CubとSRと

ただの日記

殺し尽くす

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/21 (Fri)

 除夜の鐘は百八つ。
 人間には大小扱き混ぜて百八つの煩悩(気になること、悩み)があるという。
 それを鐘を撞くことで一つずつ消し去ってしまう。
 そうやって年を越すのだ、と能く聞きました。

 百八つの気になる「思い」、を消す。消滅させることで安心を得る。
 百八、というのは一百零八。「水滸伝」に出てくる英雄は、天罡星三十六 地殺星七十二、併せると百八。
 煩悩の百八と英雄の百八人は偶然の一致ではないのでしょう。
 水滸伝の英雄は次々に討ち死にしていくけれど、これは天にあるべき星が、地上に在って問題を解決し、また天に帰る、という発想からすれば、討ち死には平和な世に近付いていくことを暗示していると言えるんじゃないでしょうか。
 百八の星は、天罡星は北斗の星のことらしいけれど、地殺星は全て凶星扱いです。だから問題のもとになる人々を殺し(事件を片付け)、自らも死んでゆく。
 煩悩をなくすことも、討ち死にすることも、幸せになることと同じようです。

 禅宗では世の中のこと全てが問題なんだから、全てを一気に解く、「問題を問題でなくす」という手法を採ろうとします。
 けど、そんなの、いきなりは無理だから大問題、難問を用意して一瞬で解く練習をさせる。
 それが「釈迦に遭ったら釈迦を殺し、仏に会ったら仏を殺す。殺し尽くして初めて安堵」という教えになっている。
 本当に釈迦を殺すのではなく(現実には生身の釈迦には会えませんから)、問題を突きつけてくることになる「釈迦」という存在そのものをなくしてしまう。

 別の高僧は、
 「御釈迦様には煩悩などなかったのではないか」
 と問われて
 「何の。釈尊こそ煩悩のかたまりじゃ」
 と答えたそうです。
 「『一切衆生を救おう』というとてつもない煩悩を持っていたのだ」、と。

 問題への対し方は、だから二通りある。
 1、問題をなくす(殺す、消す)
 2、問題を解く。(解くことで所定の位置を定める。決める)⇒解決する。

 あ、もう一つありました!
 3、「問題を見ようとしない」


 1、は禅のように「心の持ち様なのだから」と、消してしまう(問題でなくする)やり方と、実際に(具体的に)なくす方法とがあります。後者は「粛清」というやり方です。
 成程、これを実行すれば「問題そのもの」である抵抗者は完全に「消滅する」。消滅する人間、数百万人、なんてこともあるでしょうけど。
 実際、気のせいかとは思うんですが、禅僧には共産主義に理解を示す人が少し多いような。
 2、は、今、世界の大勢となっている「分かり合う」ための努力を惜しまないやり方。
 国益のための交渉より、世界の平和のための話し合いを上位に置く。
 3、は問題をなくすのでもなければ、解決するものでもない。ただ「見ない」ようにする。
 どこの国のことか、はこれまでの日記で了解いただけるでしょう。

 さて、我々日本人は、1,2,3のどれを選ぶべきか。
 最近、「2であるべきだ!」と言っていた国が、実は3、だった、と明らかになったわけですが。

 やっぱり「あれはダメ。これも駄目」と切り捨て続けていたら、最後には自分も切り捨てなけりゃならなくなる。
 「そして誰もいなくなった」、では笑い話にもなりゃアしません。
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当用憲法

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/18 (Tue)

 「当用漢字」というのは「今の時代に用いる漢字」、「今はこれで可、とする漢字」という意味でしょう。「当」は「まさに」ということですから。
 「当世書生気質」、なんて本、ありませんでしたっけ?
 「当分の間はこれでいこう」という言い方もあります。
 戦国期には「当世具足」、などという実用的な甲冑がつくられました。
 
 ということで、「当に」、は「今」という意味で、当用憲法は今の憲法。
 「今」、であって「いつまでも」、ということではない。
 「いつまでも」、は「今」、じゃない。
 実際、占領下で制定されたわけだから、「占領下」が「当」であり、占領が終わった時点で旧憲法に復するか、新憲法を定めるかしなければならない。
 それが為されていないという事は、まだ占領下だということになりましょう。

              (以下は夕刻の備忘録の部分転載です)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

             (略) 

