CubとSRと

ただの日記

老眼鏡

2020年04月02日 | 心の持ち様
2016.06/13 (Mon)

 50を過ぎたあたりから老眼の症状が出てきた。午前中はともかく、夕方になると目を細めなければ新聞の文字を読めなくなった。それが年々酷くなる。
 二十歳前から乱視の入った近視になっていたので、遠くを見る時は眼鏡をかけていたのだが、そんなわけで近くを見る時にまで眼鏡を掛けなければならなくなった。
 眼鏡さえ掛ければ見えるようになるわけだが、でも面倒くさいこと、この上ない。

 それでもまあ、老眼の症状が出てきたことで中和されたというべきか、近視の方が少し和らいだようで、車の免許証から「眼鏡等」の三文字が消えた。気分だけでも見晴らしが良くなった。
 まあ「気分だけ」、の話で実際には眼鏡を掛けないで運転することなど、ないのだが。

 老眼が段々進んでくる。そうなると当然、度の強い眼鏡に替えることになる。
 日記を書いたり、本を読んだりする時に掛けていて、何かの拍子に顔をあげ、ちょっとそこらを見ることがある。
 そんな時、当然ながら世間が突然ぼけて見える。普通に字を読み書きしていたのに、急にぼける。
 老眼鏡に無理矢理「ボケた世界」を見せつけられるわけだ。だから不快だ。いや、不快を通り越して不愉快だ。「感じ悪いよね」じゃなくって、「苛々する」。

 それでも眼鏡を外して二、三度まばたきすれば、周りはじわっと馴染んでくるのだが、両手がふさがっていたりすると、例の年寄りが能くやる、「顔を下に向けて眼鏡の縁越しに上目遣いで周りを見る」という、鼻の下を伸ばした些か以上に間抜けな顔をしなきゃならない。
 それが嫌なら「不愉快な状態」を受け入れるしか途はない。

 この、「無理矢理見せつけられるボケた世界」というのが、実に性質(たち)が悪い。
 不愉快の根元にあるのは「そんなもの、見たくない」のに、それに「そんなもの、間違っている」と分かっているのに、見ることを「強制されている」ということだ。「ボケた、歪んだ世界」なんか見たくもないのに、見せつけられる。「嫌なら見るな」と言われたって、両手、塞がってるんだ、後は目を閉じるしかあるまい。 「嫌なら目をつぶってろ!」
  ・・・? それは暴論。

 周りの景色がボケて、尚且つ歪んで見える、ということは距離感を狂わされているということでもある。
 そんな状態で辺りを見渡せば、広範囲を「歪んだ世界として受け入れよ」、「新秩序に隷従せよ」と言われているのと同じだ。
 つまり、実際に「目が回る(気分が悪くなる)」。
 精神のみならず、現実に身体が平衡感覚を失うのだから、不快、不愉快を通り越して現実に身体に変調が生じ、気分が悪くなる。

 報道も老眼鏡と同じだ。こちらが必要だから見聞きしようとするのだが、とにかくもう、木をしっかり見られるように「良かれ」と思って(?)、思いっきり歪めて報道するものだから、意識してそこから森を見ようとすると実際に胸がむかむかして気分が悪くなる。
 いや、眼鏡なら気を付けて掛けたり外したりすれば良いけれど、報道はそうはいかない。それどころか、慣れてしまうとフィルターが掛かっていることすら忘れてしまうから、やっぱりこっちの方がよっぽど性質が悪いのかな?? 

 ・・・・だろうな。
 たった二十人ほどのデモ隊を六百人ほどが取り囲み、中止をさせる。届け出をした行動を、無届けの群衆が実力で中止させる。
つまりは腕力での言論封殺だ。完全な違法行為だ。
 発言の権利は誰にも平等にある。目の前で腕力での言論封殺が行われたのに、テレビ番組では「差別発言を止めさせた!これが民意だ!」と。腕力での言論封殺を「民意」として、「正当なもの」として報道したということだもんな。公平な報道が聞いてあきれる。

 ・・・・・あ、また脱線した。
 ま、いいか。眼鏡、外したら、こんな風に見えたんだから。
 
 

 
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月刊 「Hanada」を買った

2020年04月02日 | 心の持ち様
2016.06/07 (Tue)

 先月の半ば、月刊 「Hanada」の創刊号を買った。
 書店に行くと、そっくりの表紙の雑誌が二誌、並べて平積みされていた。異様な光景だった。月刊 「Will」と月刊 「Hanada」を見比べて、後者を選んだ。

 編集部全員と紙面構成者を引き連れて、早い話、編集室ごと他社へ移籍、なんてことがあるのだろうか。雑誌業界のこと(に、限らないんだけど)は疎いものだから、少々以上に吃驚した。この歳になるまで聞いたことがない。
 いや、あったとしても、まさかそっくりの表紙で、執筆者もみんな一緒で、誌名だってうっかりしてたら変わったのに気が付かない、なんてことはなかったろう。加えて、編集長の名前が誌名になる、なんてこと、あった?

