CubとSRと

ただの日記

「証人が絶対」、ではない。

2020年04月15日 | 心の持ち様
2013.05/22 (Wed)

 所用あって神戸に戻って三日目。
 今日も黄砂、PM2,5共に多めの筈だが、やはり日本海側と瀬戸内では随分様子が違うようで、全くの別世界。遠くが少しも霞んでないのに驚く。
 
 半年前、戻った時はどうも何もやる気が起きず、何でだろうと考えてみたら、単に家の中が黴臭くってそれが気になって、という事でしかなかった。
 「人間、実に単純なことでやる気をなくすもんだ。」
 そう日記に書いた覚えがある。

 で、今日は三日目なわけだが一昨日も昨日も日記を書いていない。
 今回は入梅の時期の前だから黴臭さもさほどではない。
 でも、日記は書いてない。
 という事はやっぱりただの怠け癖か。いや、書きたいことがないからだろうな、きっと。

 実を言うと先日来の橋下発言について、思うところはあった。
 で、もやもやしていたそれを「夕刻の備忘録」氏が見事にまとめられていたので、これ幸いと転載して終わっている。

 要点は二つだった。「従軍」と言われる慰安婦の件と、米軍司令官への言辞の問題。それが日が経つにつれてどんどん喧しくなってくる。

 女性蔑視だ、というのが一番喧しくて、超党派で喧しどころが集まってワアワア言っている。
 それぞれがそれぞれの立場で言っているのだから、何だか今朝みの氏が言ってたように「どんな風に終結させようと思ってるんですか」という捉え方。
 つまり話題を提供はしたものの、答えは分かり切っているので、それをどう言ったか、ということを、各々の立場で好き勝手な物指しをあてて計るだけなんだから、収拾がつく筈はない、と大方の人は分かっているわけだ。

 やはり、陽動作戦、囮作戦とみるしかない。
 片山虎之助氏も「結果として安倍さんは助かったでしょうなぁ」と、橋下氏の言動を安倍政権掩護の意味があったのだろうと見ている。
 「女子挺身隊」を「慰安婦」のことと解釈したのは、韓国の学者の無知無能の故、と思っていたが、その初めはやはりアサヒ新聞にあるらしい。
 アサヒの記者が「慰安婦のこと」と解説したのがはじめで、「慰安婦募集」の広告から、女子挺身隊=慰安婦=売春婦 という信じられない展開になっていたことの間違いを、本当ならアサヒが訂正、説明すべきなのだ。

 実は「慰安婦」というのだって、本来は売春婦のみを指す言葉ではない。
 戦地に、慰問のために歌手・踊り子・女優が出かける。みんな広義の慰安婦だ。戦地での兵士の気持ちを慰安するために訪れる慰安団(慰問団)なのだから。
 気持ちを慰めるために行くのであって、性交渉など、全くない。
 だから、或る意味では慰安婦と女子挺身隊も近い存在だと言えるかもしれない。
 しかしそれは、言ってみれば今隣国の主席となった習氏の夫人が、軍人ではあるけれども軍属の歌手として、歌手活動こそが彼女の軍人としての仕事なのだ、というのと同じようなものである。慰安婦=売春婦ではないということだ。

 慰安婦云々について、今月下旬に橋下氏は元「いわゆる」慰安婦二人と話をする予定だ、という事だが、それについて、ふと思ったこと。
 敗戦後、一流と言われた新聞紙の記者でさえ間違えた報道をしている。
 勿論、意図的にウソの記事(と言うより、大袈裟に書いたことで、逆にあれは誇張でしたと言えなくなり、結果としてウソを重ねていった)を書いた記者の罪の重さは計り知れない。
 が、証人となっている「慰安婦」は、当事者ではあっても新聞記者ほどの学問、教養があった筈はない。まずは彼女らの受けた教育はどの程度のものであったろうか、ということも確認して置かなければならないのではないか。

 彼女らは、新聞記者と違って、悪意を以て捏造や故意の誇張をするほどの能力を持ってはいないと思われる。だから、彼女らは彼女らの理解範囲内でしか話せない。それをどう解釈するかは全て彼女らの支援者の「技量」にかかっている。
 つまり、支援者が彼女らの言葉をパーツとして支援者の都合の良いようにモンタージュ技法を駆使するだけではないか。

 繰り返すが、新聞記者でさえ怪しい理解しかできていなかった、
 「女子挺身隊とは」「慰安婦とは」
 「強制連行とは」
 「他国の軍隊に於ける性の問題」
 「親に売られたのか」「女衒に騙されたのか」
 「軍の関与はどこまでか(拘束するために駐屯地内に置いたのか。彼女らの安全のために置いたのか)」
 等々の諸問題を全く理解できていなかったのではないか。
 それが証拠に彼女らは口を開けば「あんなに辛かったことはない」、としか言わないのではないか。それらを理解する能力はなかったのではないか。