 間もなく「靖國の季節」がやってくる。毎年毎年、「靖國参拝さえすれば国民の中に眠っていた保守派が一気に支持層として加わる」と呪文のように唱える人が現れる季節である。
 何度でも言う。政治家が靖國神社を参拝しようと、しまいと、靖國は一億国民のものであり、我々が参拝すればいいだけの話である。政治家が先頭に立たなければ、「英霊が浮かばれない」などという話では断じてない。
 それは全国民の責任である。「我々に続け、政治家よ!」と言うべきなのである。

 日頃から政治家を無能呼ばわりし、「ゼロ増百減だ、二百減だ」と無政府状態を礼賛するような人が、一旦参拝問題になると、その無能な政治家の率先垂範を期待する。こんなオカシナ話はない。
 社民や共産が「憲法を護れ」と大騒ぎしながら、「第一条を護れ、天皇を護れ」と言わない矛盾と、何処か似ていないか。「独自の憲法解釈」で、国会開会式をボイコットし続ける態度に、御出迎えを拒否する葉山町議の独善に似てはいないか。
 「当用憲法」を百年押し戴くつもりなのか。
 憲法改正を党の綱領に掲げながら、半世紀以上これを成し遂げられなかった自民党は情けない。話にならない、と息巻く人が多いようであるが、ではこの間、自民党が単独で「衆参の三分の二以上を占めた」ことがあったのだろうか。 国民は、憲法改正に必要な力を、すなわち政治家の頭数を自民党に与え、それをもって国家の根本に斬り込めと叫んだのだろうか。

 自民党は情けない、そうかもしれない、そうでないかもしれない。どちらにしても、国の行く末は我々国民が決めるのだ。一政党に責任転嫁をしている場合ではないのだ。
 国民が本当に憲法改正を望み、一人前の国家として復活することを欲するなら、やることは唯一つ、圧倒的な勝利を、「それを為し得る可能性のある政党に与える」ことしかないではないか。

             (略)



   「当用憲法」を百年押し戴くつもりなのか。

                    ~夕刻の備忘録より~



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言い間違いで噴き出した?

2020年04月17日 | 重箱の隅
2013.06/18 (Tue)

 先日の「シャラップ!」、それも連続で二回。
 二回目は声が大きくなっています。
 大使の言い間違いが原因だ、というのがマスメディアの説明でした。

 「ミドルエイジズ(中世)」と言うべきところを、「ミドルエイジ(中年)」と言った(ように聞こえた)ために、集まっていた記者が噴き出したんだ、と。
 だから、悪いのは大使の発音であって、笑った方は悪くない、と。
 別の番組では、元外交官という人物に大使の評をさせていましたが、「(大使は)激しやすいというか、怒りっぽい人だった」。
 「この人、あの大使を嫌ってたんだろうな」、と思ったのは、私がひねくれた性格だからなんでしょうか。

 疑問があります。
 何故、ベテランの大使が、つまり外交の常識を十分に弁えているはずの人が、「シャラップ!」などと言ったのか、本当にその理由は「周辺の人を常に見下しているから、つい、」、というような軽率なことだったのか。
 もう一つ。
 記者は大使が言い間違えたと思ったから、つい噴き出したのかもしれない。
 それがないとは言えない。
 でも、「あ~あ、言い間違えちゃったよ~。しょうがねえなぁ」と思ったと同時に、(言い間違えだ、と分かったわけだから)噴き出したら、普通、あわてて口を噤むものではないか。
 記者は会議の参加者ではなく、取材中は、言ってみれば物言わぬ壁、のはずだ。
 それ(口を噤むこと)が為されず、笑うことをすぐには止めなかったため、大使が声を大きくしたんじゃないんですか?
 という事は、これは明らかにわざと笑っているんじゃないか。
 言い換えれば、大使の神経を逆撫でするようなことを、放送されないところでやっていたと考える方が普通ではないのか。

 先日の水野参事官のだって「何ボヤボヤしてるの」、「さっさとしなさいよ」と言われた。自分の権限ではないことだから支持を待つしかないのに。

 (以下は「台湾は日本の生命線!」の転載)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  台湾は日本の生命線!

