CubとSRと

ただの日記

天下国家を論ずる

2020年04月26日 | 重箱の隅
2011.07/08 (Fri)

 最近、みのもんたの「朝、ズバッ!」という番組を、録画して朝から見ています。
 これは長丁場の番組なので、朝の5時半から8時半までの番組中、同じ話題が数回出てくる。
 大体、看過できない事柄と、話題性のあるものの扱い方は決まっているようで、当然ながら、看過できないものは何度でもやる。しつこいくらいにやる。
 5時半からだから、5時半、6時半、7時半。概ね三回以上。
 
 話題性のあるものは、7時半から8時過ぎまでの30分ほどに集中して、まあ「特集」の風で、やる。
 それ以外に、
 「どうしてもこれは言っておかなきゃ、クレームが来るな」
 とか、
 「局の公平性(?)を主張するため」
 とか理由がありそうなものは、ニュースで、報道という形で事実のみを採り上げ、「お見事!」と言いたくなるくらい次の瞬間にCMに入る。
 「論評・感想が挟めなかった!」
 という体裁をとるわけです。

 売り物は、みのもんたの「お姉様方」対象目線での、景気のよいコメント。それを後押しするコメンテーターのチームプレー。

 けど、この番組をバカにしてはいけないと思います。
 この番組の、程度の低さを嗤ってはならないと思う。
 この番組は「お姉様方」の目線(目の高さ)でつくられている。

 つまり、これがみのもんたを看板とするチームのレベルなのではなく、これが日本の「お姉様方」のレベルなんだ、ということなんです。
 昼の番組でやっていた時の「お嬢様方」を、「お姉様方」に言葉を置き換えているだけで、スタンスは何ら変わってはいない。

 そして、ここからが本当の問題なのですが、実際には、この番組は仕事に出る前のサラリーマンが大慌てで朝食を摂りながら見る、という時間設定だから、ニュースと論評(というより、寸評)は、早い時間に集中する。
 しかし、当然これも「お姉様方」対象の解説であることは、何回か見ていれば分かる。

 つまり、朝早くにこの番組を見て仕事に出かける人は、みんな「お姉様方」の目の高さで世間を見たものを、情報として仕入れ、出掛け、世事を判断する毎日を送っているわけです。

 「お姉様方」対象が、なぜいけないのか。一昔前(いや、二昔?)なら、非難轟々となる言い草を、私は、しています。
 みの氏言うところの「お姉様方」は、家計を握り(護り、ですね)亭主の尻を叩き、子供を育て上げて来た「逞しい日本の主婦」です。

 「社会のことを考えて来たか」。
 「理想の国家とは」、或いは「国家とは何か」、「人間とは何か」。
 「政治はいかにあるべきか」「我が国の進むべき道は」等々、考えて来たか。

 「生活が大変で、それどころじゃなかった。主婦をやってみなけりゃ、この大変さは分からないわよ!」
 これが大多数の意見である筈です。
 そして、それは全面的にその通り。異論はありません。

 「だから」、ということなんです。
 今になって、いきなり
 「テレビを見ただけで得た知識で、天下国家のことを語る」
 ことになるんですよ?

 「お姉様方」の目の高さで番組をつくる。その目の高さで天下国家を分析し、批評するということは、そういうことなんです。

 そうなると、その目の高さでつくられた番組を見て、出勤する人々はどうなりますか?
 毎日、本を読み、天下国家について考え続け、半ば論文のような日記を毎日欠かさず数十頁も書く何の変哲もないサラリーマン、が居たとしましょう。(まあ、滅多に居ないでしょうけどね)
 そんなサラリーマンが、この番組を見て影響されるでしょうか。

 そんな「みのもんたの朝ズバッ!」
 今朝、
 「ストレステスト」
 「玄海原発番組に関するやらせメール」
 「海江田氏、辞任に言及」
 の三つを一括りにして、論評していました。
 
 「海江田氏も辞めると言ってる。この内閣はどうなってるんだ。今はそれどころではないだろう」
 「ストレステストをやることは良いことだ」
 「あんな大事故を起こしても、電力会社の体質はちっとも変わってない」
 そして与良氏が
 「この対応、これまで何もして来なかった自民党ならどうするか聞いて見たい」
 だって。

 そんなもん、聞いてどうすんだ!

 ・・・・「だからテレビなんか要らないんだ。PCだけあればいい」
 という結論でいいんでしょうか?

