CubとSRと

ただの日記

肘打ち。数稽古

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/03 (Mon)

 確か36歳だったんじゃないか。
 剣術を習い始めて十年経ったか経たないかの頃だ。
 下北半島から「東北太平洋岸南下ツーリング」の三日目くらいだったろう。
 盛岡の橋市道場という道場へ、諸賞流の稽古を見せてもらいに寄った。
 これまでにも何度か日記に書いた、その破壊力が半端でない強烈な当て身技を持っている、というあの流儀だ。

 源頼朝の前で技を披露したところ、鎧の胴に入れた肘打ちのせいで、見た目には何ともなかったものの、内側に打撃が透り、内側の鉄片が突き破られていた、という。
 狐伝流から観世流と名前を換えて残されていたこの流儀は、その技前の見事さを「居並ぶ諸将が賞讃」したため、改めて「諸賞流」と称することになったのだそうだ。

 空手の肘打ちの破壊力は、テレビなどでも見る機会があるし、その強烈さは何となく分かる。瓦を何枚も重ねたのを肘の一撃で打ち割ってしまうのを見れば、子供だってその破壊力に目を瞠る。
 けれど、日本の古流武術で、そこまでの当て身をする流儀なんて聞いたことがない。

 「日本では、当て身は飽く迄も敵の動きを止めるためのものであって、一撃必殺の突きや蹴りなどは必要ないと思っていたからだろう」
 だから、そんな風に当て推量をしていた。
 実際、古流武術の型を見ると、ほぼ例外なく短刀を帯に挟んで行うものであり、当て身、投げ、絞め、極めなどの術を施した後、必ず留めの一撃を行うようになっている。そしてその多くは短刀(脇差か鎧通しを擬しているのだろう)で行う。
 文字通り、「止めを刺す」わけだ。

 その合理性を、頭では分かるものの、何だか武術の持つ「圧倒的な破壊力」、みたいなものが見られないというのは、妙に物足りないというか、線が細いような気がして仕方がなかった。

 あの八極拳のように、敵がどんな変則的な攻撃をして来たって
 「そんなもの、ガンとやれば終わりだ」
 というような豪快さや、形意拳の郭雲深のように
 「半歩崩拳普く天下を打つ(はんぽぽんけんあまねくてんかをうつ)」
 と称された無敵の様、みたいなのが日本武術にはないのか。
 
 いや、日本にだって、あることはある。
 有名な話だが、示現流の東郷重位(とうごうしげたか)が、欅の碁盤に切り付けた刀は、真ん中あたりから碁盤を切り抜け、畳を切り通した切っ先は根太の半分近くまで切込んでいた、という。
 しかしこれは「この覚悟でやれ。地獄の底まで切り抜くのが当流の『意地』だ」、と我が子と弟子に教えるためだった。
 「破壊力をつけよ」、ではなく、流儀の本意、覚悟・境地の工夫を求めたものだった。
 駒川改心流の黒田鉄山師範は、一抱えもある柿の大木を抜き打ちに切断した人の話をどこかで書かれていたが、「腕が上がったらそんなことは簡単にできるようになる」、というような書き振りで、もうこうなると破壊力云々のレベルではない。

 剣術ならば、こういった話はいくらでもあるようだが、書いて来たように柔術となると、当て身を多用する流派で、破壊力に定評があって・・・なんてのは聞いたことがない。
 でも、この諸賞流は破壊力で知られている。一体どんなのだろう。

 その日が稽古日だという事をツーリングに出る前に確かめて置いて、当日、電話を掛けた。
 見学したい旨、伝えると、「見に来ても良い」、と言われる。



 ・・・・・・ということで、続きます。

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さらりと読めば、反省してしまいます。

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/15 (Sat)

 「一人の人間の命は地球よりも重い」、と総理大臣が言った国、日本。

 我々もまた、人命にかかわることになると、「おかしいなあ」「ウソ、ついてないか?」等、疑問を持ったり推測をしたりすることをためらってしまいます。
 日本人同士、そうやって思い遣りを以て相手に接するのが、我が国の精神、在り方だったからです。

