2011.07/08 (Fri)
最近、みのもんたの「朝、ズバッ!」という番組を、録画して朝から見ています。
これは長丁場の番組なので、朝の5時半から8時半までの番組中、同じ話題が数回出てくる。
大体、看過できない事柄と、話題性のあるものの扱い方は決まっているようで、当然ながら、看過できないものは何度でもやる。しつこいくらいにやる。
5時半からだから、5時半、6時半、7時半。概ね三回以上。
話題性のあるものは、7時半から8時過ぎまでの30分ほどに集中して、まあ「特集」の風で、やる。
それ以外に、
「どうしてもこれは言っておかなきゃ、クレームが来るな」
とか、
「局の公平性(?)を主張するため」
とか理由がありそうなものは、ニュースで、報道という形で事実のみを採り上げ、「お見事!」と言いたくなるくらい次の瞬間にCMに入る。
「論評・感想が挟めなかった!」
という体裁をとるわけです。
売り物は、みのもんたの「お姉様方」対象目線での、景気のよいコメント。それを後押しするコメンテーターのチームプレー。
けど、この番組をバカにしてはいけないと思います。
この番組の、程度の低さを嗤ってはならないと思う。
この番組は「お姉様方」の目線(目の高さ)でつくられている。
つまり、これがみのもんたを看板とするチームのレベルなのではなく、これが日本の「お姉様方」のレベルなんだ、ということなんです。
昼の番組でやっていた時の「お嬢様方」を、「お姉様方」に言葉を置き換えているだけで、スタンスは何ら変わってはいない。
そして、ここからが本当の問題なのですが、実際には、この番組は仕事に出る前のサラリーマンが大慌てで朝食を摂りながら見る、という時間設定だから、ニュースと論評(というより、寸評)は、早い時間に集中する。
しかし、当然これも「お姉様方」対象の解説であることは、何回か見ていれば分かる。
つまり、朝早くにこの番組を見て仕事に出かける人は、みんな「お姉様方」の目の高さで世間を見たものを、情報として仕入れ、出掛け、世事を判断する毎日を送っているわけです。
「お姉様方」対象が、なぜいけないのか。一昔前(いや、二昔?)なら、非難轟々となる言い草を、私は、しています。
みの氏言うところの「お姉様方」は、家計を握り(護り、ですね)亭主の尻を叩き、子供を育て上げて来た「逞しい日本の主婦」です。
「社会のことを考えて来たか」。
「理想の国家とは」、或いは「国家とは何か」、「人間とは何か」。
「政治はいかにあるべきか」「我が国の進むべき道は」等々、考えて来たか。
「生活が大変で、それどころじゃなかった。主婦をやってみなけりゃ、この大変さは分からないわよ!」
これが大多数の意見である筈です。
そして、それは全面的にその通り。異論はありません。
「だから」、ということなんです。
今になって、いきなり
「テレビを見ただけで得た知識で、天下国家のことを語る」
ことになるんですよ?
「お姉様方」の目の高さで番組をつくる。その目の高さで天下国家を分析し、批評するということは、そういうことなんです。
そうなると、その目の高さでつくられた番組を見て、出勤する人々はどうなりますか?
毎日、本を読み、天下国家について考え続け、半ば論文のような日記を毎日欠かさず数十頁も書く何の変哲もないサラリーマン、が居たとしましょう。(まあ、滅多に居ないでしょうけどね)
そんなサラリーマンが、この番組を見て影響されるでしょうか。
そんな「みのもんたの朝ズバッ!」
今朝、
「ストレステスト」
「玄海原発番組に関するやらせメール」
「海江田氏、辞任に言及」
の三つを一括りにして、論評していました。
「海江田氏も辞めると言ってる。この内閣はどうなってるんだ。今はそれどころではないだろう」
「ストレステストをやることは良いことだ」
「あんな大事故を起こしても、電力会社の体質はちっとも変わってない」
そして与良氏が
「この対応、これまで何もして来なかった自民党ならどうするか聞いて見たい」
だって。
そんなもん、聞いてどうすんだ!
・・・・「だからテレビなんか要らないんだ。PCだけあればいい」
という結論でいいんでしょうか?
「お姉様方と大半のサラリーマン」
は、放って置けばいい??