 「お姉様方と大半のサラリーマン」
 は、放って置けばいい??
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昨日の国会中継で思ったこと

2020年04月26日 | 重箱の隅
2011.07/07 (Thu)

 菅総理、やっと「退陣すると言ったことは一度もない」と明言しました。
 「(松本氏を)復興担当相に任命した責任はある」とも。

 ただ、「ある」と言っただけで、責任の取り方については何も言わない。これまでのやり方を思い出すと、責任を取る気は全くない。
 海江田大臣が玄海原発再稼動の「お願い」に行ったのは、総理の指示(総理の代理)ではなく、海江田大臣自身の考えである、ということになった。
 停止を「お願い」するのは総理。再稼動を「お願い」するのは大臣。
 「おかしくない」という方がおかしい。
 さらに「これから、厳しい検査基準を新たに採用し、それに適ったところに再稼動をお願いする」。菅総理はそう言った。
 ということは、海江田大臣は見切り発車をした、ということになり、もし玄海原発で事故が起きれば、その責めは総理、国、ではなく、海江田氏が負うことになる。
 海江田大臣は梯子を外された形になった。
 一度ならず二度も裏切られた。
 浜岡原発の「停止要請」を、総理の人気取りのパフォーマンスのために横取りされ、今度は「再稼動の要請に行ってほしい」と頼んだのに「行きたくない。私は行くわけには行かない」。

 安住国対委員長が怒っている。亀井氏は「怒る方がおかしい」と言っている。
 「今の民主党は極左の内ゲバより程度が悪い。アナーキー(無政府状態)だ」
 また
 「国対委員長に内閣の改造を相談するなんて(有り得ない)、自民党だってやったことはない」

 これは付け足しておかなければならない。
 ここは、民主党です。「綱領」も「長幼の序」もない民主党。政党の常識、良識など存在しない集まりです。国民新党ではない。ましてや自民党ではない。
 つまり、亀井代表、菅総理を庇うための上っ面だけの言葉です。これまでにもよくやってたでしょう?
 今、菅総理を庇っているような言動をしているのは、亀井氏一人、に見える。
 
 では、亀井氏は菅総理の味方か?菅総理と一緒に沈没するつもりか?ならば、何故、「副総理に」という、菅総理のたっての頼みを断った?
 亀井氏には、菅総理に立てねばならぬ義理などない。
 もう一度言いますが、昨年の会期末、亀井氏は菅総理に裏切られ、悔し涙を流しながら内閣を離れたけれど、菅総理は表面であろうが裏面であろうが、はっきりと「あの時は申し訳なかった」と謝ったことはない。
  
 菅総理が謝れば、「総理としては、ああするしかなったんだから」と、亀井氏は口だけでも、辛抱して、謝罪を受け入れただろうけれど、例によって菅総理は今の亀井氏の態度を、自分の都合の良いように勝手に解釈している。
 謝らないのに、和解していないのに、切り捨てた相手が暖かく接して来る時は、どんな場合にも気をつけるべきものではありませんか?
 謝っていれば、救いの手を差し伸べてくる事もある(かもしれない)。謝って来ているのに、笑顔の裏で報復を考えるというのは、人として、それ以前に政治家としての一分が立ちませんから。
 政治家としての一分とは、「命、名、位、金」の上をいくもの。「信」です。
 「人々の信を受けて立った者(同士)が政治をする」からです。
 謝っていない者を許すことは、「信」じてくれた人々を裏切ることになる。
 謝っていない者に救いの手を差し伸べることは、筋が通らない。ということは、何か裏に損得勘定があるに決まっている。道理でしょう?
 ましてや亀井氏は、ロマンチストだ。「義で動くべき」と思っている。
 リアリスト菅とは違う。

 亀井氏は郵政法案がある限り、解散はさせたくない。だから、菅総理ではなく、「民主党の存続」を望んでいる。
 「一事不再議は慣例であって、事情が変わればもう一度不信任案は出せる」
との石破氏の言は民主党を動揺させそうです。
 菅総理自身も動揺したようです。

 となると、また、解散権をちらつかせ、党の結束を強いる。
 しかし、それをやられ過ぎると、さすがの己が損得しか考えない民主党員も、「やれるものならやってみろ!みんな揃って落選だ!」と覚悟をする者が多数出て来る。

 ・・・・・・・・・・・・と、良いんですが。
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あらまあ!