 でも、他国はそんなことはまるで思いません。
 相手の言い分を疑いもせずそのまま受け入れるなんて、そんなのは世界では非常識なことなんだ。我々日本人はそれを思い知らされ続けてきました。

 いつから「思い知らされ」てきているのでしょうか。
 私は元寇の昔からだと思います。名乗りもせぬうちから毒矢を射かけてくる、先陣の功など関係なく銅鑼や太鼓で前進後退する、訳の分からない敵軍。日本の常識が全く通用しなかった、と中学校で教えられたことを今でも思い出せます。
 それから七百年以上たって、それで、前出の「一人の人間の命は~」です。
 全く進歩してない?バカ?呆れ返ったお人好し?
 でも、どれだけ騙されても、どれだけバカにされても、結局日本はバカにされっぱなし、ということは一度もなかった。
 それどころか、たったこれだけの、資源も平地もあまりないこの国土で、それも焼け野原からやり直して、長らく世界第二位の経済力を持ち続けた。

 何故、そんなことが可能だったんでしょうか。
 それは「呆れ返ったお人好し」に見える謙虚さと思い遣りの裏に、常にそれを支える「誇り」があったからでしょう。
 「謙虚さ」にせよ、そこから生まれる「思い遣り」にせよ、自然に生まれたものではありません。これは間違いなしにつくり上げてきたものです。そして、これを作り上げた、という自覚が「誇り」です。
 日本人は世界中から「バッカじゃねぇの?」といくら笑われても、謙虚さと思い遣りを以て他国に接してきました。けれど、そこに卑屈さは、全くない。
 その誇り高い姿に、いつしか損得でしか物事を考えられなかった他国人も「格」の違い、ということを考えるようになった。

 しかし今、日本人は世界の常識に倣おうとしはじめている。
 それを非難する気はありません。
 誇りと、謙虚さと思い遣りを忘れなければ。

 以下は「狼魔人日記」の転載です。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    裏付のない戦争体験!
 ■裏付けのない「証言」の乱発

高校教科書の「軍命による集団自決」との記述を削除せよ、という文科省検定意見に反発し、沖縄2紙が大発狂した2007年。

その同じ年、琉球新報に長期連載中のドキュメンタリー作家上原正稔氏の「パンドラの箱が開くとき」の「慶良間で何が起きたか」の部分が著者の了解も得ず削除された。
さらにその年は、9月29日には大幅水増しで有名な「11万人集会」が催されると言う異常な年であった。

連日発狂新聞の紙面には集団自決の生き証人と自称する人物が登場し、「残虐非道な日本軍」の悪行を告発し続けた。

だがいずれの証言にも「軍命」を立証する根拠は得られず、その証言自体も客観性に乏しく、中には明らかな嘘とわかるものも多々あった。

壕に避難していた少年に途中から入ってきた日本兵が「毒おにぎり」を食わそうとしたので、少年は壕を逃げ出し命拾いをしたと言う証言が派手に掲載されたが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないゴチソウであり、その大事なおにぎりにわざわざ毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

証言者が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りのさい歪曲・捏造したことくらい容易に想像がつく。

次に挙げるコラムもその類のいい加減な証言だろう。

<金口木舌>沖縄戦の教訓、今こそ生かせ

2013年6月12日

 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた
▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という
▼仲松さんが「まさか友軍が」と語るように、県民には当初、日本軍第32軍は守りに来たと見えた。だが目的は本土決戦に向けた時間稼ぎ。このため多くの犠牲を生む。今では周知の史実だが、県民に広く知れ渡るまでには時間を要した
▼沖縄戦研究者の石原昌家氏によると、戦後の混乱期は県内の識者の間で旧日本軍の行動を批判的に検証する動きは無いに等しかった。1960年代の復帰運動を機に「捨て石」作戦の実相が徐々に知れ渡ったとみる
▼運動の中心を担った教職員らが沖縄戦を捉え直し、県民に発信する役割を担った。生徒の命を奪った戦争を二度と繰り返すまいとの誓いからだ
▼沖縄戦の教訓に思いを致すと9条改定や国防軍創設を掲げる自民党改憲案に不安が募る。国民的議論を欠いたまま、改憲手続きが進み、いつの間にか国民に銃が向けられたり、銃を持たされたりする事態にならないか。不幸な歴史は繰り返してなるまい。