 そんなことが今回見る限り、全く話題にされていないことについて考えるべきではないか。超党派で「人権が」「女性蔑視が」というようなことは全くの見当はずれの話だろう。まずは「奴隷」の説明をしておき、その上で「性奴隷」という表現に対して、当のいわゆる慰安婦はどう思っているか聞きたいものだ。

 一番の問題は、本当はついでのように出された米軍司令官への言辞なのだ。その件までも、今回は米軍の女性報道官が「兵士のやせ我慢」に関しては目もくれず(意図的?)に、人権云々の話に引き摺り下ろしてしまった。
 石原氏は、記者会見ではなく、本にしたらいいんじゃないかというようなことを言って、やり方の稚拙さを諭した。そりゃそうだろう。本にしたら、一度言ったことをコロコロ変えることはできない。

 記者に、言葉の足りないところを補って記事にしろ、なんてのは無理な話だ。百歩譲って、「言ったことをそのまま書いてくれ」だって、かなり難しい。
 何しろ、把握能力をつくってきたかどうか、全く分からないのだから。
 先輩や上司から言われることは、確実性ではなく、「ニュース性を重視せよ」、だったはずだ。
 橋下氏が思っている以上に、更に記者自身が思っている以上に、記者というのは理解能力を持っていないのだから。
 「いわゆる」慰安婦も、橋下氏も、記者も、或る意味で「証人」だ。
 だからこそ、それが正しいか否か、まずは各々の理解能力、把握能力を見るべきだろう。


 追記
 売春婦問題については、安倍総理の答弁以上の安全運転が、これまでの政権で行われたことはなかった。
 慎重だけれども、肝腎の返答は、一歩も引いてはいない。河野談話だって一瞬の河野氏の温情の「隙」に付け込まれたが故の解釈だった。
 安倍総理は後退したとか腰砕けだとか言われるけれど、能く見るとこれ以上言葉を選んで隙を見せずに応対していること、類例がなく、氏が名宰相であることに間違いはない。

 「今すぐには談話を出さない。歴史問題を政治問題に置き換えてはならないから、これは学者の研究結果を待つことにする」
 実は、これ以上に韓国の嫌がる返答はない筈だ。史実や学問的定義を抜きにして、感情を前面に押し出して散々に日本叩きが行われてきたのが、「学者の研究の結果を待つ」と言われたら、攻め手が全くなくなってしまうのだ。
 ということで、売春婦の問題は大きな問題ではない。却って、彼女らに橋下氏が頭を下げることで問題は大きくなってしまう。

 それよりも、他国の軍人の、「必死の思いの痩せ我慢」を侮辱したということ、これこそが桁外れに大きな問題なのだ、と何故メディアは採り上げないのだろう。ただの侮辱ではない。相手は同盟軍ではないか。
 侮辱する国民を、「それでも守るのが自衛隊です」と自衛官は言うらしい。頭が下がる。
 けど、アメリカ軍は自衛隊ではない。
 「それでも日本人を守るのが同盟国、アメリカ軍です」、と?
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ヘイトスピーチ(憎悪表現)

2020年04月15日 | 重箱の隅
2013.05/12 (Sun)

 自分のことを大切に思う。自分自身に価値を見いだす。そんな心の動きを自尊感情という。多少なりともそれを持てないと生きづらいが、往々「自分はダメだ」と落ち込むのもまた人間である
▼といったことを考えたのは、最近ヘイトスピーチ(憎悪表現)が議論の的になっているからだ。人種や国籍で人を差別し、侮蔑し、貶(おとし)める。例えば「韓国人を殺せ」などと、どぎつい言葉を発しながら在日韓国・朝鮮人の多い街中を練り歩く
▼あまりのエスカレートに国会の論戦でも取り上げられた。谷垣法相は「品格ある国家、成熟した社会」という方向と正反対だと嘆いた。安倍首相も言った。彼らは「結果として自分たちを辱めている」
▼仲間うちと違う属性を持つ人たちを攻撃し、その尊厳を傷つけることで優越感を持つ。満足を覚える。それは彼らの自尊感情の歪(ゆが)みのなせる業か。それともそれを持てないが故に代償を求めているのか
▼司馬遼太郎の短いエッセーに「常人の国」がある。わが母校、わが社、わが民族……。「わが」と限定されると〈人間の情念はにわかに揮発性のガスを帯びる〉。ガスの素(もと)になるのは自己愛である。〈人はそれを共有して吸うとき、甘美になる〉
▼ヘイトスピーチをたしなめる首相も、歴史認識をめぐる問題ではこの気体を吸い込んでいないだろうか。本当の誇り、自尊の心は、過去を謙虚に直視するところから生まれるだろう。常人の国であるためには「勇気と英知」がいると司馬は書いている。

          「 天声人語」

   2013年 5月 12 日(日)

