことだらけ。
 なのについ、その時入ってきた情報だけで反射的に思ったことを口にしたり、心に留めたりします。
 「考える」とか「思う」、までも行かない反射的な、「感じ」だけの「思い」、で終わっているんじゃないでしょうか。そんなこと、ありません?

 それに「人のうわさも七十五日」、なんて言います。つい先日のことだって思い出したり調べたりしてまで考えをまとめよう、なんてまず、しないでしょう?
 「えっ?そんなこと言ったっけ?ああ、そういえば言ったような気もするなあ」
 、なんてね。
 私だけですかね、そんないい加減な奴は。
 あ、でも「ガソリン値下げ隊」のメンバー、その後の始末を聞かれ、「そんなことありましたっけ?うふふ」って返答したこと、ちゃんと覚えてますよ。


 与那国島に自衛隊配備を、という件につき、誘致推進派の町長が「迷惑料に十億要求」、とのニュースが全国に配信されたと思うんですが、町長が大顰蹙買っただけで、後、どうなったか、何も聞かなかったように思うんですが。

 大体が誘致を目指していた町長が「迷惑料」、だなんて、なんかおかしいな、と思い、それが事実なら、町長、ただ金が目当てだったのか?それにしても「迷惑料」は「変」過ぎるだろう、と思っていました。
 それが一転、配備が決定しそうだ、となったんですが、僅かな新聞情報だけでは、全く経緯が見えてこない。
 このままでは、外間守吉町長一人が「大悪人の守銭奴」認定されそうです。
 (売国奴、ではありませんよ)
 
 という事で、「狼魔人」日記の部分転載を三つ、並べようと思います。
 並べたら、町長が大悪人かどうか、見えてきそうです。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「本日決着か!与那国町陸自誘致」
                2013-06-17
 一地方地域住民の代表である首長が第一義的に考えるのは地域の発展であり利益の導入である。
 自衛隊の与那国誘致に関する交渉で、対峙した防衛省側と与那国町長はお互いの主張で真っ向から対立し、お互いが提示した借地料の格差が大きかったため、与那国町長が不用意に放った「迷惑料」が一人歩きし、外間町長が窮地に陥った。
 住民の期待を一身に受けた外間町長は、誘致反対派のみならず賛成派からも「国賊」扱いされ、一時は誘致も頓挫するかの報道もあった。

 だが、そもそも国の安全保障を担って誘致交渉に臨んだはずの防衛省側が、一度交渉が不調に終わったからと言って、すぐに「別の地域への配備」を新聞に漏らしたことが不可解である。
 自衛隊の配備はゴミ処理場建設と同じではない。
 別の地域の住民が受け入れを賛成したからといって、そこに配備してよいはずはない。
             (略)
 外間町長は2005年の町長就任以来自衛隊誘致を主張してきた人物である。 ここで外間町長が潰されたら一番喜ぶの反日サヨクの反対派である。
 与那国は本来保守の強い地域であり、典型的な村社会でもある。
 島では名士とされる沖教組ら先生方との付き合い上反対派に回ったが本音では誘致賛成派の住民も多数存在するという。
 つまり誘致反対派の中にも隠れ賛成派がいると言う複雑さだ。

  http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/13c917c939c042e3c05...

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「迷惑料という言葉が独り歩きしている」 与那国町職員
                   2013-06-21
           
 外間町長の「迷惑料」発言が一人歩きし、反対派のみならず誘致賛成派からも批判を浴びた。

 保革両陣営から激しいバッシングを受けた外間町長が孤立したとき、陸自誘致案が頓挫するのを恐れ、外間町長を支えたのは与那国町役場の職員たちであった。
 反日サヨクの自治労に周囲を固められた仲井真県知事とは大違いである。
 その時の様子を「八重山日報」はこのように報じている。

<元在沖米国総領事のケビン・メア氏の発言だとされる沖縄の「ゆすり、たかり」の体質。それと町を同一視する全国の視線を感じ、町総務財政課の小嶺長典さん(48)は衝撃を受けた。
 「迷惑料という言葉が独り歩きしている」。
 小嶺さんは上司と相談し、3月25日、抗議メールすべてに返信を出した。「町の真意を分かってほしい」という思いだった。
 防衛省は同5日、町に対し、配備予定地の「南牧場」の町有地について「賃貸なら年間500万円、買収なら1億から1億5000万円」という金額を提示していた。
 「20㌶の土地を500万円では、いくら何でも『大山鳴動してねずみ一匹』的な話」
 「防衛省側の額でことが進めば、町長は反対派からも賛成派からも失笑されてしまうことは必至。政治生命が終わってしまう」
 「沖縄で初めて積極的に自衛隊を誘致し、風穴を開けるという気概を買ってほしい」―。

 印刷するとA4の用紙2枚にわたる長文の返信。
 これに対し、今度は「まさか返事が来るとは思わなかった」
 「町の熱い思いが分かりました。頑張ってください」
 などという激励のメールが届き始めた。29日までに約20件に達したという。

