2013.04/30 (Tue)
百人一首、とか落語の話ではありませんので。
「刀を振る」という事について書いてみようと思ったんです。
それで何か枕になることは、と思ったら「枕詞」というのが浮かんできました。
というわけで、例によって思いつくままに。
でも、これなら、きっと「刀を振る」という事については今日は書けないと思います。分かるんです。きっと脱線したまま、討ち死にするんです。
でも、袖振り合うも他生の縁、折角ですから、最後まで読んでやってください。
「刀を振る」の「振る」から、「千早振る」という枕詞が浮かんできました。
「振るが引っ掛かっているだけじゃねえか」?
そうなんです。でもそうとばかりも言いきれない。
「千早振る」は枕詞です。「神」という言葉を引き出すために使う。
何で、「千早振る」は「神」を引き出すのか。
「枕詞には、あんまり意味はない。初めはあったんだけども特に意識する必要はない。それよりも、この言葉が出てきたら、次に出てくる言葉は決まっているんだから、そっちの方が大事だな」
、みたいなことを高校生の時に習ったおぼえがあります。
でも、有名な枕詞を聞いてみると、それぞれ何だかカッコいい。
意味がない、なんて言われても「ああそうですか」と、右から左へと受け流すことができない。引っ掛かってしまうんですよね、昔から。
授業はどんどん先へ進むのに、何とも魅力的な枕詞の意味合いに嵌ってしまって、授業の方を右から左へと受け流してしまう。
いつもそんな調子だから、成績は・・・です。劣等生の見本です。
私のことはほっといて。
一応、国文科の学生となって、上代文学の講義を聴いているうちに、
「でも、やっぱり初めは意味があったのだ。それも思った以上に重要な意味が」
、と思うようになりました。
有名なところでは「あおによし」「飛ぶ鳥の」「そらにみつ」「あしひきの」「ひさかたの」、それからこの「千早振る」など。
本来の意味から見ていくと
「青や丹(朱色)が鮮やかな建物が建ち並ぶ」→「青丹よし」奈良の都
「飛ぶ鳥の如く勢いのある」→「飛ぶ鳥の」明日香の宮
「空いっぱいに満ちて栄える」→「そら(に)みつ」大和(大和島根)の国
等、特に言わずとも定型の修飾語、修辞として見て、なんら問題はないみたいです。
その線上の一つ、「千早振る」。
「千早」は「早い」の千倍も、くらいのことでしょう。「とてつもなく」、ですか。
「振る」は「魂を振る」「魂振り」の「振り」だから素早く動くこと。
「千早振る」とは「とてつもない、信じられないほどの早さの動き」を指すと思います。それが神の枕詞。
という事は逆に見れば、「神」とは「人知でははかり知れないとてつもない早さの動きをするもの」ということになります。
少なくともそれが神の一面、と古代の日本人は捉えていた。
この頃「神速」という言葉を能く目にしますが、この「神速」の「速」は、だから「千早振る」と係わりがある、ということを、今の日本人も、何となく感じ取っているのかもしれません。万葉の昔にはなかった言葉です。
「神速」。神のような速さ。
この「速さ」はロケットや、飛行機、新幹線のような高速移動だけではなく、常識を超えた神威の発動全てを指しています。
こうやって僅かながらでも、並べて見てみると、枕詞というのが次の言葉を引き出すため、というのは容易に納得できるけれども、同時にその次の、引き出す語に対する思いが相当に強く込められているのではないかと感じます。
それは「こうあってほしい」という場合もあれば、「こうである」という断定の場合もあり、「こうだと言われている」という場合も、「こうであるべき」という強い希望の場合もある、という風に様々なんだけれど、そこには共通した「言葉を大事にする」という「言霊」の意識があります。
言葉を大事にして、肝腎な言葉を、決して「唐突に」、ではなく、「手順を踏んで」、明らかにしようとする。そうすることによって言霊の「魂振り」を誘い、思いを相手にしっかりと伝えようとする。
