2013.04/05 (Fri)
「歩くことに神経を使う」割合が高い現実と、「数稽古」に何か係わりがあるんじゃないか。前回はそこでやめたんですが、これ、続きです。
数稽古というのは言葉通り「数をこなす稽古」です。
勿論「色んな技を合計した数」、ではなく、特定の技、一つだけを選んで多くの回数をこなす。
とにかく「虚仮の一念」で、同じ技を連続して数百、数千回と繰り返す。
当然、へとへとになります。
木刀持って、その場での素振りを千回、二千回と続けてみる。慣れた人ならともかく、そうでない人には、一振り一振り集中して、色々なところ(問題点)に注意を向けながら振るというのは大変です。
普通の木刀でも、これを気を付けてやると、数百回で体のどこかが痛くなり始める。
それでも敢えて続けていると、その痛さ、苦痛を和らげる為に他のところにしわ寄せが行き、別の場所が痛くなってくる。
そうなると加速度的に痛いところが増えて来て、終いにはどこが痛いのか分からないくらい、全身が痛くなってくる。
以前に書いた、針治療をしてもらいに行ったら全身に針を打たれ、どこが痛いか聞かれても「みんな痛い!」と言うしかなかったという、笑い話みたいな状況になる。
「だから数稽古は百害あって一利なし、だ」
そこまでは言わずとも、決まり切った動作を、自らにノルマを課して繰り返す、などというのは、苦痛の大きさの割に大した効果は期待できない、と断言する武術家もあります。
ただ、工夫することを楽しみながら、ということなら、それも意味はある、と付言されますが。
でも、こんな例もあります。
岩手県に「諸賞流和術(しょしょうりゅうやわら)」、というのがあるんですが、ここでは「和術(やはら)」と言いながら、当て身の技が必要不可欠となっており、昇級審査の時には同じ技を数千回、実際に当てさせるのだそうです。
勿論、防具をつけて、ですよ。
十センチだか、二十センチだかの「え~っ!?」と思うような分厚い胴と、キャッチャーマスクみたいなのをつけた受け手に、取手が肘打ち、蹴り、面打ち(目潰し)を行う。
それでも、時には受ける方に当て身が透ってしまい、吐いたりすることもあるそうですから、相当なものでしょう?
でも、吐く方も大変だけど、薄い皮手袋のようなものをするだけで数千回もの当て身を入れる方だって、肘や足は生身ですからね。
思いっきり叩き込むわけだからこちらの方が実はダメージ大きいんじゃないでしょうか。
でも、決められた回数、やらねばならない。
それで、ここ、なんですが。
これまた辛い話で、
「数稽古の後は風呂に入るな」
、と。
何故かと言うと「技まで流れてしまうから」。
感覚的な表現ながら、これは見事な口訣(くけつ)です。
数稽古で、確かに手応えを掴んだ無駄のない身体の遣い方と、研ぎ澄まされた神経(感覚)。
それを、風呂に入って乱暴に弛緩させたら、折角の感覚が、ただの「達成感」「充足感」といった記憶になるだけではないか。また身体の方も、風呂に入ることで半ば強制的に身体の痛みを全身に「平等に」引き受けさせることになる。それでは「身体の痛み」がヒントとなって残された、折角身に付きかけた無駄のない捌きが、消えてしまうのではないか。
勿論、全くの「元の木阿弥になる」、なんてことはないんでしょうけどね。
でも、数稽古の後、昂揚した気分のまま、身体を拭くだけで寝る。
普通なら気分が高揚していたら眠れないでしょう?
身体が徹底的に痛めつけられているからこそ、そんな気分でいても寝られる。
そうやって、達成感と充足感と身体の痛みを抱えて寝るか。
それとも風呂に入ってゆったりした、身も心も解れた状態で寝るか。
現代医学の視点からすれば、そんなの言うまでもないことでしょう。後者が良いに決まっている。
でも、この数稽古の目指すところは「身捌きに慣れる(馴染む)こと」、だけではない。
同時に、その身捌きを有事の際に用いるのに耐えられる精神力をつくることにもある、いや、こちらが主となる目的でしょう。
いざという時に冷静に技が使えるとは限らない。それよりも、いざという時に冷静になれなくても、技はちゃんと使えるようにしなければならない。
最低ラインは
「無我夢中で技を使ったが、我に返った時には敵が倒れていた」
という辺りです。
最低ラインはともかく、数稽古は身心を共に追い込むことで、(特に精神の)急激な量質転化を実現させる。
だから、終了時の夜(睡眠中も含めて)は、実はまだ稽古が続いているという、実に貴重な一晩なんだと考えたら・・・・・・?