      上田秀明・人権大使の「シャラップ」発言を支持する
 
                               2013/06/17/Mon

  ■本当に国益を害したのか

 ジュネーブで五月二十二日に行われた国連拷問禁止委員会での日本審査で、上田秀明・人権人道担当大使が大声で「シャラップ(黙れ)」と叫んだことが話題になっている。
 読売新聞によると「委員の一人が日本の司法制度は自白偏重で『中世のようだ』と指摘。上田大使が「日本は中世などでなく、刑事司法の分野で最も進んだ国の一つだ」と反論した際、日本のNGOメンバーらが座る傍聴席などで苦笑が広がり、大使が「笑うな。なぜ笑うんだ。シャラップ、シャラップ」と声を上げたのだという。

 サンケイスポーツによると、上田大使は「笑うんじゃない。なんで笑うんだ。黙れ。黙れ。(Don,t laugh.Why you are laughing.Shut up Shut up)」と叫んでおり、「この様子を録画した動画がアップされると、ネットでは『国益を害する官僚は更迭しろ』『外交官と思えない品位の欠片もない』などの批判が噴出し」ている状況だ。

 しかし「シャラップ」発言は実際に「国益」を害したのだろうか。

  ■計算づくの「暴言」では

 「国益」を害したと言えば、日本の司法を「中世のようだ」などと、明らかに現状からかけ離れた批判を加えた「委員」(モーリシャス)は国益を害した。
 そこで上田氏は国益を守るべく、直ちに「日本は司法で最も進んだ国だ」と反論した。
 次いで傍聴席の日本人が上田氏の発言をせせら笑ったのも国益を害した。
 日本人が笑えば日本の大使のせっかくの反論も信憑性を奪われかねないため、この国益侵害は意外と深刻かも知れない。
 そこで上田氏は再び国益を守るため、これに対処せざるを得なくなった。唯一の方法はその場において、笑った日本人から信頼性を奪うこと以外にない。
 そこで敢えて「笑うんじゃない。なんで笑うんだ。黙れ。黙れ」と叫んで見せたのではないか。
 サンケイスポーツは「日本人権大使ブチ切れ!」などと報じたが、「ブチ切れ」が計算づくだったと思われてならない。

  ■国の名誉を守る唯一の手立て

 傍聴席にいた弁護士による上田氏批判のレポートによると、「(上田氏の叫びに)「会場全体がびっくりして、シーンとなった。大使は、さらに、『この分野では、最も先進的な国の一つだ』と繰り返し、『それは、もちろん、我々の誇りだ』とまで言い切った」そうだ。

 国の名誉(国益)を守るため、その場でやれるべきとはすべてやったという感じではないか。
 仮に単なる「ブチ切れ」だったとしても、結果を見ればそれでよかった。国際的な集まりの場では、感情を剥き出しにしてでも相手を説得しなければならないケースは多々あるはずである。
 ましてこの拷問禁止委員会は五月三十日、日本政府が河野談話や元慰安婦への「償い金」支給を説明したにも関わらず、慰安婦問題で「政府や公人による事実の否定や、それによって被害者を再び傷つける試みに反論せよ」と勧告してくるような機関であるから、なおさらだ。

  ■東京新聞こそ国益損ねる

 ところが日本のメディアが、それを許さなかった。東京新聞が「国連で日本政府代表『笑うな、黙れ!』」「『稚拙な国』の失言つづく」などと報じ、他のメディアもそれに従ったため、国内で「批判が噴出」する事態になったわけだ。
 そればかりか新華社など中国メディアも日本の報道を転載し、反日宣伝に利用している。
 「中国にだけは言われたくない」と思う者は少なくないはずだが、香港紙の明報に至っては、「上田だけにとどまらず、『慰安婦制度は必要』と言い放った大阪の橋下市長や『イスラムは殺し合いばかり』と言い放った東京の猪瀬都知事なども他人を見下している。これで他国の信頼を得られるのか」とまで書き、日本をとことんこき下ろしている(※橋下、猪瀬発言は不正確)。

 実はこれは東京新聞の記事にある「橋下徹大阪市長、安倍首相、そして『イスラム諸国はケンカばかり』とオリンピック招致に絡んで発言した猪瀬直樹東京都知事。海外からの『稚拙な国』という印象を確信させかねない発言がまた飛び出した」を参考にして書いたもの。