その意味で、枕詞というのは掛詞や縁語と違って祝詞にも近い、本来の日本語の特質を強くあらわしているものかもしれません。
祭事を受け、継いで政事が行われる、という形も、その一つの表れ。
明治以降、先人の努力により、文章が散文体になって、言いたいことが唐突に文字にされるようになりました。それに合わせて物言いまで、「魂振り」など全く意識しない形になり、枕詞も意味のないもの、となっていきました。
祭事から政事へということ、枕詞が次の言葉のための大事な挨拶となっていること、と同じように、「手順」、や「物事を大切に」という態度で事を行えば、行う者も、参加する方も、それぞれに心積もりをして向かう事が出来ます。
「唐突な言葉で、でも手順はしっかりと」
、というのは息が詰まります。何より、相手の方はぎりぎり締め上げられる胡麻の気分になるでしょう。
唐突な言葉の上に、手順がいい加減なら、これは下手をすると失笑されるだけです。本人も立ち往生。
言葉を大事にしなければ妙なことになる。
「核心的利益」という言葉を使えば使うほど、強盗のイメージが強くなってきている、と感じ始めた日本人は多いでしょう。
半島国が「無慈悲な爆撃(?)」、みたいな表現をしたことを面白がって、「兵士がみんな田植えに行っている」というニュースを笑い、すぐさま「無慈悲な田植」という言葉がテレビで流れました。
これらから見るに、日本人には古代からの、「言葉に特別な思いを持つ」感性が、まだ残っていそうです。
学校教育で論語の素読が行われなくなったことが日本人の感性を根無し草にしてきたように思いますが、考えてみれば、姿勢を正して、みんなで良い言葉、良い文章を朗誦すれば、良いだけのこと。
というわけで、予言的中。言いたかったことは次回回し。
いやいや。「千早振る」と「刀を振る」。
「刀を振る」、その「振りの早さ」について、考えてみたいんです。
百人一首、とか落語の話ではありませんので。
「刀を振る」という事について書いてみようと思ったんです。
それで何か枕になることは、と思ったら「枕詞」というのが浮かんできました。
というわけで、例によって思いつくままに。
でも、これなら、きっと「刀を振る」という事については今日は書けないと思います。分かるんです。きっと脱線したまま、討ち死にするんです。
でも、袖振り合うも他生の縁、折角ですから、最後まで読んでやってください。
「刀を振る」の「振る」から、「千早振る」という枕詞が浮かんできました。
「振るが引っ掛かっているだけじゃねえか」?
そうなんです。でもそうとばかりも言いきれない。
「千早振る」は枕詞です。「神」という言葉を引き出すために使う。
何で、「千早振る」は「神」を引き出すのか。
「枕詞には、あんまり意味はない。初めはあったんだけども特に意識する必要はない。それよりも、この言葉が出てきたら、次に出てくる言葉は決まっているんだから、そっちの方が大事だな」
、みたいなことを高校生の時に習ったおぼえがあります。
でも、有名な枕詞を聞いてみると、それぞれ何だかカッコいい。
意味がない、なんて言われても「ああそうですか」と、右から左へと受け流すことができない。引っ掛かってしまうんですよね、昔から。
授業はどんどん先へ進むのに、何とも魅力的な枕詞の意味合いに嵌ってしまって、授業の方を右から左へと受け流してしまう。
いつもそんな調子だから、成績は・・・です。劣等生の見本です。
私のことはほっといて。
一応、国文科の学生となって、上代文学の講義を聴いているうちに、
「でも、やっぱり初めは意味があったのだ。それも思った以上に重要な意味が」
、と思うようになりました。
有名なところでは「あおによし」「飛ぶ鳥の」「そらにみつ」「あしひきの」「ひさかたの」、それからこの「千早振る」など。
本来の意味から見ていくと