2020年04月26日 | 重箱の隅
2011.07/04 (Mon)

 どうも事情がよく分からない、やっぱりこれは、やりたくない仕事を引き受けたため、不貞腐れて更迭覚悟の破れかぶれの発言かと思っていたところに、この動画中のドラゴン松本の科白。
 「お客さんが来る時は、自分が入ってからお客さんを呼べ。いいか、長幼の序がわかってる自衛隊ならそんなことやるぞ。わかった?」
 最低だな、と思い、八つ当たりのために村井知事の、元一尉という位を貶し、頭ごなしに叱りつけたのか、と思いました。
 それが、枝野氏は会見で「前後の文脈が分からないから答えられない。彼は一所懸命やっている。だからこれについて聞く気はない」というような返事。
 分からないから聞く、というのが当たり前のところ、「一所懸命やっているから間違ってはいない」、という理屈。原発の安全性と同じような理屈です。

 本人の意思に拘わらず、枝野氏はこれを総理の問題を隠す絶好の手段とするようです。ここに注目させ続け、最後には更迭すれば良い。松本氏自身も、これで義理は果たした、となって内閣から去ることができる。
 何となし、そんな風に感じています。
 数日前に書いた日記を読んでいただければ、松本氏が権謀術数を駆使するような政治家ではないことから、今回の「言ったらその社は終わり」という発言が菅総理の楯となることを目論んで、ではなく、ただ、問題を大きくすることで自分(松本)を辞めさせざるを得ないようにしようとの画策程度のことではないか、と感じられるのではないかと思います。

~~~~~~~~
 更迭されることを考えて敢えてやったのだろう、菅総理の足を引っ張ろうではなく、また、楯になることを考えて、という大きな計画でもない。
 ただ、枝野氏はこれを利用するつもり、ではないか。
 そんな風に書きました。
 それから、書かなかったことですが「これはオフレコです。書いたらその社は終わり」のクダリは、そういうことで脅しと採るか、反対に焚きつけるために故意にやった「確信犯」と採るか。テレビ、新聞は恫喝と書いてますから「脅し」ですね。
 けど、ああやることで、首相から目を逸らせたのだ、というのが、献金問題を隠すためとする人の考え方。

 ところが。

*********
【松本担当相発言】   MSN産経ニュース
「被災者の皆さまを傷つけたのであれば」と陳謝 「問題ない」から一転、辞任は否定
2011.7.4 16:21

 松本龍震災復興担当相は4日午後、都内で記者会見し、東日本大震災の被災地復興をめぐる自身の発言について「(自分が)九州の人間で語気が荒かったりして、結果として被災者の皆さまを傷つけたのであれば、おわび申し上げたい」と陳謝した。自らの進退については「このまま真っすぐ向いて復興にあたっていく」と辞任を否定した。

 松本氏は同日昼、自らの発言について「問題はない」との認識を示していたが、被災地や野党が一連の発言に反発を強めていることから、急きょ記者会見をして謝罪した。

************

 なんでしょう、これは。
 献金問題を隠蔽・・・は、まだ、終了してないでしょう?
 逆に、彼が自身、更迭されることを目論んで、なら、あまりにも早過ぎる謝罪。
 「九州人だから、語気が荒かった」などと、こんなお粗末な釈明、聞いたことがない。
 ということは「その社は終わり」ってのは、本気で、ただ、腹が立ったから言っただけ、の後先考えない発言だったということになる。
 だったら、辞めさせないで引き摺ることが総理の延命工作になる、民主党の崩壊を防ぐことになる、と民主党は考える。引っ張って置いて、頃合を見計らって辞めさせるということになるでしょう。
 徹底的に叩いて、まず、辞めさせるしかない。

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背広(特異なジャケット)

2020年04月26日 | 日々の暮らし
(以前に挙げたのですが、続きなのでこちらに移動しました。)
2011.07/03 (Sun)

 「背広」の語は、成立理由もはっきりせず、正式な名称でもない。
 背広の正式な名前はスーツだ、と書きました。
 「スーツ」とは、英語で一揃い、とか一式だとかいう意味だそうです。「スイートルーム」の「スイート」と同じで、組み合わせ、という意味らしい。(ずっとスイートルーム=甘い部屋=新婚さん用、と思ってましたけど。)
 音楽では組曲を「SUITE」と言いますが、これ、同じですね、多分。