             ☆

>糸満市の仲松庸全さんが

証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、よく読み返すと嘘は自ずと矛盾が露呈してくる。
壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。
それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。

わが子を自分の手にかけたという贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。 
お気の毒であるが、この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救える話だ。

だが、「自決命令を下して集団自決に追いやったのは、赤松、梅澤両隊長だった」などと名前を特定されたのが慶良間島集団自決の悲劇である。
そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。
以後「軍命による集団自決」が集団自決のあった座間味村役場の公式見解になったという。

本来なら軍人の遺族にしか適用できない「援護法」を軍人の遺族でもない集団自決の遺族に適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意が、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。
歴史の皮肉である。

上原正稔さんの琉球新報を相手取った戦いの目的は、不当に汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長の汚名返上にある。
ちなみに引用の上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、射殺した銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾であり、誰もが気がつく疑問である。

            ★
                ~狼魔人日記~

   http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/32cc053ad4daecd0461...
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もはや「井戸端(会議)」ではない

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/14 (Fri)

           (略)
 部分と全体は切り離すことができない渾然一体としたものであり、一部を変えれば、他の全てを失うかもしれない、むしろ失う方が普通であるにも拘わらず、「是々非々」で欠点を矯正して欲しいと願うのである。全てを保ったままで、欠点だけが除去できると信じているのである。

 「そんな都合のいい話はない」と諭すのが大人の役割である。
 ところが、その大の大人が、都合のいい要求を政権に突き付けて、自分だけは公平な人間であると気取っているのである。

           (略)

 日本の復活を何より恐れる周辺国があり、その連中に汚染されたマスコミがあり、政治の中枢に浸透した工作員がいる中で、「大体は賛成なのだけれど、ここだけは嫌!」などという子供染みた態度が通るはずもないだろう。
 それは既に明白な利敵行為なのだ。

 「TPPは交渉にも反対だ!」「スワップは止めろ!」と叫んで政権が安定するなら、幾らでもそうする。
 しかしながら、そうした批判は政権を弱体化させ、日本の国力を殺ぐ。マスコミが必ずそうなるように誘導する。
 その結果、「TPP体制に配慮」せざるを得なくなり、「周辺国との関係を生温いもの」にせざるを得なくなる。望むものと正反対の結果しか得られない。
 そして、益々の政権批判が続く。まさに「負のスパイラル」ではないか。
 これが「日本弱体化の歴史」なのである。

 あらゆる批判が、個別の小さな批判が、全体を破滅に導く。政権を倒すつもりなら、それでいい。
 しかし、支持を訴えながら、部分的に批判できると思う、その考えは甘すぎる。 刃物で斬り付けておきながら、「私が斬ったのは相手の小指の爪の先です、それで死ぬなんて思いませんでした」と、かまとと全開に言うつもりなのか。
 ふて腐れながら、「そんなつもりじゃなかったのに!」と言ったところで後の祭なのである。
           (略)
 
 何時までも、昔の井戸端会議の感覚で、「その日の不満」「今日の不愉快」を爆発させていてはダメなのだ。

 そんなことは日頃「百も承知」と言っている人に限って、「正論」をぶちたがる。日本の有権者は、狂ったマスコミに日々踊らされているのである。
 そのことを、本当に理解しているなら、我が国の将来を本当に危惧しているなら、危なくて「是々非々」などと暢気なことを言っている余裕などないはずである。

 安倍政権を支持するなら、良い政策は扱う、問題のあるものには沈黙する。これが「今は」一番正しい態度である。大一番の選挙を前にして、これ以外には考えられない。
 関係者には、我々の沈黙は「否」であることを、感じて貰えればそれでいい。
 沈黙に徹すれば、マスコミに揚げ足を取られる心配もない。

           (以下略)


   ネットに「井戸端」はない

             ~夕刻の備忘録より~

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ブログに書いたことや、コメントに遺したことだって、もはや「井戸端」の話ではない。
 「そんなこと知ってるよ」、とみんな思ってる。
 「ネットに載せた時点で全世界同時公開みたいなもんだ。」