 このように見れば、自ら日本の名誉を損ねる東京新聞など「稚拙なメディア」こそが著しく国益を害しているといえそうだ。

   http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2132.html

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「一つに絞る」(肘打ち、数稽古)

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/16 (Sun)

  (肘打ちの続きです)

 「一つに絞ることで技が深まる」、
「一つに絞ることで、権謀術数を旨としない人物になる」と書きました。
 それに対して、「じゃあ、いくつもあったら駄目なのか」、「たかが武術の技一つで人の生き方まで決まる、なんてのは言い過ぎじゃないか」、と思われる人がきっとあるだろうなと思います。
 ということで、再度書きますが、「いくつもあったら駄目だ」とか「生き方が決まらないようなものは武術ではない」等を強要する気はありません。

 山ほど技を持っている人はいくらでもいます。
 そして、人格も立派で、誰からも尊敬されるような、でも武術家には全く見えない人も同じようにいくらでもいます。
 相撲の舞の海氏などは「技のデパート」と徒名をつけられたほどの多彩な技の持ち主だったし、人間的にも誰からも好かれる魅力の持ち主ですが、権謀術数を持たない、とは言えない。
 政治家が明確な目標一つだけを有権者に訴え、総理大臣になったからと言って、その政治家が権謀術数を全く用いないとしたら、海千山千の国会議員の協力を得ることなんか、まずできない。

 ただ、「技、神に入る」という表現があるのも事実です。
 更には最近はあまり見られなくなったけど、ネットでは「~は、神だ」、みたいな表現がありました。
 これ、元々は「神業だ(としか思えない)」ということの表現が、簡略化、象徴化されたものです。「神業」「神技」は、やはり一技に徹していくところから生まれます。

 以前に書いた、いくら熱心に稽古をやってもちっとも上達しなかった門人の話。 それが遂には優秀な師範代になったという話です。あれは事実なので、ちゃんと記録に残っています。 

 身近な例で、学生の頃、先輩がしてくれた話があります。
 その先輩は合気道部だったのですが、その先輩より一つか二つ上の先輩(勿論、合気道部の、です)が、一、二年後輩の自分等と同じような稽古をしている。つまり、一年生が習っているのと、あまり違わないようなことをしている。
 理由は「上手にならないので、先へ進めない」からだ、と。

 とても良い先輩なんだけれど、もう、その体捌きを見ただけで運動神経が鈍いと分かる。
 本人も随分気にしていて、だから、誰よりも熱心に稽古をするのだけれど、どうもうまくいかない。
 「これじゃ部の迷惑になるだけだから、退部した方が良いかも」
 と本気で思っていたようで、遂に最上級生にそのことを切り出した。

 すると最上級生はこう説得したそうです。
 「熱心にやって、ここまで続けてきたのだから、同じなら一つだけ徹底してやってみないか。『この技なら誰にも負けない』という技を、身につけたらどうか。」

 私のような素人が見ても、合気道の技は本当に多彩です。
 派手な技、華麗な技、地味な技。電撃のような技もあれば、剣術の極意技のようなものもある。
 身捌きが命、のようなのもあれば一瞬にして相手を叩き潰す、いや、切りつぶしてしまうようなものもある。

 その、「鈍い」と自他ともに認めていた先輩は以降、地味な、関節を極める技一つを稽古の間中、やっていたそうです。大学内の、言ってみればやりたいようにできる場だから、そんな自由なこともできたのでしょう。
 結果は・・・・。
 言うまでもないことでしょうが、受け手が相当に抵抗をしても、誰もその技に抗えなくなったそうです。見事に技が仕上がった、という事でしょう。

 でも、実はこの話には続きがある。
 一つしかやらなかった。一技だけ、他の人より上手に遣えるようになった。
 他の技は?
 いつの間にか他の技も人並み以上にできるようになっていた。
 ・・・・・のだそうです。

 「そんな都合のいいことがあるもんかい」
 と思われますか?
 見た目には色々な技があるとしても、その根本も色々あるか、というと、そうではない。
 合気道なら合気道を、大東流なら大東流を、勿論、一刀流だって陰流だって、みんなそれぞれを貫く、根本となる体捌き、太刀遣いがあります。
 技はそれらから生まれたもの(支。分れる。枝分かれ)だから、「技」と言います。
 一技を選び出して徹底的にやれば、他の技も同根なわけですから、「慣れ」の程度差はあれ、できない筈はない。いや、できない方がおかしい。
 剣道で、明けても暮れても正面打ちと左右面の練習をするのは何故でしょうか。
 何故、抜き胴とか小手打ちの練習「だけ」、を「明けても暮れても」やらないのでしょうか。
 それは「剣を持っての体捌き」をつくるためでしょう?
 相撲の摺り足、てっぽう、四股だって、相撲の足腰、体捌きをつくるためでしょう?
 
