CubとSRと

ただの日記

面従腹背の目指すところ

2020年04月16日 | 心の持ち様
2013.06/05 (Wed)

  「同盟国の正体」      
                   ~夕刻の備忘録より~

 アメリカは「同盟国」である。掛け替えのない「同盟国」である。
 それでは「同盟国」とは何か。
 その正体は、「最大にして最強の敵国」である。世界で最も敵に回したくない仮想敵国、それがアメリカである。敵に回したくないからこそ、同盟を結んでいるのである。

 それはアメリカにしても同様である。もちろん、アメリカにとっては、現状の我が国は「最大にして最強の敵国」ではないだろう。
 しかし、最もやりにくい相手であり、軽んずべき相手でないことは、先の大戦の結果が示している。従って、両国共に進んで同盟を結んでいる。「敵は近くにおけ」ということだ。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 一旦ここで切ります。
 今回の展開は、滅多に聞かないものではありませんか?
 でも、これ、「あっ」と思わされる部分があったんじゃないでしょうか。

 「同盟国とは、最大にして最強の敵国」。
 だから、同盟を結ぶ。敵でなければ併合の可能性もある。
 しかし、周辺は敵だらけなんだから、それなら、最強の敵と結ぶ方が良い。
 最強の敵をなくすのと、二番目以降の敵をなくすのとでは、どちらが良いのか。
 考えるまでもない。
 そしてそれはアメリカにとっても同じ。日本ほど危険な敵(国)はない。
 言ってみれば、大東亜戦争の末期、世界中を相手に、日本はただ一国で戦っていたのだから。そんな空恐ろしいことをした国は歴史上、日本しかない。
 そして、その日本は今でも地球上に存在し、GDPは世界第三位。
 それも人口三億を超す国と、十三億を超す国に対し、一億三千万人で、三位。 単純に言えば、それぞれの二倍以上、十倍以上の力を現在、持っているという事だ。
 
 「最も危険な相手とは、仲良くして置くに限る。」
 普通、そう考える。中華思想の国でなければ。

 では続きです。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 戦後、マスコミは徹底的に「吉田茂内閣」を批判した。まさに「アメリカの言いなり」を叫ばない日はない程であった。
 しかし、当のアメリカ政府関係者は、「吉田ほど我々の言うことを聞かない男はない」と愚痴を言っていたのである。

 当たり前の話である。戦後、我が国の軽武装・経済中心の国家体制を築いたのは吉田である。そして、「真の敵は日本軍国主義ではなく、台頭著しい共産主義である」との認識の下に再軍備を迫るアメリカを、断固として斥けたのも吉田である。

 当時の吉田の判断を「今の眼鏡」で云々する人も多いが、少なくとも吉田は、「同盟国」とは何であるかを心得ていた。いや、当時の自民党の幹部は、当然この認識の下に政治を行っていた。
 正面から戦えない相手を抑えるには如何にすべきか、を考え続けていた。その最強の応手が、経済を基礎にした国家の再興である。
 これこそが、アメリカも認めざるを得ず、尚且つアメリカが内心では最も嫌がる戦法なのであった。
 そして、彼等の懸念は瞬く間に現実になり、経済大国としての日本が、アメリカと対峙するまでになったのである。
 「アメリカの言いなり」と言われ続けた吉田こそが、最もアメリカを悔しがらせた、この現実を我々は見るべきである。
               
                  (以下略)

   http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-937.html

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 一時期、「日本はアメリカのポチだ」、とか「アメリカのイエスマン」だとか、聞いたような覚えがあります。
 「アメリカに対しては何にも言えない。」
 卑屈になったり、口惜しがりながら、ではなく、本当に心の底から喜んで、まるで犬が舌を出して尻尾をちぎれるようにして振りながら、ご主人様にまとわりつくような、そんな接し方をしているように見えた。

 先年亡くなったハマコーこと浜田幸一議員が、口を開けば
 「日本はアメリカ様に、へへぇ~っ、と言って頭を下げなけりゃならない。アメリカ様なんだから」
 って、言ってましたが、勿論本気じゃない。
 でも、勿論、本気だったんです。言外にその「面従腹背」振りがはっきりと出てました。それが、「同盟国」とは何であるか、を心得ていた証拠でしょう。

 冷静に、「今できることは何か。国のために、『今』できることは何か」ということを、絶体絶命の中で、政治家は最強国家アメリカへの対し方を考え、実行してきた。
 「面従腹背」を貫いてきた。その目指すところは?

 ここでも、「是々非々」なんてのを声高に言い立てるのは、「現実」と「あらまほしき未来」双方を本気で見詰めようともしない、理想主義者ならぬ夢想主義者だけだ、と明らかにされているんじゃないでしょうか。

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何食わぬ顔をして、今日もまた妥協する

2020年04月16日 | 重箱の隅
2013.06/04 (Tue)

 ここ一週間余りの「夕刻の備忘録」ブログ、何とか感想文を書いて置きたいと思いながら、橋下発言が気になって手を着けられませんでした。
 そうこうするうちに日は過ぎる、他にも書いて置きたいことがそのままになっている、頭はどんどんボケる。で、これじゃどうにもならない、ということに。

 というわけで数篇を少しずつ転載して一まとめにし、考え方を明らかにしようと思ったのですが、少しずつのつもりが、一篇だけでこんなに長くなってしまいました。それじゃ駄目じゃん。

