CubとSRと

ただの日記

多数派を納得させるには、「論より証拠」、ではありますが。

2020年04月06日 | 心の持ち様
2017.06/02 (Fri)

 この獲得目標三五キロメートルの燃費には重大な意味があった。軽自動車の燃費がハイブリッドカーに負けていたからだ。五人乗りハイブリッドカーの二代目トヨタ・プリウスは二〇〇三年の時点で燃費三五・五キロメートルを達成していた。
 このプリウスのエンジン排気量は一五〇〇ccで、軽自動車の六六〇ccの二倍以上ある。それなのに四人乗りの軽く小さな軽自動車より、登録車のプリウスのほうが燃費がいいのは、なぜだという疑問が世間に浮上してくる。
 しかもハイブリッドカーの市場競争が激化した結果として、二〇一六年三月現在では一六〇万円台のハイブリッドカーが売られている。
 つまりハイブリッドカーは軽自動車よりも燃費がよく、その価格は軽自動車の価格帯にせまりつつあった。軽自動車はハイブリッドカーに追い込まれているようにみえた。

 しかし冷静に考えれば、登録車のハイブリッドカーはエンジン排気量やボディーサイズを自由に決められ、そのうえ電気モーターやバッテリー、発電機にも規制がないから、軽自動車より燃費が良くなるのは必然的なところがある。
 たとえばエンジンの排気量を、電気モーター、発電機、バッテリーとの最高効率のバランスをとって自由に設定できる。あるいはボディーのサイズを自由に設定して空気抵抗を軽減したボディーデザインにすることも可能だ。
 しかし軽自動車は法律で細かく規定されているスモールカーだから、エンジン排気量の上限は六六〇ccで、ボディーのサイズも規定より大きくすることはできない。しかもエンジンパワーだけで駆動されていて、電気モーターのたすけをかりていない。
 ようするに技術開発の自由度が圧倒的にちいさいので、ハイブリッドカーのように短期間の開発で燃費を向上させることが困難であった。

 そのような技術的な次元のちがいを理解する人たちは、軽自動車の燃費が負けていることを疑問に思わないが、それは少数派にすぎない。技術的な次元がちがうということを理解しない多数派は、現実の燃費数字で単純な比較をするから、そうは思わない。
 「軽自動車を生産販売する自動車メーカーとその技術者が燃費向上の努力をおこたっている」
 と思うかもしれない。
 サボっていると言われても、軽自動車メーカーもその技術者も面と向かっての反論はむずかしい。

 この多数派を納得させるためには、現実に軽自動車の燃費を向上させるほかに方法がないのである。

            ~(ダイハツコペン開発物語 中部勉)~


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「多数派を納得させるためには、現実に軽自動車の燃費を向上させるほかに方法がないのである。」  
     ↓
 「次元がちがうということを理解しない多数派は、現実の(燃費)数字で単純な比較をする。」

 いろんなことを考えます。
 この場合は多数派も少数派もダイハツの顧客、ダイハツのクルマの購買層なわけですが、つい、国政、とか一般社会でのそれを重ねてみてしまいます。別にいいですよね、本ってのは読者が何を読み取るか、ですから。

 多数派が主導権を握るのが民主主義だから、主導権を握ろうと思えば人々を納得させて多数派を形成しなくちゃならない。
 (勿論「民主主義」だから、少数派にも主張する権利は同等にある。)
 ところがこの多数派という奴、「多数派」になった時点で主導権を握ったわけだ。そうなると難しいことを考えたり言ったりしなくても、代表となった者(リーダー、頭、議員など)の大奮闘で「思い」が実現するわけだから、すぐ何でも代表に丸投げしてしまうようになる。
 そして思う。「オレは神。代表(公僕)は、下僕」
 全く勉強をしなくなる。そして言う。
 「分かるように説明してみろ。聞いてやるから」
 ダイハツ(に限らないけど)多数派の購買層も言う。「オレが買うんだ。欲しいと思うようなクルマをつくってみろ。買ってやるから」
 「何で、ハイブリッドカーに燃費で負けてんだ?軽なのに?値段だってあんまし変わらないじゃないか。こんなんだったら、軽、やめてハイブリッドカーにするぞ!」
 「多数派が主導権を」、と書いたけど車の場合購買者=多数派ということになります。
 だから、みんなが言う。
 「分かるように説明してみろ。聞いてやるから」
 でも、実際は「聞いてやる」という態度だから、なかなか理解しない(理解できない)。
 それを納得させるには「軽の方が、やっぱり燃費がいい」という数字の提示による「論より証拠」。
 