 ワック社の言い分は花田編集長の横暴、我儘(独立を画策した、社長のいうことを聞かない、無駄金を使いすぎる、頁数が増えるばかりで採算がとれない、等)だ、と。
 対して自分の名前が誌名となった花田氏には、「この雑誌をここまでにしたのは俺だ」という気持ち、自負は強くあるだろうけれど自分の名前が誌名になる、というのには、正直、複雑な思いがあったんじゃないか。
 とは言え、「Will」の名前を持って出るわけにはいかない。(だから「New Will」となるらしい、といわれていたようだ。)
 それに「ここまでにしたという自負」、「編集員の気持ち」、「読者の、Willに期待するもの」を重ねてみると、「筋を通す」ならば、確かに破天荒かもしれないけれど、月刊 「Hanada」というのは、成程、納得、という線だ。

 単独の「作品」の連載、ということなら社を替えて続行、ということは能くある。話題になった「はだしのゲン」だって、そうだった(まあ、そのせいで内容が思わぬ展開を見せたけれど)。
 個人の作家なら「主張がはっきりしている」から分かる。けれど雑誌となると・・・・・。

 そう考えたのだが、どうもその時はそれ以上に頭が回らなかった。
 だから連載がそのまま残っている、というのが主な理由で月刊 「Hanada」を買った。そして先日、2号目を、やはり見比べて(とは言っても、ほぼ月刊 「Hanada」の方を買うつもりだったのだけれど)買った。
 その時、前回書店で目にしていた「暮らしの手帖」編集者、花森安治のエッセイと「花森安治の編集室」という小伝を併せて購入した。偶然のことながら編集という仕事について考える機会を得た。

 それで、今、思っている。「編集者(編集長)というのは指揮者なんだ」、と。作曲家の代理人ではない。演奏者の小間使いでもない。
 以前に書いた「指揮者と作曲家、どちらがより能く楽曲を把握、演奏できるか」というのと同じ理屈だ。
 執筆者の文を一冊に漫然と載せるのではなく、編集者を通して編集長の意図するところを執筆者から引き出し、自身の意図するところを一冊の本にまとめ上げるのが編集長なんだ。オーケストラの指揮者。プロ野球の監督。総理大臣。みんな同じ理屈だ。
 「こうしろ!」「こうやってください、お願いします」ではなく、思いの丈を伝えて共鳴してもらう。
 志に呼応して取り組んでくれる面々のおかげで編集長の思いが見事な形で具現化する。読み応えのある雑誌、素晴らしい演奏、見事な試合・勝敗、となる。
 月刊 「Will」と月刊 「Hanada」、これから火花を散らして競い合ってくれれば、読者としては何にも問題はない。


 ついでだから書いておくけれど、指揮者、監督、総理大臣、の並びに、勿論、「首長」も入る。
 都知事も「首長」。みんな(都庁職員、都議会議員)の力を己(首長)の意図する形で引き出して、自らの主張としてまとめ上げ、現実のものにして都民に供する。
 だからその時の「主張」というのは、「決して私利私欲からではないのだ」とならなきゃ、都民は納得しません。
  
 「書道の際に中国服を着用すると筆がスムーズになる」・・・・・って。
 それなら何を今さら。もう何十年も前から使ってる筈でしょうに。
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台鉋がなかったのに、滑らか仕上げ?