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ヘイトスピーチについて書いてあるのだが、途中からなんだか怪しくなる。

 私はヘイトスピーチを良いとは思っていない。
 彼らは「出ていけ」と言ったって、出て行きゃしない。
 実力行使で「大阪湾に叩き込ん」だって、這い上がって家に帰るだろう。
 「ゴキブリ!」と罵ったってゴキブリに変身する筈もない。

 彼らはそう言われることに嫌気がさして祖国に引き揚げるか。
 いやいや、逆にしばき隊なるものを作って、却って国会議員の支援者まで取り付けて、いかにも自分等が弱者のように振る舞っているではないか。
 「やむに已まれぬハングク魂」みたいな顔して居座る。
 マスメディアは、そんな彼らを全面的に庇護する。
 
 このアサヒがそうではないか。
 ヘイトスピーチの目的は
 「(彼ら在日の)尊厳を傷つけることで優越感を持つ。満足を覚える。」
 ことにあるのだ、歪んだ自尊感情か、又は劣等感だと断じている。
 「優越感」と「満足感」のために、ヘイトスピーチを繰り返すのだと。

 舐められたものである。
 「こんなことをしなければ優越感も持てないのだ、満足もできないのだ。いやはや日本人も低能になったものだ」
 アサヒはこう言っているわけだ。

 そして、司馬遼太郎の言を引き合いに出して、例によって捻じ曲げ、総理批判に持って行く。

 《「わが」と限定されると〈人間の情念はにわかに揮発性のガスを帯びる〉。》

 司馬はこれだけしか書いていないのに、天声人語子はこう付け足す。
 「ガスの素(もと)になるのは自己愛である」。
 「首相にも自己愛があるのではないか。だから「わが」と言うのではないか」

 「揮発性のガスを帯びる。人はそれを共有して吸うとき、甘美になる」
 これは集団で同じ思いを持つ(共有する)、つまり、団結をする、という意味以上でも以下でもない。甘美になる、麻薬なのだ。おかしいか?脳内麻薬だ。
 なぜ、それを自己愛と同じものと言えるのだろう。

 「自尊の心は、過去を謙虚に直視するところから生まれるだろう。」
 とんでもない。
 自尊の心は熱情から生まれ、「過去を謙虚に直視する」ことで、確固たるものになっていくのだ。
 だから、まずは「我が国が好きだ」「我が国は素晴らしい」と、それこそ「日本は良い国だ」と大人によって感化されるところから始まるのだ。それこそが教育の淵源なのだ。
 それを「わが」と言わず「この(国)」という。他者を見詰める目だ。そこから自尊の心がどうやって生まれるのだ。 

 そして、またもや得意の手法、他人に代弁させる。
 《常人の国であるためには「勇気と英知」がいる》
 、と司馬は書いている、と。

 けれど「揮発性のガスを帯びない「この国」という情念の人間の国」って一体何だろう。それは本当に国なのか。それ以前に、そこにいるのは本当に人間なのか。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以下は以前に書いた日記の一部です。

 大阪外語大蒙古語学科を出た三木青年は、「史記」を書いた司馬遷に、「遼(はるか)に及ばぬ日本の男子(太郎)」
、という意味から、司馬遼太郎と名告って、小説を書く。
 「日本は、どこから、道を間違えたのか」、と。

 そして、日清戦争の時は、洋々たる希望を胸に生きていたけれど、日露戦争の辺りから、怪しくなったのではないか、と思い始める。

 軍神と讃えられた乃木将軍に、凡庸の将という評価を定着させたのは司馬遼太郎の力、と言っても良いかもしれない。

 かれは、いつも、人間の目より高いところから、人を見る。数十メートル高いところから、人の展開する歴史を見る。
 「我が国のかたち」ではなく、「この国のかたち」を見る。
 「この国のかたち」として、日本の過去、現在、未来を、そして、人間の関わり合いを掴もうとする。

 「岡目八目」、だ。確かに見える。だが、切実さは、ない。離れている分、体温の温もりが伝わらず、分かりにくい。
 「悲惨な戦争」を見て、感情的に反戦主義者になった風ではない。

 けれど、日本から一歩離れて(少しの高みから)見ることが、歴史を掴むことを可能にはしたものの、
「さて、それでは、これからどうする」といった
「熱情」は、生まれるべくもない。

 
 「この国」という言い方は、そういうことなのだ。冷静に、客観的に見ている雰囲気がある。
 「自国に対して劣等感を抱いてきた」、或いは「他国に対して申しわけないことを先祖がやって来た」、という意識を抱いてきた者は、無意識のうちに自国を客観視することをよしとする。「思い遣っている」わけだ。

 ただし、深層の話だ。当人は気がついてない。
 今、急激に「この国」、という評論家的姿勢の人が増えている。

 幾多の売国法案に危機を感じるのは、底流に「この国」と見る人の増大があるからだ。


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