2017.04/12 (Wed)
三月末、数日間、田舎に帰っていた。
白兎神社に参拝しようと思い、鳥取海岸経由でこちらに戻って来た。
海に面して東西に道路が走り、道路に面して神社がある。神社のすぐそばに、道の駅が作られている。
道の駅から十数歩で、白兎神社の鳥居をくぐる。
大国主神が旅をしてきたところ、ワニに皮を剥かれて泣いているウサギが居たので手当の方法を教えてやった、という神話が有名だが、その白兎を祀る神社だ。
あの神話、妙なところというか、何とも謎の多い話だ。
まあ、神話というのは細かいことを言い出せばきりがないほどおかしな話が多いんだけども。
本質を無視、乃至は軽視して理屈をこねくり回し始めたら、どうにもならない。「木を見て森を見ず」、だ。「例外」とか「特殊な例」の袋小路にハマって二進も三進もいかなくなる。
以前に竹田恒泰先生が「神話というのは『事実』ではなく『真実』を書いてあるんです」と言われていたのを聞いて、なるほど上手い説明だな、と感心したことがある。
何しろ、神話というものは文字のない昔のことを「口伝え」できていたものだから、伝承違い、記憶違いということが起こらない方がおかしい。口伝どころか、筆写したって誤写、誤字、脱字は当たり前に起こるのだ。
神話はそんな「口承」を、或る時点で文字化したものだから、個々に見ていけば辻褄の合わない伝承がどうしてもできてしまう。
それを、そこばかりを論(あげつら)って
「だから神話『でしか』、ない。本当にあったことではない」
と全否定してしまえば、歴史なんか、もっと言えば、先人の作ってきた考え方、文化など全ての物事は全く信用のできない物になってしまう。つじつまの合わない部分に留意しつつ、全体(本質も)を把握しようと見詰めてこそ、前進できるというものだ。
いきなり、話が逸れてしまった。
隠岐にいた兎が、海を渡ろうと思い、
「仲間の数を数えてやるから、並んでごらん」
と、ワニをだまして並ばせ、その上を跳ねて陸地に着く、寸前に辛抱できず、
「こっちに来たかっただけだよ。馬鹿な奴らだ」
と、笑いながら言ってしまった。
怒ったワニは寄ってたかって兎の皮を剝がしてしまった。
面倒なことをしたもんです。いっそみんなで噛みついてずたずたに・・・、というのが普通なんじゃないでしょうかね。何で、生かして返したんでしょうね。分からん。ちっともワニらしくない。ナンセンスだ。
・・・、と、まあ、「本質を無視、乃至は軽視して理屈をこねくり回し始めたら、どうにもならない」実例です。
「数を数える」とか「(殺すのではなく)皮を剥がす」ということに、本当に伝えたかった「何か」があるのではないか、と考える方が意味がありそうなんですが。
ところで、あの「ワニ」。あれは「鰐」ではなく「鮫」のことだ、というのは能く知られています。日本には鰐は、いませんから。
でも「鰐」という字はある。それも「魚偏」ですからね。水中にいて泳ぎ回るんだから、魚じゃなくても魚、とみなされていた「ワニ」。揚子江(長江)にもワニがいるんじゃなかったですか?だから「鮫」とは違う生き物で、「鰐」という字が作られたのかも。
こうなると白兎の皮を剝いだのは爬虫類のワニの方かも、となってきますが、いくらなんでも日本海にそんなに「ワニ」が棲んでいたとは思えないでしょう。
やっぱり、「鮫」ですかね。
島根、鳥取では昔から鮫のことを「わに」と言っていました。
実際に「ワニ漁」があって、「ワニ漁師」もいた。昔、NHKのドキュメンタリー番組で、近くの漁港の漁師がこれをやっているのが放送され、びっくりしたことを覚えています。
人力では無理なので、ウィンチで巻き上げるんですが、船に引き揚げられてからでも暴れまわります。下手に近づくと腕でも足でも食いちぎられてしまう。それで、呼吸ができなくなってちょっとおとなしくなったところで、金槌で頭部を何度もぶん殴る。大声で「成仏してください!」と言いながら。でも、本当にこうでも言わなけりゃ祟られるんじゃないか、と思うくらいの暴れようで、漁師も、鮫も気の毒なくらいの疲れようでした。(「気の毒な」、と思いながら、私はこの肉を湯引きして酢味噌で食べるのが好きで・・・・。)
このワニのひれを切り取って「フカヒレ」として売る。身は解体して魚と同じく、売る。新鮮なうちは淡白な味の刺身になるけれど、鮮度が落ちるにつれてアンモニア臭がひどくなってくる。それでも腐っているわけではない。
それで、中国山地の最奥部、広島との県境を越えて、山間部の方でも、生のままで食べられる。
・・・・脱線ばかりなので、今日はこの辺で。
(いずれは「ご利益」という題名で括ろうと思ってるんですが。)