 で、予定を大幅に変更して、まとめず、数回に分けて最後に、できればまとまった(まとまるであろう)私の捉えたところを感想文にしようかな、と思っています。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   「敵は近くにおけ」

 総裁選で勝った方が主流派。負けた方が反主流派として、党内でいがみ合う構図を避けて、それぞれに役職を分配するのである。
 このことによって、総裁の地位は下落し、思い通りの人事が出来ない状況になる。
 しかし、それでも充分にメリットがある。そう判断すれば、かつての敵を懐の中に入れ、勢力を拡大しないように監視するのだ。
 それが政治家の基本的な考え方である。
              (略)
 実に党内に野党が存在するのである。
 その党内野党の戦闘力を殺ぐことが、人事の一番の目的である。それがなければ「挙党態勢」など出来るわけがない。
              (略)
 こうした力関係を知らない人は、「誰々を入れたからダメだ」とすぐ騒ぎ立てる。 野に放って餌を漁られるのと、手元においてサボタージュをされるのと、どちらが安全で安心かという話である。
 もちろん、こうした小技が何処まで通用するか。周辺の状況により、これは一変する。誰も確定的なことは言えない。
 しかし、現状でベストだと思えば、やるしかないのである。
              (略)
 我々有権者は、政治家のこうした深謀遠慮を知らねばならない。表面的なことばかり追い掛けていたのでは、彼等の真の目的を見逃してしまう。
 敵を近くにおき、味方を遠くにおいて、組織全体を引き締めている極めて有能な人物を、「敵に舐められ、味方に裏切られた無能な人物」と誤解する、それが性急な有権者である。
 そしてその結果、選挙で重要な人物を落選させてしまう。

 隣国の諺「無能な政治家が来れば歓待せよ、有能な政治家が来れば冷遇せよ。そうすれば、相手国には無能な政治家だけが生き残る」を、マスコミに操られた国民が率先してやっているのが我が国の現状である。
              (略)
 あの中川昭一ですら落選させられたのである。
 政治家は出来ぬ我慢をするものである。
 そして、最低最悪のライバルを手元におきながら、何食わぬ顔をして、自らの理想の実現のために、今日もまた妥協するのである。

 政治家は「計画的」に判断する。少なくとも、まともな政治家は長期に渡る計画性を持つ。それを有権者が「衝動的」に判断すれば、間違うのは当然の話だろう。
 政治家を判断する目は、必ず冷静なものでなければならない。思い込みや、噂、見た目の派手さなど、判断を狂わせる要因は山のようにある。我々に必要なものは、一にも二にも、冷静な判断能力、ただそれあるのみである。

        「敵は近くにおけ」
                    ~夕刻の備忘録より~

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「最高、最強の内閣」、みたいな表現が発足当初、あったように記憶しています。
 いや、振り返ってみれば、いつもそう聞いていたような気がします。
 「あの」民主党政権の時だってそうだったんじゃないでしょうか。
 でも、これ(最高・最強)は総裁選(代表選)に負けた者も内閣に入れた、と公言(公認)したという事なんですね。

 つまり最高・最強、というのは、「そうではない。反対勢力も入閣させたから」というのが本心だということになります。
 だから、思い通りには行かないから、妥協もするし、時にはごり押しもする。
 でも、「反対勢力」はなくなった。これ以上の強みはない。
 だから「最高・最強」はウソではない。

 野党なら何も問題はないけど、「党内野党」は党の分裂を招く。党内野党に冷や飯食わせたら、怒って手勢を連れて党を飛び出しちゃうんですから。
 野党なんかよりよっぽど始末に困る。
 反対勢力を閣僚に入れるという事は、「物事が決まらなくなる」という事だから、ほどほどに煽て揚げ、時には除名もある、と嚇したり、でなかなか大変です。
 何でそんなことをするか、って?民主主義だからでしょう?
 隣の国にはそんな面倒なことは必要ないですからね、完全無欠の、「粛清」という名の使い勝手のいい最終兵器がありますから。
 残念(?)ながら、我が国には、戦前だってそれはなかった。
 「粛清」OK、ですか?官制テロル、ですよ?支配者以外、全国民対象です。

 そう考えたら、我々の思いを国政に反映させるには、それなりの政治家を我々がつくるしかない。
 何十年もかかる。第一、本人にその気になってもらうことが大前提です。
 「誰々を入れたからダメだ」と大騒ぎをすることの延長線上に、
 「あんな政策やってたら駄目だ。勝手に政治をやってる。辞めさせてしまえ」
 があります。

 それが《「無能な政治家が来れば歓待せよ、有能な政治家が来れば冷遇せよ。そうすれば、相手国には無能な政治家だけが生き残る」を、マスコミに操られた国民が率先してやっているのが我が国の現状である。》の文中語です。

 先日はH元総理が、今日(6月4日)は元自民党の重鎮N氏が隣の大国に行って、やってますね。
 でも、N氏は「棚上げ論はあった」としか言ってません。
 しかし、あったのは「棚上げ論」、ではなく「棚上げに関する話」、です。
 実際、周首相は、その時、「この話を今、するのはやめよう」と言っただけです。
 しかし、彼の国は「『棚上げ論』で合意した」と宣伝します。
 菅長官はこれ以上ない、というほど簡明に「公式にはありません」。

 我々国民はどちらととるか、ですね。
 気づかず操られてないか。
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