 「迷惑料」については、外間町長の支持者も「表現がまずかった」と漏らす。
 町長は「報道されている『迷惑料』は私の真意とは違い、戸惑うばかりだ。
 迷惑料とは市町村協力費のことであり、国が進める事業に反する思いは一切ない」と説明する。>
 その後マスコミの誘致派分断工作を避けるため、与那国町が忍耐強く防衛省側と、水面下の交渉が続けられたことは前に述べた。

 沖縄マスコミが蛇蝎のように嫌う自衛隊、と書いた。
 それを示す「秘密文書」の存在を『正論』7月号で、井上和彦氏が「重大資料発掘!地元メディア 反日偏向報道の淵源」と題して寄稿しているので、ぜひとも読んで頂きたい。
 沖縄紙が自衛隊の与那国配備に賛成派の分断を計ってまで反対する理由がよくわかるはずである。

  http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/513c717758e66e16b50...
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「仮契約締結!自衛隊与那国配備」
                  2013-06-28

 外間町長の不用意な発言「迷惑料」発言が独り歩きし紆余曲折あったが、とりあえず「拳銃二丁」の国境の島に、自衛隊配備が決まり、まずは、めでたしめでたし、である。

 元々与那国では自衛隊配備に関し、誘致派も反対派も議論に際し、「迷惑料」や「国防は国の案件」の言葉が両派から飛び交っていた。
 そして両派には「防衛問題を町民の判断に委ねるのは酷である」といった共通認識があったという。

 外間町長は、これまで反対派が使っても問題がなかった「迷惑料」を口走ったため、それがマスコミの餌食となり、反対派、誘致派両方の攻撃を受けた。
 マスコミは、与那国では反対派も「迷惑料」と発言しているのを承知しながら、外間町長の言葉のみを針小棒大に取り上げた。
 マスコミの術中に嵌り、あわや自衛隊配備問題が頓挫しかけた。

  http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1、「陸自誘致案が頓挫するのを恐れ、外間町長を支えたのは与那国町役場の職員たちであった」こと。
2、「20㌶の土地を(年間)500万円」で貸借したい、という自衛隊の提示は妥当であったろうか。
3、「沖縄で初めて積極的に自衛隊を誘致し、風穴を開けるという気概」
4、「迷惑料とは市町村協力費のことであり、国が進める事業に反する思いは一切ない」
5、「誘致派も反対派も議論に際し、「迷惑料」という言葉を日常的に遣ってきた」こと。
6、マスコミは、反対派も「迷惑料」と発言しているのを承知しながら、外間町長 の言葉のみを針小棒大に取り上げた
7、「忍耐強く防衛省側と、水面下の交渉が続けられていた」こと。
8、保革双方に、防衛問題は町民の判断に任せるには荷が重すぎるという共通認識があった。


 
 普段遣っている言葉を、マスメディアが、いかにも、な形で書き立てたということ。
 最初の自衛隊側からの提示金額は、確かに余りにも、なものであり、再び農地に戻すのは大変難しいことを考えると、せめて宅地並みの金額を提示するのが自然なことではないかと思われること。
 こうやって見ると、国会に於ける総理と同じく、右も左もある議会を、何とかうまくまとめていくという事がどれだけ大変なことか分かります。
 それをマスメディアがかき回すんですから、ホント、まともな考えを見つける、という時、頼りになるのは自分だけかもしれません。
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再び。「つらつら思うに」

2020年04月18日 | 心の持ち様
2013.06/25 (Tue)

 以前、プロフィール欄に
 「今、私にできることは、日記を書くことです。日記を書くことで、考えを深め、自分を高めなければ」
 と書いたことがあります。

 そうは書いてみても、連日、何かしら引っ掛かることがある。
 で、やむにやまれず、それについて書いてみる。
 その時はそれで良かったと思うのだけれど、あとで見直してみると。
 「日記を書いて考えを深め、自分を高めたか」
 というと、さにあらず。

 出て来る問題は、もう、どうすれば良いか決まっているものばかり。そして、自分の無力さに打ちのめされるばかり。
 それだけの力があれば即断即決、他人の命だって人生だって構うことはないとなってもおかしくないことばかりなわけです。
 「力がなくたって構うことはない。自らの命を投げ出し、それで全てが変わるなら」という考え方もあります。テロルがそうです。テロルを実行する人は自分も死ぬつもりでやるから、多少なりとも、関係者以外でも賛同者がある。

 えらく過激なことを書いています。できもしない、やる気もないくせに。
 これじゃ論争と同じだ。「しつこく、がらが悪く、声の大きい奴が勝つ」
 でも、論争で勝ったって、できもしないテロルを口走ったって何も解決しない。
 というわけで、冷静になってみる。
 すると「自分は無力だ」のところで切り替えのポイントがある、と分かる。