2020年04月02日 | 心の持ち様
2016.06/01 (Wed)

 台鉋の伝来により、技術は格段に進歩したし、台鉋自体、日本に伝わってから本当に多種多様なものができた。台自体、正確な平面のものだけだったのが、曲面の台を持つ「反り鉋」なんてものもできる。縦長の長方形の台鉋だけでなく、横長で中央に刃を仕込み、その左右を持って力を掛けやすくしたものもできる。
 そんなわけでとにかく台鉋さえあれば他の「鉋」は要らない。技術は飛躍的に進歩した。それに比べたら昔の技術は稚拙だ。

 で、前回の「にもかかわらず、台鉋が伝来する以前、見事な円柱が削り出されたのは、何故だろう?」ということについてなんですが。
 しつこく「台鉋」と書いてきたのは「台のない鉋」があったからで「ちょうな」はその一つだろう、と。では「ちょうな」以外に「かんな」みたいなものはなかったのか。
 それであの法隆寺の宮大工(正式には寺番匠と言うんだそうです)の、西岡常一という人が法隆寺をはじめとする古寺の大工仕事を仔細に調べ、その削り跡から、「本来の鉋はこんなものではないか」というものを復元した。
 それが「槍鉋(やりがんな)」と言われるものです。
 名前の通り、「槍」のような形をしている。「銛(もり)」と言っても良いかもしれません。
 長い柄の先に大きめの銛のような形の(穂先みたいな)三角形の刃がついている。
 先が鋭く尖り、主に左右の刃を使って削る。そのため、使いやすいように先が反り返っている。
 これを削る面に斜めに当て、右手は柄の端を持ち、そこを支点にして刃の近くを握った左手を引く(時には押す)ことで木を削る。
 斜めに当たっているから台鉋の薄い紙のような鉋屑ではなく、螺旋状に捩じれた細い鉋屑ができる。

 これ、本当はどんな形だったのか分からないんです。飛鳥時代には使われていたことは寺院の円柱を見れば分かる。
 けれど、図面も何にもない。ただの道具ですからね。当たり前過ぎて道具の形なんかわざわざ絵にして残したりはしなかった。
 当たり前過ぎる工具だったのに寺院建築以外では使われることがなかったため、台鉋の流行で完全に失伝されてしまった。
 「昨日の便利は今日の当たり前。今日の当たり前は明日の不便」、です。台鉋のおかげで用がなくなって、実物もなくなった。当然、使い方なんて分かる筈もない。

 それを、削り跡から使い方を導き出し、使い方から形状を導き出した。
 「無用の長物となっていたから」、「不便だから」失われたものを、何故わざわざ西岡氏、名探偵もかくやという推理力を駆使して形をつきとめ、復元させたのか。
 「そこに『日本の在り様』が見えるから」と言ったら言い過ぎでしょうか。

 古建築と江戸期以降の建築とは明らかに何かが違う。新しい寺院は大きくて立派であっても、何かしら平面的で薄っぺらに見える。見比べれば分かります。
 陽射しによってできる円柱の陰影の深さが全く違う。均等に鉋をかけてつるんとした表面になっている円柱と、反りのついた刃物で削った表面に細長い凹凸のある円柱。
 今の時代、「そんなこと、どうでもいいじゃないか」という人の方が多いかもしれませんが、こんなところに人を「拒否する」、反対に「受け入れる」雰囲気が生まれるもんじゃないでしょうか。

 古建築物の削り跡に見られる風合いと、江戸期以降の建築物の風合いの違い。「味」とでも言いましょうか。それは使われていた工具を知らねば(使わねば)分からない。
 そうやって何気なく「便利」「効率」「革新」等の標語の下に捨ててきた、失ってきたものの中に、実は貴重な「何か」があったのではないか。今「ちゃんと残している」と思っているものは、実は似て非なる物なのではないか。これが「槍鉋」の復元で気づかされたように思います。

 今、槍鉋はいろんな形状、大きさのものが作られ、宮大工と言われる人や、風合い等を見詰め直そうとする職人が段々に使うようになっているみたいです。勿論、使い方も色々と工夫、研究されていることでしょう。貴重な「何か」を見出すために。


 またまた蛇足です。
 私の習っていた剣術の稽古場に置いてあった木刀はとても細く、簡単に折れそうなものでした。現に初心者が能く折ってしまい(折る、というより、木目が通っているので割ってしまう。)接着材で応急処置をしたものが何本もありました。
 天然理心流の、指が回らないほど太い木刀の対極みたいな、細い細い木刀です。四本の指をひょいと引っ掛けるようにして持つと、掌(たなごころ)に大きな隙間ができてしまう。
 そんなただでさえ細い木刀を木刀師に注文し、「これ以上細くすると折れるから」と木刀師が念を押して納品するのに全く耳を貸さず、届いたら早速、削り始める。
 大丈夫かと思うんだけれど、
 「これをやらないとバランスが悪くて使えない」。
 師範代はそう言って、ガラスの破片で木刀を数回削っては、座ったまま目をつぶって素振りをする。
 「自分の木刀は自分でやってみなさい」。
 確かにやってみると重心がどの辺にあるか、右側が重いのか、左側か、なんてことが何となく分かるような気がしてきます。