 「一つに徹することで、権謀術数を旨としない人物ができる」
 というのも同じことです。
 それに命を懸ける、わけですから、狡く立ち回って辛うじて勝ちを得る(辛勝する)のが良いか、圧倒的な強さで打ち負かす方が良いか、と考えた時、ほぼ全員が後者を選ぶでしょう?
 何しろ「辛勝」ってのは、ちょっとの手違いで死んじゃうかもしれないんですから。

 そうなると、「圧倒的な強さの入手法」って、単純なまでに一つことに全力で取り組む以上の方法はない、となりませんか?
 「一つに絞る」というのは「無駄なものを切り捨てよ」「他は削ぎ落とせ」、ではないのです。
 決して「仕分け」じゃない。根幹、体幹、「中心」、をしっかりとつくることが大事なのだ、ということです。
 そのつもりで(一技の修練と、そのための覚悟の目で)、他から目を背けず、しっかり見詰めて、そこから根幹を読み取る工夫をすればよい。

 この「一つの技(事)を通して、世間を見る」という姿勢からは、「是々非々」の物指しは生まれてきません。
 世間は「木を見て森を見ず、になってはいけない」と、知識としては教えながら、その具体的な手段は教えてくれません。
 けど、木(一技)を見詰めて、その木を見通す目を持つようになれば、その向こうに森はちゃんと見えるようになる。
 木を見詰めることをせず、眺めただけで「是々非々」を言おう(判断しよう)とするからおかしなことになる。
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肘打ち

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/13 (Thu)

 「肘打ち。数稽古」より続いています。もし時間がおありでしたら、そちらからご覧ください。
 
 前回は、「破壊力を余り重視しない日本の武術にあって、諸賞流は異彩を放っているんだけど実物を見たことがない。」そこまで。

 では、道場での話へ。

 道場には数人の門人が集まって稽古中でした。
 ごく普通に、教えられた技を、門弟同士で掛け合っている。
 そこにツーリング途中の、ごっついレザーパンツを穿いた、でも、ちっとも強そうでないおっさんが神妙に正座して稽古を見ている。
 珍妙な光景だったでしょうね。あ、そんなことはどうでもいいんでした。

 坐っていて、立とうとした瞬間、両側の受け手が取りの襟を左右から交差させて掴み、立たせまいとする。
 そして、おそらくはそのまま俯せに抑え込もうとする。
 
 正面に居る目上の者に跳びかかろうとするのを、左右の者がそうはさせじ、と掴み、引き据えようとする形のようです。
 それを、取りは両者の取った襟を軸とするかのようにして、前方回転をする。
 それにより、左右の受け手は取りを抑えることができず、取りの後を追うようにして前方に転がってしまう。

 なるほどと納得はするものの、当然のことながら取り手の腕に左右されるのが分かる。交代して技を掛けようとするが、今度受け手となった二人は、バランスを崩される程度で、見事に転がることはない。
 合気道の「合気揚げ」という技法を新前がやろうとしても全く利かず、却って抑え込まれてしまうのに能く似ている。

 自分でも、習いたての取り手の技法をかけようとしたら、身長差のせいもあってか、相手がびくともせず、四苦八苦した記憶がある。
 打太刀が意地悪をしているのではないのだが、技が掛からないものはしょうがない。かかったふりをしてやる、なんて八百長は何の意味もないのだから。
 仕太刀が無理をしない程度に稽古相手になってやって、技の掛かる道筋を教えてやるのが打太刀だ。

 そこで仕太刀は口伝を聞く。
 でも、口伝の意味は、まだ、分からない。そこから本人が色々と工夫をして、それなりの時間をかけて何とか技を使えるようになっていく。併行して口伝の意味も少しずつ分かるようになっていく。
 橋市道場でも同じで、二度三度と工夫しながらやるうちに、受け手が転ばざるを得ないようになっていく。