三月末、数日間、田舎に帰っていた。
白兎神社に参拝しようと思い、鳥取海岸経由でこちらに戻って来た。
海に面して東西に道路が走り、道路に面して神社がある。神社のすぐそばに、道の駅が作られている。
道の駅から十数歩で、白兎神社の鳥居をくぐる。
大国主神が旅をしてきたところ、ワニに皮を剥かれて泣いているウサギが居たので手当の方法を教えてやった、という神話が有名だが、その白兎を祀る神社だ。
あの神話、妙なところというか、何とも謎の多い話だ。
まあ、神話というのは細かいことを言い出せばきりがないほどおかしな話が多いんだけども。
本質を無視、乃至は軽視して理屈をこねくり回し始めたら、どうにもならない。「木を見て森を見ず」、だ。「例外」とか「特殊な例」の袋小路にハマって二進も三進もいかなくなる。
以前に竹田恒泰先生が「神話というのは『事実』ではなく『真実』を書いてあるんです」と言われていたのを聞いて、なるほど上手い説明だな、と感心したことがある。
何しろ、神話というものは文字のない昔のことを「口伝え」できていたものだから、伝承違い、記憶違いということが起こらない方がおかしい。口伝どころか、筆写したって誤写、誤字、脱字は当たり前に起こるのだ。
神話はそんな「口承」を、或る時点で文字化したものだから、個々に見ていけば辻褄の合わない伝承がどうしてもできてしまう。
それを、そこばかりを論(あげつら)って
「だから神話『でしか』、ない。本当にあったことではない」
と全否定してしまえば、歴史なんか、もっと言えば、先人の作ってきた考え方、文化など全ての物事は全く信用のできない物になってしまう。つじつまの合わない部分に留意しつつ、全体(本質も)を把握しようと見詰めてこそ、前進できるというものだ。
いきなり、話が逸れてしまった。
隠岐にいた兎が、海を渡ろうと思い、
「仲間の数を数えてやるから、並んでごらん」
と、ワニをだまして並ばせ、その上を跳ねて陸地に着く、寸前に辛抱できず、
「こっちに来たかっただけだよ。馬鹿な奴らだ」
と、笑いながら言ってしまった。
怒ったワニは寄ってたかって兎の皮を剝がしてしまった。
面倒なことをしたもんです。いっそみんなで噛みついてずたずたに・・・、というのが普通なんじゃないでしょうかね。何で、生かして返したんでしょうね。分からん。ちっともワニらしくない。ナンセンスだ。
・・・、と、まあ、「本質を無視、乃至は軽視して理屈をこねくり回し始めたら、どうにもならない」実例です。
「数を数える」とか「(殺すのではなく)皮を剥がす」ということに、本当に伝えたかった「何か」があるのではないか、と考える方が意味がありそうなんですが。
ところで、あの「ワニ」。あれは「鰐」ではなく「鮫」のことだ、というのは能く知られています。日本には鰐は、いませんから。
でも「鰐」という字はある。それも「魚偏」ですからね。水中にいて泳ぎ回るんだから、魚じゃなくても魚、とみなされていた「ワニ」。揚子江(長江)にもワニがいるんじゃなかったですか?だから「鮫」とは違う生き物で、「鰐」という字が作られたのかも。
こうなると白兎の皮を剝いだのは爬虫類のワニの方かも、となってきますが、いくらなんでも日本海にそんなに「ワニ」が棲んでいたとは思えないでしょう。
やっぱり、「鮫」ですかね。
島根、鳥取では昔から鮫のことを「わに」と言っていました。
実際に「ワニ漁」があって、「ワニ漁師」もいた。昔、NHKのドキュメンタリー番組で、近くの漁港の漁師がこれをやっているのが放送され、びっくりしたことを覚えています。
人力では無理なので、ウィンチで巻き上げるんですが、船に引き揚げられてからでも暴れまわります。下手に近づくと腕でも足でも食いちぎられてしまう。それで、呼吸ができなくなってちょっとおとなしくなったところで、金槌で頭部を何度もぶん殴る。大声で「成仏してください!」と言いながら。でも、本当にこうでも言わなけりゃ祟られるんじゃないか、と思うくらいの暴れようで、漁師も、鮫も気の毒なくらいの疲れようでした。(「気の毒な」、と思いながら、私はこの肉を湯引きして酢味噌で食べるのが好きで・・・・。)
このワニのひれを切り取って「フカヒレ」として売る。身は解体して魚と同じく、売る。新鮮なうちは淡白な味の刺身になるけれど、鮮度が落ちるにつれてアンモニア臭がひどくなってくる。それでも腐っているわけではない。
それで、中国山地の最奥部、広島との県境を越えて、山間部の方でも、生のままで食べられる。
・・・・脱線ばかりなので、今日はこの辺で。
(いずれは「ご利益」という題名で括ろうと思ってるんですが。)