 でも同時に、何となく思ってるんですよね、
 「自分の意見や書き込み(だけ)は、悪意を以て拡散されたり、歪曲されたりしないだろう」って。
 「どうせ内輪(井戸端)の話だもの、世間が注目する筈がない」って。
 でも、《ネットに「井戸端」はない》んです。
 先日来の株の乱高下は外国の投資家が云々と言われますが、何よりもの原因はコンピュータにやらせているから、でした。人間と違って仕事が異常に早い。
 言ってみれば、あの勢いで捏造された(或いは歪曲された)情報が、出て行くんです、我々の手元から。
 「その日の不満」「今日の不愉快」が、いつの間にか「政権への不満」「総理への不信」、と書き直されて。

 自分の言いたいこと(思っていること)は喋らねば伝わらない。雄弁は銀。
 金貨は貴重です。だから流通させず、手元に置いて置く。
 喋ることで社会を動かすけれど、喋らなければ一目置かれる。
 そして喋らなければ捏造・歪曲もできない。
 だから「沈黙は金」。実はどちらが欠けても社会は成り立たない。
 「パパとママ、どっちが好き?」という二者択一は、だからナンセンス。

 《「あらゆる批判が、個別の小さな批判が、全体を破滅に導く。」》
 《「支持を訴えながら、部分的に批判できると思う、その考えは甘すぎる。」》

 「井戸端のつもりだった」と復興庁のニンジャ乗り参事官がいくら言っても、更迭されてしまえばこれまでの全てが否定されてしまう。
 我々個々人だって、株相場の如く、今発している小さな不満が「風が吹けば桶屋が儲かる」式で大きなうねりとなって、現政権を倒壊させることにならぬとも限らない。

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是々非々=正々堂々=同じ土俵で戦う?

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/10 (Mon)

 「夕刻の備忘録」の慰安婦に関する日記。
 それを少しずつ抜き書いて、と思ったけれど、どうにもならず。
 で、何回か感想を書いて、最後に自分なりにまとめてみようとしたんですが、これがまとまらない。
 当然かもしれませんね。一回ずつ話は深まっていくものだから、その展開の様をまとめるなんて、私の手には余ることでした。
 それでも何とかやってみようと思ったんですが、一昨日も昨日も完璧な負け戦でした。

 今になって、やっと何とかまとまりそうな気がしてきました。
 それが標題の「是々非々=正々堂々=同じ土俵で戦う?」です。

 「良いことは良い。悪いことは悪い」、「白黒はっきりさせよ」、という考え方は、真正面から全力でぶつかり合う事から、何となく「相撲の潔さ」につながっているように感じます。
 「全力でぶつかり合えば分かり合える」。正心誠意、ですか。
 「正心誠意」そのもの、みたいにも見えるんですが・・・・。
 あれ?何だか相撲の「潔さ」と、似て非なるものなんじゃないかな???

 「是々非々」。
 全否定でもない。全肯定でもない。それぞれに、良し悪しをはっきりさせる。
 「正々堂々」。
 それはつまり、誤魔化しのないやり方なのであって、そうすれば、
 「同じ土俵」。対等の話し合い、付き合いができるのではないか。

 そういう考え方のつながりというのは、誤魔化しであり、間違っている、と備忘録氏はずっと書かれてきたんじゃないのかな、と思います。

 「是々非々」は科学的思考です。事実を、究明目的のために並べてみて、その上で事実を厳しく見詰める。目的につながるか否かを明らかにする過程で「非」は切り捨てる。
 ただし、同じ事実を別の究明目的のために改めて並べることもある。
 その、別の究明目的のために改めて並べることもある、その別の究明目的の場合にはつながると分かれば採用する。これが「是々非々」。だから、いかなる時でも目的に反すれば切り捨ててお終い、ということではない。

 「正々堂々」は心の在り方。「志」という方が良いでしょうか。
 これは科学的思考ではなく、「信念」だから、「是々非々」と「正々堂々」は「=」でつながるものではない。