 実は、その時、どうしても聞きたいことがあった。それさえ聞けたら十分、と思っていた。
 「肘打ち」のことだった。
 目打ち(?)という名前の拳で顔を打つ技。胴に蹴足(けぞく)と言われる蹴りを入れる。
 しかし、諸賞流で多用される技は、目潰しでも、蹴足でもなく「肘打ち」だ、と聞いていた。
 前回書いたように、その肘打ちで、鎧の胴を打ち抜いたという逸話が残っている。

 「ということは、当て身技の中でも肘打ちが一番得意なのだろうから、肘打ちには色々な工夫があるに違いない」
 例によって、そんな風に思い込んでの稽古見学だった。

 空手には肘の打ち下ろし、背後にいる相手に対する、一般に「肘鉄砲」と言われる技、それにボクシングのフックのように肘を回し打つ技等、色々ある。きっと諸賞流もそうなんだろう。

 聞いた。
 「肘打ちにはどんなのがあるんですか?」
 すると、
 「こう」
 、と言いながら両手の甲を床に、掌を上に向けて、両肘を身体の両側に突出し、
 「打ち出すだけです」。

 「えっ!?」
 一種類しかないという事か???

 「空手のように、後ろとか前への技とかあるんじゃないんですか?」
 それへの答えに、また驚かされた。
 「後ろなら、身体の向きを換えたらいいんだから。」

 あっと思った。確かにその通りだ。色々な肘打ちを覚えたって、「その時」に遣うのは一種類だけ、なわけで、それなら色々と練習をするより、一つだけを徹底してやった方が良い。

 「相手がこう来たらこうやって・・・・」という風にして、各流派は技がつくられている。けれども投げ技以外の武術というものは得物(当て身技も含む)を、十二分にその威力を、引き出せば良いだけのこと。
 ならば、肘打ちも、目潰しも、蹴足も、一種類で十分ではないか。

 そうだそうだ、伝書にもあったぞ。
 「槍合いのこと、薙刀合いのこと、等と言って対処法を色々に言い立てるところもあるけれど、槍で突き掛られたら槍合いの技で対する。その時、薙刀合いの技は留守番をしておる。棒の手合いへの技は昼寝をしておる、ということになる。いずれも一打ちで済むことだろう」

 真横に両肘を張り出すようにする肘打ちは、右が当たっている時、左は無駄なものに見える。
 けれども左右均等に打ち出すことで体軸はぶれない。
 それどころか均等に打ち出すからこそ、一瞬に腰を落とし、安定した力を発揮することができる。
 卑近な例で言えば、
 「公共事業に金を掛け過ぎたから借金大国になったんであって、これからは『コンクリートから人へ』、だ。無駄な公共事業の予算を削減せよ」
 というやつだろう。メンテナンスのための費用まで削ったため、老朽化したところから順に故障が起きる。

 「右だけでいいじゃないか。左はそのままで良かろう」
 、なんて浅慮をすれば、体軸はぶれ、腰は落とせず、従って威力は半減する。

 相撲の投げ技は四十八手以上あるというけれど、大事なのは投げ技に習熟することではなく、「四股」と「てっぽう」と「摺り足」だ。「押さば押せ。引かば押せ」、だ。全力で押し続けることが何より大事だ。
 
 「たった一つだなんて。単純だなぁ」、或いは「潔いなぁ」
 、なんて言う人がいるかもしれない。
 けど、本当は正反対なんだろう。
 「思い通りに遣えるならば、たったひとつで良い。たった一つでさえ誰も思い通りにいかないんだから」

 一つに絞るからこそ、技は磨かれ、深みが増してくる。一つ、と心に決めるからこそ無我夢中になってやれる。
 傍目からは「あれがそんなに破壊力のある肘打ちか?」なんだろうけれど、あれ一つだけ、徹底して練習してるんだ、破壊力がつかない方がおかしい。

 技をつくる過程で、心掛け(平常心→不動心→平常心)もつくられる。「剣は心なり」、だ。一つに徹することで権謀術数を旨としない人ができる。
 諸賞流の宗家が何とも言えない安心感のある、魅力的な顔をしているのは、それに関係しているのかもしれない。
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