「歩くことに神経を使う」割合が高い現実と、「数稽古」に何か係わりがあるんじゃないか。前回はそこでやめたんですが、これ、続きです。
数稽古というのは言葉通り「数をこなす稽古」です。
勿論「色んな技を合計した数」、ではなく、特定の技、一つだけを選んで多くの回数をこなす。
とにかく「虚仮の一念」で、同じ技を連続して数百、数千回と繰り返す。
当然、へとへとになります。
木刀持って、その場での素振りを千回、二千回と続けてみる。慣れた人ならともかく、そうでない人には、一振り一振り集中して、色々なところ(問題点)に注意を向けながら振るというのは大変です。
普通の木刀でも、これを気を付けてやると、数百回で体のどこかが痛くなり始める。
それでも敢えて続けていると、その痛さ、苦痛を和らげる為に他のところにしわ寄せが行き、別の場所が痛くなってくる。
そうなると加速度的に痛いところが増えて来て、終いにはどこが痛いのか分からないくらい、全身が痛くなってくる。
以前に書いた、針治療をしてもらいに行ったら全身に針を打たれ、どこが痛いか聞かれても「みんな痛い!」と言うしかなかったという、笑い話みたいな状況になる。
「だから数稽古は百害あって一利なし、だ」
そこまでは言わずとも、決まり切った動作を、自らにノルマを課して繰り返す、などというのは、苦痛の大きさの割に大した効果は期待できない、と断言する武術家もあります。
ただ、工夫することを楽しみながら、ということなら、それも意味はある、と付言されますが。
でも、こんな例もあります。
岩手県に「諸賞流和術(しょしょうりゅうやわら)」、というのがあるんですが、ここでは「和術(やはら)」と言いながら、当て身の技が必要不可欠となっており、昇級審査の時には同じ技を数千回、実際に当てさせるのだそうです。
勿論、防具をつけて、ですよ。
十センチだか、二十センチだかの「え~っ!?」と思うような分厚い胴と、キャッチャーマスクみたいなのをつけた受け手に、取手が肘打ち、蹴り、面打ち(目潰し)を行う。
それでも、時には受ける方に当て身が透ってしまい、吐いたりすることもあるそうですから、相当なものでしょう?
でも、吐く方も大変だけど、薄い皮手袋のようなものをするだけで数千回もの当て身を入れる方だって、肘や足は生身ですからね。
思いっきり叩き込むわけだからこちらの方が実はダメージ大きいんじゃないでしょうか。
でも、決められた回数、やらねばならない。
それで、ここ、なんですが。
これまた辛い話で、
「数稽古の後は風呂に入るな」
、と。
何故かと言うと「技まで流れてしまうから」。
感覚的な表現ながら、これは見事な口訣(くけつ)です。
数稽古で、確かに手応えを掴んだ無駄のない身体の遣い方と、研ぎ澄まされた神経(感覚)。
それを、風呂に入って乱暴に弛緩させたら、折角の感覚が、ただの「達成感」「充足感」といった記憶になるだけではないか。また身体の方も、風呂に入ることで半ば強制的に身体の痛みを全身に「平等に」引き受けさせることになる。それでは「身体の痛み」がヒントとなって残された、折角身に付きかけた無駄のない捌きが、消えてしまうのではないか。
勿論、全くの「元の木阿弥になる」、なんてことはないんでしょうけどね。
でも、数稽古の後、昂揚した気分のまま、身体を拭くだけで寝る。
普通なら気分が高揚していたら眠れないでしょう?
身体が徹底的に痛めつけられているからこそ、そんな気分でいても寝られる。
そうやって、達成感と充足感と身体の痛みを抱えて寝るか。
それとも風呂に入ってゆったりした、身も心も解れた状態で寝るか。
現代医学の視点からすれば、そんなの言うまでもないことでしょう。後者が良いに決まっている。
でも、この数稽古の目指すところは「身捌きに慣れる(馴染む)こと」、だけではない。
同時に、その身捌きを有事の際に用いるのに耐えられる精神力をつくることにもある、いや、こちらが主となる目的でしょう。
いざという時に冷静に技が使えるとは限らない。それよりも、いざという時に冷静になれなくても、技はちゃんと使えるようにしなければならない。
最低ラインは
「無我夢中で技を使ったが、我に返った時には敵が倒れていた」
という辺りです。
最低ラインはともかく、数稽古は身心を共に追い込むことで、(特に精神の)急激な量質転化を実現させる。
だから、終了時の夜(睡眠中も含めて)は、実はまだ稽古が続いているという、実に貴重な一晩なんだと考えたら・・・・・・?