 共布で作った服一式。ジャケットとスラックス、時にはベスト、の三つを一式とする。日本では、昔から「三つ揃え」と言っています。そのまま、スリーピース」或いは「ツーピース」と言うようになってからでも、もう何十年も経っています。
 ジャケットとスラックスを共布で作るというのは、中流以上の服装ではなかった、ということなんだそうです。ジャケットは工夫も遊びも色々できるし、何より仕立てが難しい。だから、普通はジャケットに金をかける。トラウザース(!)はそれほどかからない。
 労働者層は金がない。仕事着と普段着が一緒です。で、「ダンブクロ」、ですかね、手足を通すのが服の最低条件だから、共布で一気に作ってしまう。それを着倒す。
 仕事中は襟を立ててボタンを留めているけれど、終われば、窮屈だから一番上のボタンを外し、襟を返して胸元を開ける。
 そうすると三つボタンの一つ目の留め穴だけが返した襟の表に出て来る。これが、現在の二つボタンのスーツの原型です。
 端に出ないように、襟を小さく返すと三つボタンのスーツジャケット。
 ついでに袖口のボタンは、仕事中はボタンを外し、袖口を折り返せるようにしていた名残りです。

 労働者が着るのがスーツで、上はスーツ(の)ジャケット、下にスーツのスラックス。だから、スーツは「仕事着」なわけで、最近「ビジネススーツ」、なんて言葉がありますが、あれ、「変な言葉~、何あれ?」なわけです。スーツと言えばビジネスに決まっておる。

 そう考えると、「クールビズ?何じゃ?それは」です。「クールビジネス」、涼しい仕事。氷屋さんだとか、高い所で肝が冷える鳶職だとか、お化け屋敷屋さん(?)だとか。
 こんな風にできたスーツですが、現代ではみんな仕事をしているという理由からでしょうか、誰でもスーツを着ます。労働者も貴族も関係ない。他国の国王、大統領は勿論、日本でも、世界で一番の権威である天皇陛下だってスーツを召される。労働者の服ですよ、あれは。

 スーツを着たローマ法王って、何か不自然だろうし、そんなに権威を感じないでしょうが、天皇陛下のスーツ姿って、どうなんでしょう。違和感、ないような気がするんですが。
 脱線しました。
 でも、こう考えると、何だか、スーツっていいなあ、という気がしませんか。身分の隔てがなくって、誰が着ても似合う服。現代の世の中には、そんな服がある。これは良い事だと思いますよ。
 まあ、日本には昔から身分に関係なく、公の席ではみんなが着けたという「裃」(まだ言うか)があるんですけどね。

 さて、そんなわけで「スーツジャケットは特異なジャケット」ということになります。
 ジャケットは本当に多種多様。早い話、上着はみんなジャケットですから。
 そして上下が共布の服というのは、その中で「特別な存在」ではなく、「特異な存在」だったんだけれど、現代ではその「特異な存在」が、全世界で「ごく一般的な」、と言うより「普遍的な」男の服、ということになっています。
 そうなると、中学校や高校で着ている制服と同じで、冠婚葬祭、いずれの場合に着用しても良いということになる。それなりのちょっとした約束だけ守れば良い。
 なに、大したことじゃありません。ネクタイは地味なものにし、葬式の時は腕か胸辺りに黒い布をピンで留める。喪章というやつですね。それだけです。
 地味なネクタイ、というのは黒か黒に限りなく近い紺。
 「えっ?結婚式に黒のネクタイ?」と気になるなら、濃紺で十分。ほんとはね。
 (周囲の雰囲気を壊さないようにしなきゃ意味がありませんが)

 とにかく、労働者の服だった頃と違うのは、「ネクタイをするかしないか」だけ、と言っても良いのではと思います。
 「スーツにはネクタイ」。
 ネクタイがない時は、仕事をしていない時、ということです。ネクタイは「飾り」ではなく、「仕事中」の「印」ですから、目立ってはいけない。浮いてはいけない。ボヤケてもいけない。なかったら、その仕事「場」での存在は許されない、と言っても良いくらいの物。だから、国会で「ノーネクタイファッション」ならともかく、「ネクタイを外しているだけ」という、「居酒屋のおっさん」は、ダメ!です。

 はい!まとまりませんでした。


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背広(愛想なし)

2020年04月26日 | 重箱の隅
2011.07/02 (Sat)

 「背広」ってどう見たって変な名前です。
 それに、この間、ちょっと書きかけた裃の上衣(肩衣かたぎぬ)の方が、よっぽど「背広」だ。