 勿論、師範代の胡坐をかいた足元には螺旋状の削り屑が落ちています。
 飛鳥時代の円柱も、ガラスで削った木刀も同じような風合いを持っているんじゃないでしょうか。
 
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台鉋(だいがんな)から「日本」を見る  後

2020年04月02日 | 心の持ち様
2016.05/30 (Mon)

 正確無比で変形しない鉄の台に対し、堅木と言っても所詮木の台、使っていくうちに中央部が凹んでしまう台とでは、どちらが精確な細工ができるか。
 普通に考えたら鉄の台、だけれど現実は木の台。向こうが透けて見えるほどの鉋屑を出す日本の鉋の方が、桁違いに良い仕事ができる。
 ・・・・というのが前回の〆、でした。

 大工仕事に詳しい人には何を今さら、でしょうけど、知らない人の方が実は多いんじゃないでしょうか、日本人でも。
 種明かし、です。
 鉋の一つに「台直し」という特殊な鉋があるんです。台鉋の台が変形したのを、削って修正するのが専門の台鉋。鉋台専用の鉋。
 正確な仕事をするために、大工は自分で道具の手入れをするのは当たり前。鉋台だって手入れしなきゃなりません。
 この「自分で手入れをする」というところが肝腎なところです。考えてみりゃ大概の職人は同じようなこと、やってますよね。

 鉄の台はどうか。変形しないと言ったって長年使い続けていれば鉄の台だってそれなりに擦り減ってくる。
 さあ、そうなると自分で直せるか。無理です。鉄専門の職人か、研磨専門の職人に頼むしかない。これでは自分のわがまま勝手が通らないことはおろか、他人の仕事に妥協して「やってもらう」ということにもなりかねない。自分が全責任を取り、「自己の美意識に基づいて最善を尽くす」わけにはいかない。
 鉄の台直しに関しては完全に他人任せになるわけですから。

 「自分のわがまま勝手」「全責任を取る」「自己の美意識に基づいて最善を尽くす」等、書きましたが、これ、飽く迄も「オレがオレが」ではなく、「全体のために自分ができる限りのものを」、ということで、当然利己主義でも個人主義でもありません。持ち分の中でベストを尽くす。境界部は全体を優先してごり押しはしない。

 こうやって今に至るまで継承されているのが、たとえば伊勢の「式年遷宮」です。
 建て替えの周期として、二十年で建て替えというのはいかにも早い。同じように行われる出雲大社の式年遷宮はおおよそ六十年だそうです。これなら「そんなものかな」とも思う。
 勿論、一方は茅葺(かやぶき)、もう一方は檜皮葺(ひわだぶき)という違いがある。檜皮はほとんど傷まない。

 しかし、こんな記事を読んだことがあります。「二十年に一度、というのは理想的な周期なんだ」、と。
 それぞれの職人が十年ほどかかって一人前になる。三十くらいまでの職人は熟練者の技をそこで習い、身に着ける。
 二十年後、その職人は大事な仕事を任される組頭となり、さらに二十年後、最後の大仕事、花道のようにして棟梁を務め、これで引退する。
 間違いなく技術も心構えも継承される。

 六十年(程度)に一度、の出雲大社は今回の遷宮で主に檜皮葺の屋根の葺き替えをやったのですが、それに関連するものの中にも、やはり今回解体して初めて分かったことも多々あったそうです。

 堅牢な「鉄の台」だから、歪んだら専門の職人に台を直してもらう。
 同じ「木の台」だから、凹んだかどうか気になればしょっちゅう自分で台を直す。
 建てたままの石造建築。
 折々に手を入れ、原形を守り続ける木造建築。
 日本の文化は本当に西洋のそれに比べて劣っているのでしょうか?