「青や丹(朱色)が鮮やかな建物が建ち並ぶ」→「青丹よし」奈良の都
「飛ぶ鳥の如く勢いのある」→「飛ぶ鳥の」明日香の宮
「空いっぱいに満ちて栄える」→「そら(に)みつ」大和(大和島根)の国
等、特に言わずとも定型の修飾語、修辞として見て、なんら問題はないみたいです。
その線上の一つ、「千早振る」。
「千早」は「早い」の千倍も、くらいのことでしょう。「とてつもなく」、ですか。
「振る」は「魂を振る」「魂振り」の「振り」だから素早く動くこと。
「千早振る」とは「とてつもない、信じられないほどの早さの動き」を指すと思います。それが神の枕詞。
という事は逆に見れば、「神」とは「人知でははかり知れないとてつもない早さの動きをするもの」ということになります。
少なくともそれが神の一面、と古代の日本人は捉えていた。
この頃「神速」という言葉を能く目にしますが、この「神速」の「速」は、だから「千早振る」と係わりがある、ということを、今の日本人も、何となく感じ取っているのかもしれません。万葉の昔にはなかった言葉です。
「神速」。神のような速さ。
この「速さ」はロケットや、飛行機、新幹線のような高速移動だけではなく、常識を超えた神威の発動全てを指しています。
こうやって僅かながらでも、並べて見てみると、枕詞というのが次の言葉を引き出すため、というのは容易に納得できるけれども、同時にその次の、引き出す語に対する思いが相当に強く込められているのではないかと感じます。
それは「こうあってほしい」という場合もあれば、「こうである」という断定の場合もあり、「こうだと言われている」という場合も、「こうであるべき」という強い希望の場合もある、という風に様々なんだけれど、そこには共通した「言葉を大事にする」という「言霊」の意識があります。
言葉を大事にして、肝腎な言葉を、決して「唐突に」、ではなく、「手順を踏んで」、明らかにしようとする。そうすることによって言霊の「魂振り」を誘い、思いを相手にしっかりと伝えようとする。
その意味で、枕詞というのは掛詞や縁語と違って祝詞にも近い、本来の日本語の特質を強くあらわしているものかもしれません。
祭事を受け、継いで政事が行われる、という形も、その一つの表れ。
明治以降、先人の努力により、文章が散文体になって、言いたいことが唐突に文字にされるようになりました。それに合わせて物言いまで、「魂振り」など全く意識しない形になり、枕詞も意味のないもの、となっていきました。
祭事から政事へということ、枕詞が次の言葉のための大事な挨拶となっていること、と同じように、「手順」、や「物事を大切に」という態度で事を行えば、行う者も、参加する方も、それぞれに心積もりをして向かう事が出来ます。
「唐突な言葉で、でも手順はしっかりと」
、というのは息が詰まります。何より、相手の方はぎりぎり締め上げられる胡麻の気分になるでしょう。
唐突な言葉の上に、手順がいい加減なら、これは下手をすると失笑されるだけです。本人も立ち往生。
言葉を大事にしなければ妙なことになる。
「核心的利益」という言葉を使えば使うほど、強盗のイメージが強くなってきている、と感じ始めた日本人は多いでしょう。
半島国が「無慈悲な爆撃(?)」、みたいな表現をしたことを面白がって、「兵士がみんな田植えに行っている」というニュースを笑い、すぐさま「無慈悲な田植」という言葉がテレビで流れました。
これらから見るに、日本人には古代からの、「言葉に特別な思いを持つ」感性が、まだ残っていそうです。
学校教育で論語の素読が行われなくなったことが日本人の感性を根無し草にしてきたように思いますが、考えてみれば、姿勢を正して、みんなで良い言葉、良い文章を朗誦すれば、良いだけのこと。
というわけで、予言的中。言いたかったことは次回回し。
いやいや。「千早振る」と「刀を振る」。
「刀を振る」、その「振りの早さ」について、考えてみたいんです。