2013.06/21 (Fri)
除夜の鐘は百八つ。
人間には大小扱き混ぜて百八つの煩悩(気になること、悩み)があるという。
それを鐘を撞くことで一つずつ消し去ってしまう。
そうやって年を越すのだ、と能く聞きました。
除夜の鐘は百八つ。
人間には大小扱き混ぜて百八つの煩悩(気になること、悩み)があるという。
それを鐘を撞くことで一つずつ消し去ってしまう。
そうやって年を越すのだ、と能く聞きました。
百八つの気になる「思い」、を消す。消滅させることで安心を得る。
百八、というのは一百零八。「水滸伝」に出てくる英雄は、天罡星三十六 地殺星七十二、併せると百八。
煩悩の百八と英雄の百八人は偶然の一致ではないのでしょう。
水滸伝の英雄は次々に討ち死にしていくけれど、これは天にあるべき星が、地上に在って問題を解決し、また天に帰る、という発想からすれば、討ち死には平和な世に近付いていくことを暗示していると言えるんじゃないでしょうか。
百八の星は、天罡星は北斗の星のことらしいけれど、地殺星は全て凶星扱いです。だから問題のもとになる人々を殺し(事件を片付け)、自らも死んでゆく。
煩悩をなくすことも、討ち死にすることも、幸せになることと同じようです。
禅宗では世の中のこと全てが問題なんだから、全てを一気に解く、「問題を問題でなくす」という手法を採ろうとします。
けど、そんなの、いきなりは無理だから大問題、難問を用意して一瞬で解く練習をさせる。
それが「釈迦に遭ったら釈迦を殺し、仏に会ったら仏を殺す。殺し尽くして初めて安堵」という教えになっている。
本当に釈迦を殺すのではなく(現実には生身の釈迦には会えませんから)、問題を突きつけてくることになる「釈迦」という存在そのものをなくしてしまう。
別の高僧は、
「御釈迦様には煩悩などなかったのではないか」
と問われて
「何の。釈尊こそ煩悩のかたまりじゃ」
と答えたそうです。
「『一切衆生を救おう』というとてつもない煩悩を持っていたのだ」、と。
問題への対し方は、だから二通りある。
1、問題をなくす(殺す、消す)
2、問題を解く。(解くことで所定の位置を定める。決める)⇒解決する。
あ、もう一つありました!
3、「問題を見ようとしない」
1、は禅のように「心の持ち様なのだから」と、消してしまう(問題でなくする)やり方と、実際に(具体的に)なくす方法とがあります。後者は「粛清」というやり方です。
成程、これを実行すれば「問題そのもの」である抵抗者は完全に「消滅する」。消滅する人間、数百万人、なんてこともあるでしょうけど。
実際、気のせいかとは思うんですが、禅僧には共産主義に理解を示す人が少し多いような。
2、は、今、世界の大勢となっている「分かり合う」ための努力を惜しまないやり方。
国益のための交渉より、世界の平和のための話し合いを上位に置く。
3、は問題をなくすのでもなければ、解決するものでもない。ただ「見ない」ようにする。
どこの国のことか、はこれまでの日記で了解いただけるでしょう。
さて、我々日本人は、1,2,3のどれを選ぶべきか。
最近、「2であるべきだ!」と言っていた国が、実は3、だった、と明らかになったわけですが。
やっぱり「あれはダメ。これも駄目」と切り捨て続けていたら、最後には自分も切り捨てなけりゃならなくなる。
「そして誰もいなくなった」、では笑い話にもなりゃアしません。
百八、というのは一百零八。「水滸伝」に出てくる英雄は、天罡星三十六 地殺星七十二、併せると百八。
煩悩の百八と英雄の百八人は偶然の一致ではないのでしょう。
水滸伝の英雄は次々に討ち死にしていくけれど、これは天にあるべき星が、地上に在って問題を解決し、また天に帰る、という発想からすれば、討ち死には平和な世に近付いていくことを暗示していると言えるんじゃないでしょうか。
百八の星は、天罡星は北斗の星のことらしいけれど、地殺星は全て凶星扱いです。だから問題のもとになる人々を殺し(事件を片付け)、自らも死んでゆく。
煩悩をなくすことも、討ち死にすることも、幸せになることと同じようです。
禅宗では世の中のこと全てが問題なんだから、全てを一気に解く、「問題を問題でなくす」という手法を採ろうとします。
けど、そんなの、いきなりは無理だから大問題、難問を用意して一瞬で解く練習をさせる。
それが「釈迦に遭ったら釈迦を殺し、仏に会ったら仏を殺す。殺し尽くして初めて安堵」という教えになっている。
本当に釈迦を殺すのではなく(現実には生身の釈迦には会えませんから)、問題を突きつけてくることになる「釈迦」という存在そのものをなくしてしまう。
別の高僧は、
「御釈迦様には煩悩などなかったのではないか」
と問われて
「何の。釈尊こそ煩悩のかたまりじゃ」
と答えたそうです。
「『一切衆生を救おう』というとてつもない煩悩を持っていたのだ」、と。
問題への対し方は、だから二通りある。
1、問題をなくす(殺す、消す)
2、問題を解く。(解くことで所定の位置を定める。決める)⇒解決する。
あ、もう一つありました!
3、「問題を見ようとしない」
1、は禅のように「心の持ち様なのだから」と、消してしまう(問題でなくする)やり方と、実際に(具体的に)なくす方法とがあります。後者は「粛清」というやり方です。
成程、これを実行すれば「問題そのもの」である抵抗者は完全に「消滅する」。消滅する人間、数百万人、なんてこともあるでしょうけど。
実際、気のせいかとは思うんですが、禅僧には共産主義に理解を示す人が少し多いような。
2、は、今、世界の大勢となっている「分かり合う」ための努力を惜しまないやり方。
国益のための交渉より、世界の平和のための話し合いを上位に置く。
3、は問題をなくすのでもなければ、解決するものでもない。ただ「見ない」ようにする。
どこの国のことか、はこれまでの日記で了解いただけるでしょう。
さて、我々日本人は、1,2,3のどれを選ぶべきか。
最近、「2であるべきだ!」と言っていた国が、実は3、だった、と明らかになったわけですが。
やっぱり「あれはダメ。これも駄目」と切り捨て続けていたら、最後には自分も切り捨てなけりゃならなくなる。
「そして誰もいなくなった」、では笑い話にもなりゃアしません。