最近、みのもんたの「朝、ズバッ!」という番組を、録画して朝から見ています。
これは長丁場の番組なので、朝の5時半から8時半までの番組中、同じ話題が数回出てくる。
大体、看過できない事柄と、話題性のあるものの扱い方は決まっているようで、当然ながら、看過できないものは何度でもやる。しつこいくらいにやる。
5時半からだから、5時半、6時半、7時半。概ね三回以上。
話題性のあるものは、7時半から8時過ぎまでの30分ほどに集中して、まあ「特集」の風で、やる。
それ以外に、
「どうしてもこれは言っておかなきゃ、クレームが来るな」
とか、
「局の公平性(?)を主張するため」
とか理由がありそうなものは、ニュースで、報道という形で事実のみを採り上げ、「お見事!」と言いたくなるくらい次の瞬間にCMに入る。
「論評・感想が挟めなかった!」
という体裁をとるわけです。
売り物は、みのもんたの「お姉様方」対象目線での、景気のよいコメント。それを後押しするコメンテーターのチームプレー。
けど、この番組をバカにしてはいけないと思います。
この番組の、程度の低さを嗤ってはならないと思う。
この番組は「お姉様方」の目線(目の高さ)でつくられている。
つまり、これがみのもんたを看板とするチームのレベルなのではなく、これが日本の「お姉様方」のレベルなんだ、ということなんです。
昼の番組でやっていた時の「お嬢様方」を、「お姉様方」に言葉を置き換えているだけで、スタンスは何ら変わってはいない。
そして、ここからが本当の問題なのですが、実際には、この番組は仕事に出る前のサラリーマンが大慌てで朝食を摂りながら見る、という時間設定だから、ニュースと論評(というより、寸評)は、早い時間に集中する。
しかし、当然これも「お姉様方」対象の解説であることは、何回か見ていれば分かる。
つまり、朝早くにこの番組を見て仕事に出かける人は、みんな「お姉様方」の目の高さで世間を見たものを、情報として仕入れ、出掛け、世事を判断する毎日を送っているわけです。
「お姉様方」対象が、なぜいけないのか。一昔前(いや、二昔?)なら、非難轟々となる言い草を、私は、しています。
みの氏言うところの「お姉様方」は、家計を握り(護り、ですね)亭主の尻を叩き、子供を育て上げて来た「逞しい日本の主婦」です。
「社会のことを考えて来たか」。
「理想の国家とは」、或いは「国家とは何か」、「人間とは何か」。
「政治はいかにあるべきか」「我が国の進むべき道は」等々、考えて来たか。
「生活が大変で、それどころじゃなかった。主婦をやってみなけりゃ、この大変さは分からないわよ!」
これが大多数の意見である筈です。
そして、それは全面的にその通り。異論はありません。
「だから」、ということなんです。
今になって、いきなり
「テレビを見ただけで得た知識で、天下国家のことを語る」
ことになるんですよ?
「お姉様方」の目の高さで番組をつくる。その目の高さで天下国家を分析し、批評するということは、そういうことなんです。
そうなると、その目の高さでつくられた番組を見て、出勤する人々はどうなりますか?
毎日、本を読み、天下国家について考え続け、半ば論文のような日記を毎日欠かさず数十頁も書く何の変哲もないサラリーマン、が居たとしましょう。(まあ、滅多に居ないでしょうけどね)
そんなサラリーマンが、この番組を見て影響されるでしょうか。
そんな「みのもんたの朝ズバッ!」
今朝、
「ストレステスト」
「玄海原発番組に関するやらせメール」
「海江田氏、辞任に言及」
の三つを一括りにして、論評していました。
「海江田氏も辞めると言ってる。この内閣はどうなってるんだ。今はそれどころではないだろう」
「ストレステストをやることは良いことだ」
「あんな大事故を起こしても、電力会社の体質はちっとも変わってない」
そして与良氏が
「この対応、これまで何もして来なかった自民党ならどうするか聞いて見たい」
だって。
そんなもん、聞いてどうすんだ!
・・・・「だからテレビなんか要らないんだ。PCだけあればいい」
という結論でいいんでしょうか?
「お姉様方と大半のサラリーマン」
は、放って置けばいい??