 けれど我々日本人は謙虚で思い遣りがある、という国民的特質がある。「是々非々」は物事を客観視することだから、我欲が抑えられ、相手にとっても自分らにとっても良いことだ、と思っている。
 誤魔化し・嘘偽りがなければ、お互いに痛みを感じ合って双方が納得できるだろうと思い込んでいる。
 だから「正々堂々」を尊ぶ。

 そのように、「事実を見詰め」、「嘘偽りなく、苦を認め合い」すれば、
 「同等の立場で、ぶつかり合える」
 それで勝ったら相手の健闘を讃え、そうでなければ潔く負けを認める。
 それが理想の付き合いだ。
 「日本人は、こう思って来たんだ」と教えられてきた。

 けれど、日本以外の国は自国の非は認めず、他国の非は追求し続ける。
 誤魔化し・嘘偽りを声高に叫ぶのは交渉の基本技術であるから、許容範囲(?)でなら良い、と考える。

 それでは、そんな日本と外国が、
 「同じ土俵で同等の立場でぶつかり合うことができるか」
 、ですね。
 己の非を認めず、相手の非を追求し続け、偽証してでも自己を正当化しようとするのが国是の国相手なら、どうなるか。

 慰安婦問題に端を発した今回の一連の日記でしたが、捏造・偽証であることが既に明らかになっている慰安婦問題は、初めから問題視されていませんでした。
 全編通して大問題とされているのは、米軍、米国民をどうやって分からせるか、という事で、そのために「まずは自身を省みよ」、と。
 そして本当の「是々非々」、「正々堂々」の考え方で以て、米国民の考え方を見直し、同盟国として何を為すべきか、を考えるべきじゃないのか、と言われているようです。

 「建前の国アメリカ」に、「本音で話そうじゃないか」、という姿勢で向かうのは、アメリカをバカにしたことにしかならない。
 「建前は立派だけれど、実現のための方法が間違っている」と具体的な指摘をしてこそ、「ビジネスライク」を尊ぶアメリカの心をつかむことができる。

 「本音の国」が相手なら?
 「世界の常識(建前)を受け入れないと、孤立しますよ」
 と恐怖心を持たせる。理屈が分からないんだから、しょうがない。
 具体的に、中華思想の国が経験したことのない「恐怖」とは何か。

 それは「村八分」、です。
 昨日の「そこまで言って委員会」で竹田先生が言ってましたよ。

 「引っ越ししたくても、それができないんだから、ほどほどの距離を置いて、朝、運悪く顔があったら、『ど~うも~ぉ』と挨拶だけする」
 大爆笑だったけれど、いやいや、これ全く笑い事ではありませんよ。
 本気で考えましょう。
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「よく言った!」・・・・で? その先は?

2020年04月17日 | 心の持ち様
2013.06/06 (Thu)

    「現実と虚構」
                 ~夕刻の備忘録より~

             (略)
 「正しいことを言ったからいい」
 「今まで誰も言わなかった方がオカシイ」
 「よく言った」
 「引き続き頑張れ」
 などなど、何処まで平和ボケしているのか。己の愚かさが分からない人が多いようである。
 数々の暴言あれど、米軍に対する風俗利用発言は、史上最低のものであろう。
             (略)

 アメリカは同盟国、すなわち、ひとたび歴史が捻れれば、倒すべき第一の敵となる存在である。
 しかし、今は第二、第三の脅威に備えて、そのために同盟を結んでいる。
 大陸からの実力行使を阻むために、この同盟は現実的に機能している。
 米軍の誇りを傷付け、同盟関係にヒビを入れて、喜ぶのは誰なのか。今ある脅威に、さらに勢いづけるアシストをして、この日本を一体どうやって護ろうというのか。
             (略)
 国家は虚構で成り立っている。本音と建前でいうところの建前、さらにその奥にある、「絶対不可侵の掟」を万人に課すことによって、成り立っている。
 アメリカとは何か。合衆国とは何か。ユナイテッドとは如何なる意味か。少し考えれば分かる話ではないか。
             (略)
 様々な人種で溢れかえっている国で、人々の心を一つにまとめることは不可能である。不可能であるからこそ「統合」を大いにうたいあげる必要がある。
 宗教であれ、慣習であれ、何かを信じ、何かに縋らなければ、国家として成立しないのである。
 元より統合された国家なら、国名に「統合」などと付けるものか。
 統合されていないからこそ、それが悲願であるからこそ、そう名付けているのである。
 そして、米軍はアメリカ人の誇りの一つである。統合の象徴でもある。