 ついでに、背広というのは、上下同じ生地で作られているのに、上着の方ばかり意識した名前がついて、下のズボンの方は無名のまま。縁の下の力持ちというのは気の毒だ。

 ・・・なんて書き始めましたが、知ってますよ、ホントは。
 外来語への当て字だってこと。
 諸説あるらしいけど、どれも真偽のほどは分からない。
 有名なところでは、「市民」をあらわすセビル(シビル)と、クロース(生地)の合成語、「市民の服」という「セビルクロー→セビルロー→セビロー・・・。ばんざーい!」みたいなのとか、ロンドンの仕立て屋が多く店を構えていたセビルローという通りの名前から、とか。
 
 ただ、軽衫と同じで、日本人の耳に聞こえた音に、或る程度以上、意味合いも考えて、字を当てるわけですから「セビルクロース」の方が遣われる可能性は高かったのではないか、と考えるべきなのかもしれません。
 でも、日本人が、片言の英語で今まで見たこともない形の服について聞いたとする。
 「その服は(何)?」「ああ、セビルロー(でつくったんだ)。」
 なんて、ずれた会話があったのかもしれない。カンガルー問答みたいに。
 あっ、また変な方向に行きそうです。

 背広。

 上着だけを指しているような名づけ方ですが、それくらい背中が広く見えるから「背広」と付けたのは日本人、炯眼です。
 「背中が広く見える。」
 でも、これ、バランスが悪い、ということですよ。
 思い出して下さい。背広より裃(またか?)の肩衣(かたぎぬ)の方が、よっぽど背中が広く見えるはずなのに、そんな風には感じない。
 理由は背中のワンポイント。家紋が入っているからです。あれで雰囲気が出てくる。あれがないとバランスが悪く、取り付く島がないような気がする。(取り付くこともないんですが)

 単車に乗っていると、風にバタつかないしっかりとしたジャケットが欲しくなる。あのバタつきは、結構疲労の原因になってるんです。
 それで単車乗りはみんなライディング用のジャケットを買う。
 そして思い入れの強いのがバイク野郎。本田さんがホンダのバイクに「HONDA」と大きくロゴの入ったジャケットを着て、・・・というのは日常の光景。
 まあ、中にはカワサキのバイクにYAMAHAのジャケットで乗る鈴木さん、ということもあるでしょうが。

 私はそれが嫌いだった。
 「何でバイク屋の宣伝を金払ってまでするんだ、サンドイッチマンか、オレは。『走る広告塔』になんかならないぞ。」
 そう思ってたんで、ジャケットを買う時、バイク屋のロゴが入ってないのを選んでました。
 
 或る時、ちょっと派手だけれど、なかなか格好の良いデザインのジャケットがバイク用品店にあった。これが少し緑がかったメタリックシルバーで、腕の付け根のところを中心に、所々黒い生地を使ったきりっとしたジャケットです。
 着る本人の容姿のことは二の次、三の次。いいなあ、これ、と思って手にとって見ると何ともびっくり。背中一杯に大きなエンブレム。
 その上に、負けず劣らず大きなロゴがアーチ形に入っている。ありゃ~~っ。

 「良いなあと思ったら、すごい背中ですねえ」
 と店の人に言うと、
 「でも、何もないと、さびしいですよ。」
 これを聞いて気がついた。
 「そうか。愛想がないんだ。」

 「背中に彫り物」、じゃないけど、何もないと、背中というのはだだっ広いだけで何か物足りない。なるほど、なるほど。ライディングジャケットの背中のロゴと、背中の刺青と、伊達家の大家紋とは同じなんだ。

 今は作ってない、「ルウ ギャルソン」というブランドのジャケットでした。
 「ルウ→道。ギャルソン→小僧」。意訳すれば「バイク小僧」、ですかね。40近かったけど。あれから20年。まだ、時々着てます。

 そんな日本人の感覚からすると、背中に何にもアクセントのない「背広」は、ただひたすら背中の広さを強調しているだけに見えたのかもしれません。
 「変わった服だなあ。家紋もついてない。なに?セビロー?確かに背中が広いなあ」
 ・・・・なんてのは私の妄想なんでしょうけど。

 というわけで(?)「背広」は言うまでもなく、「セビルクロース」も「セビルロー」も「背広」の正式な呼称ではありません。
 背広の正式な名前(呼び名)は、「スーツ」、ですね、勿論。
 「スーツ」となると、音楽の話も絡んで来る。

 ああ、背広の話は、やっぱり続く。
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