 代表が狡猾な人物だったら、詐欺的言辞を弄して人心を操り、多数派を形成して会社より私利私欲、の実現に走る。
 熱誠の人ならば、「オレは神」と踏ん反り返っている多数派を、「そうではない。クルマとは~」と正論を吐くから、多数派の
 「お前は何様だ。俺はお客様=神だぞ!」
 の一言で、瞬く間に代表の座から引き摺り下ろされる。

 政治の場合はもっと悲惨です。代表の必死の説得よりも、「俺はお客様=神」の側に立っているふりをしてリーダーを引き摺り下ろそうと画策する「反対勢力」という連中がいつもいる。酷いときになるとリーダー周辺にいる反対勢力が「後ろから鉄砲を撃ってくる」こともある。

 以上は指導者(リーダー)の苦悩について思ったことです。
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匍匐前進

2020年04月06日 | 心の持ち様
2017.05/11 (Thu)

宮崎正弘氏のメールマガジン「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の読者欄から。

(2017)5月8日(月曜日)弐
        通算第5283号
(読者の声1)
 安倍首相が2020年改憲目標を発表したことで、憲法改正論議が高まり、とくに保守陣営からは批判が強いようです。
 中途半端な改正なら、しないほうがマシという議論ですが、貴見はいかに?
  (JJセブン)

(宮崎正弘のコメント)
 政治家の任務とは「理想と現実のギャップを一歩一歩埋めていく」ことであり、安倍首相は「匍匐前進」が信条の人。
 短期的な視点で論評するべきではないと思います。

(2017)5月8日(月曜日)参
        通算第5284号  
(読者の声2)
 前号の読者の声で、憲法改正は「中途半端ならしない方がまし」という意見が保守陣営に多いとのことですが、私は宮崎さんの「匍匐前進」を支持します。
 そもそも現在の憲法は制定以来1度も改正されておらず、この後も安倍さんが総理を辞めたら、こんな面倒で困難な大事業を手掛けようという政治家は自民党の中にも残念ながら見当たりません。
 過日の慰安婦問題をめぐる日韓合意の際にも保守側から厳しい意見が出されました。
 しかし、政治(外交も)に百点満点はありません。もしあったとしたら、必ず恨みを買い、いずれまた反対派にひっくり返されるでしょう。
 従って、現実の政治では60点あれば「合格点」とみなすべきではないでしょうか?
 「政治は妥協」と言われるゆえんもそこにあります。
 今回の安倍首相の憲法改正の意図表明は、自らの自民党総裁任期(3選終了=2021年9月)をにらみ、ぎりぎりのタイミングでその道筋を示したものです。
 内容的には「中途半端」かも知れませんが、「本丸」である9条にも踏み込みました。同条2項「戦力不保持」との整合性が問題になりますが、第3項にでも「我が国は自然権としての自衛権を有し、日本国は陸海空3自衛隊によって守られる」とでも表記するのでしょう。
 これだけでも実現すれば、私は政治家として大変な業績だと思います。
 1度改憲すれば、2度目以降はそれほど難しくないでしょう。最初の門をこじ開ける意味は大変大きいと考えます。
(加藤清隆)

 ~~~~~~~~~~~
 「匍匐前進」が信条。
 これ、本当は政治家なら誰だってそうじゃないでしょうか。「理想と現実のギャップを一歩一歩埋めていく」。
 舗装のされてない、けれど砂利だらけの道、を進むようなのが、政治。速足や駆け足でできるようなことは、まずありません。急ぐと簡単に転倒したり、取り返しのつかない大怪我をする。
 それに民主主義国家では、一政治家が単独でできることなどありません。

 「そんなことない。青山繁晴氏なんか一人でやってるじゃないか」?
 氏が議員になれたのは?482、000人近くの支持があったからですよね。その支持があったればこそ選出されたんだし、国会内でも支持する(あやかりたい、も含め)議員が多くあるんであって、だから、発言力として注視される。でも、それは単独でやって「注視」されてる、ということではありません。
 勿論、テレビ中継されるときに限って、党派全員がプラカード(?)をカメラの方に向けて騒ぐ、というやり方も「注視」はされますけどね、あれは「匍匐前進」とか熱烈な「支持」とは違いますからね。
 あれは支持してた人だって「呆れ返る」だけですけど。
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