 
 ところで、一つ、クエスチョン。
 室町期に台鉋が伝来して木工技術は飛躍的に向上しました。では、それまでの建築物、平安時代は言うまでもなく奈良時代、飛鳥の昔も、その頃建てられた寺の柱などは見事な円柱が見られるんですが、あれ、台鉋なんかなかったし、曲面はどうやってつくったんでしょう。あんなきれいな曲面は「ちょうな」だけで作れるはずはないのですが。

 これまた知ってる人は知っている。けど知らない人の方が圧倒的に多いと思います。
 というわけで、蛇足ながらこれもまた「日本を見る」見方の一つ、ということで次回。


         
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台鉋(だいがんな)から「日本」を見る  前

2020年04月02日 | 心の持ち様
2016.05/28 (Sat)

 物の表面を削ぐのが仕事で、職人の腕が良ければ、凹凸はあるけれど大体平均した表面の板や柱を作ることができる工具。柄の先が大きく湾曲していてその先に長方形の刃が取り付けられている。これ、ちょうな(手斧、釿)と言うんだそうだ。
 で、これは書いた通り「職人の腕が良ければ」の話で、そうでなければ大変なことがおきる(こともある)。素人の試し切りと同じで、下手すると自分の足に切りつける。刃物を振り下ろすわけだから大怪我になる。
 それに、さすがにその使い方から、「鏡のような滑らか仕上げ!」は望むべくもない。

 技術の革新は道具の革新でもたらされる。「必要は発明の母」、だ。室町期、大陸から台に刃を仕込んだ工具が伝来した。削る物の上に、この台を置き、擦るように引く(当時は押して使ったらしい)と均一に削ることができる。「ちょうな」を使うより簡単だし、誰でも桁違いにきれいな工作ができる。これを「台鉋(台付き鉋)」と言った。
 ということは、本来「鉋」というものは、台がないのが当たり前で、あの「鉋」の刃の部分だけを指す言葉だったということになる。そうでなければ「鉋」と呼ばれる長方形の刃が取り付けられた工具。いや、本来は刃が長方形ではなかったとしても鉋は鉋。
 「鉋」の日本名、「かんな」の「な」は「ちょうな」の「な」と同じだろうから、「斧」の意味だったんじゃなかろうか。
 あ、脱線。

 そういうわけで、台付き鉋の伝来は、「道具の革新が技術の長足の進歩を生」んだ。それによって今度は台付き鉋自体、多種多様なものが創出されるに至る。気が付いたら台鉋ばかりになってしまったので、もう「鉋」と言えばあの形しか思い出さなくなってしまったのだけれど。

 本来は押して使う台鉋。これが西洋に伝えられてそのまま洋式の鉋となり、今に残っているのに、日本ではどうしたことか、いつの間にか引いて使うのが当たり前になってしまった。
 確かに大物に移動しながら一気に鉋をかける、なんてことは、押してかけてたんじゃつんのめったりして危なっかしくってしょうがない。膝、腰、手加減の微妙な塩梅を考えたなら、これは引いて使うほうが理に適っている。
 必要に応じて工夫を重ね、或る日突然、それもごく自然な形で発明をしてしまう。「鉋」も気が付いたら何とも不思議な形のものも含め、本当に多種多様なものが作られ、大陸から伝わった頃とは比べ物にならない技術の発展もあった。

 雨が降ったら火縄銃は火皿が濡れてしまって使えない。それで撃つ寸前まで火皿に蓋をする。
 いざ合戦となった時、蓋を開ける。これを「火蓋を切る」という。御存じ合戦の始まりを表す慣用句になった。
 この工夫がなかったため、西洋では長い間、雨中の戦闘で銃は使えなかった。ちょっと間抜けな話だ。

 あ、また、脱線・・・・。

 この、実に便利な台鉋。台がしっかりした平面ならば誰でも相当な細工ができる。
 ・・・・ということで、西洋では鉄で正確な平面の台を作った。これなら木より硬いのは間違いないから、変形の心配なく仕事ができる。
 対して日本の鉋は、というと伝来当初と同じく木の台。堅木の樫などで作ってはいても、所詮、木材。使っているうちにどんどん中央が凹んでくる。

 正確無比の鉄の台。どうしても窪みができてしまう木の台。
 どちらの仕事がきれいにできるか。
 答えを言うまでもないことですよね。テレビなどでも時々やっている。見たことありませんか?日本の鉋屑が向こうが透けて見えるほど薄く美しいのを、西洋の職人がただただ驚嘆の目でみている、という場面を。

 一体これはどういうことなんだろう。

 (・・・・・ということで、続く。  )
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