             (略)

 我々が皇室中心の家族国家であることを誇りに感じているのと同様に、アメリカ人は、宗教で結ばれた明るい家庭人を誇りにしているのだ。
 それを犯罪を槍玉に挙げるに留まらず、彼等の理想までも否定して、「そんなものは虚構だ、王様は裸だ」と叫ぶことが、如何なる意味を持つのか、冷静に考えて頂きたい。
 確かに、そのことを誰も知らなければ「王様は裸だ」と叫ぶ者は英雄であろう。 しかし、誰もが知っている、知っていながら、それを一つの虚構として甘受している時、それを叫ぶのは無粋な道化以外の何者でもあるまい。
 「サンタクロースなんて本当は居ないんだ!」
 とふれて回ることが、大の大人のすることか。

                   (以下略)


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 以前の橋下市長発言、
 「世の中、建前では回りませんよ」
 に関して以前に書いたことなんですが。

 世の中とは社会のことです。社会は個々人の幸福実現のために、みんなでつくっているものです。
 今はそれ(個々人の幸福)が実現されてないから、実現させるために「支え合おう」ということでつくられ、つくり続けています。
 つまり、「理」で成り立っています。今はまだ存在しないものを現実のものとするために考案されたものです。だから「建前」そのものです。

 個々人の幸福は色々あります。これは「理」ではなく、「情」に根差すもの、時には「情」そのものです。
  
 ということは「本音実現のために建前がある」という事です。
 だからと言って「建前では回らない(本音を優先しろ)」と公言することに何の意味があるでしょうか。
 この延長線上には「建前なんか要らない」という「社会の否定」、もっと言えばアナーキズムより性質の悪い「人間否定・殺し合いの世界」があることに思いが至らないのでしょうか。

 この「本音」と「建て前」の関係は、「今」と「(理想の)未来」の関係とも言えます。「今の姿」と「あるべき姿」です。

 「よく言った!」「よくぞ言ってくれた!アメリカをぎゃふんと言わせた」。
 で?次はどうなるのでしょう?何を目指していたのでしょう。
 橋下市長に限らない。言ったその後はどうなる。どうしたくて言ったのか。

 第一番の敵国だからこそ同盟を結んでいる国。その国を「ぎゃふん!」と言わせたら、次はどうなるのか。
 「そうか。それは君の言うとおりだ。我々アメリカは間違っていた」
 と、彼の国が猛省し、沖縄初め、全国の米軍基地の兵士が風俗産業目当てに夜の街へ繰り出すようになる、と?

 そんな筈はありませんよね。市長もそんなことは考えていない。
 全く逆に、「そういうことで、米軍に苦言を呈したんだ」って言ってませんでした?
 勿論、そんなの後付けの言い訳です。実際「あの海兵隊の猛者集団が辛抱していられるわけがない」、みたいなことを言ってるんですから。

 つまり、後のことを考えての発言ではなかった、ということです。


 で、繰り返すんですが。
 「よく言った!」・・・・で? その先は?
 彼は一体何を思ってあの場で、この話まで持ち出したのか。
 公にしなければ、一人、米軍司令官が怒りと屈辱に顔を真っ赤にしながらも彼一人の辛抱で収まっていたものを。

 「よく言ってくれた」「胸がすっとした」
 我々も能く言います。

 けど、「皮肉」を言われてハッと気が付き、真っ赤になって猛省する。
 省みて己の不作法、考え違いを恥じ、以降生まれ変わったかのようになる。
 そんなの、日本人だけですよ。それも相当に程度の良い日本人だけです。
 合理主義の欧米人が聞きますか?
 拝金主義、現実主義の一党独裁国が聞きますか?
 ましてや、「恨み」が国民感情の根っこになっている国は?
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