 ・「力があれば手順を無視して、強引にやればよい。」(例 クーデター)
 ・「力があれば順を追って(手順を踏んで)問題解決をすれば良い(議会政治)。」
 けれど、力がないわけだから。
 ・「無力だから、手順を無視して強引にやる。」これがテロルだと書きました。
  それがもう一つ。
 ・「無力だけど手順を追って問題解決を!」?こうなるから、これが袋小路になって焦燥感に駆られていた。
 私だけじゃない、と思います。「オレ一人叫んだって、ここで日記を書いたって、どうせごまめの歯ぎしりだ。砂漠の砂粒、じゃないか」と思っている。

 けど、それって当たり前じゃないか。現に無力なんだから。
 だから、勉強するんじゃなかったのか。見識を高め、教養を深めるんじゃなかったのか。
 無力なままで力のある者と対したって、百万年かかっても勝てない。
 だから、力をつけようとして勉強するんじゃなかったのか。
 苛々したってしょうがない。力がないんだから。やせ我慢するしかない。力がないんだから。
 だから、明治の先人は「和魂洋才」を合い言葉に歯をくいしばって頑張ったんじゃないのか。
 だから、島津藩士は英海軍に頭を下げ、教えを乞うたんじゃなかったのか。

 力がないんだ。だったら「脚下照顧」、だ。卑屈になるんじゃなくって、今、やせ我慢して頑張るしかない。
 それが「自分にできることは日記を書くこと。日記を書いて考えを深め、自分を高める」と言うことじゃないのか。

 そんなわけで、堂々巡り。一周しました。やってみるものです。一つ、進歩した。
 実例です。
 「自○党は駄目だから、○主党に」と言っていたマスメディア。
 「○主党は駄目だったけど、自○党も、まだ」と三極目をと言っていた。
 けど、み○なの党は、結局○主党の受け皿でしかなかった。
 口ではこう言いながら、今でもマスメディアは、現総理を外したら、やっぱり、民○党と思っている。
 で、今はこう言う。「党でなく、人で選ぶべきだ」

 変!!!!
 党でも本心が分からなかったのに、どうして、人の本心が分かる???

 「ちょっと待て その候補者は 民○かも」
 「ちょっと待て その無所属は ○主かも」
 「ちょっと待て み○なもやっぱり 民○かも」
 「党でなく人で選ぼう」は誤魔化しです。一回りして分かりました。
 「人」で選ぶということは、「未知の部分に期待しろ」或いは「新人の伸びしろに賭けろ」ということです。
 選挙には、国の将来がかかっているんです。当たり外れがあってはならない。

 「未知数の能力に期待して、新幹線の営業運転、一度、全速力で走らせてみようじゃないか!!」
 こんなこと、誰が賛成しますか?政治は賭け事じゃないんだ。
 今できることは、本気の一票と、たゆまぬ勉強です。

                2011年04月09日の日記

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 「民主党殲滅は先ず地方議会から」(夕刻の備忘録)
 http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-542.html
 を読んで思ったことを書いた物です。
 二年余りたって、すっかり「状況」が変わりました。
 しかし、変わっていないものがあります。「変わってない」というより、「向上してない」と言った方が良いのかもしれません。有権者の意識です。
 確かに民主党から自民党へ、と政権は戻ったけれど、そして期待感であろうが何であろうが株価は上がり、円は百円前後にまでなったけれど、有権者の意識は高まったんだろうか。

 有権者の意識。
 それは「己の生活が第一、後は付録」、だったんでしょうか。

 尖閣諸島沖で海保の船にシナ漁船が体当たりした時、「そんなこと、どうだっていい。オレの生活が第一」と国民は思ったんでしょうか。
 船長を拘束し、拘留期限を延長しながら、途中で迎えのジェット機にさっさと渡してしまった。
 その時も「そんなこと、どうだっていい。オレの生活が第一」と国民は思ったんでしょうか。

 有権者の意識。
 それは「己の生活が第一だからこそ、国が崩壊したり、侮辱されたりするのは耐えられない」、という、素朴なものなんじゃないでしょうか。
 だったら、都議選で投票率が50%を割る、なんて考えられない。
 「地方選挙と国政選挙は違う」?地方があって、国があるんです。
 しっかりした地方政治への目があって、国政への思いが明らかになるんでしょう?
 民主主義ってそういうものじゃないんですか?ましてや都議選は地方と言っても特別な地方でしょう?

 自民党、公明党、共産党、は組織票。
 民主党は労組の組織票というのが、実は浮動票でしかなかったことを露呈させた。維新も同じ。


 あれから四年近くが経って、やっとのことで、復活の気分だけは感じ始めた。
 でも、手応えはまだない。
 だったら、今、できることは何でしょうか。
 「今度は(手応え)内実を!」、と叫ぶことでしょうか。
 それとも、黙して考えを深めようと努力することでしょうか。
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