これも以前に書いた日記。
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昔、福沢諭吉が、知人の軍学者を訪ねた時のことです。
まあ、幕末当時の軍学者、といえば、今の軍事評論家、とはちょっと違って、国の在り方から、外交、政治、軍事等、色々なことに詳しくて、よく言えば啓蒙家、悪く言えば煽動家。その分、熱心な信者もいれば、論敵もいて、命を狙われるおそれもあったのだそうです。
さて、諭吉が部屋に入ると、床の間に、刃渡り三尺を優に超えるであろう大刀があった。
普通の刀は刃渡り二尺二寸から二尺四寸(66センチから72センチ)です。三尺(90センチ)を超える大刀、というのは、腰にした状態から抜く、ということになると、相当な修練が必要です。
驚いた諭吉が、
「これを遣えるのか」
と聞くと、軍学者は
「何、用心のためだ。これを置いておけば、そう簡単には誰も手を出すまい」
と笑って答えた。
それを聞いた諭吉は「そうか」と頷いて、その刀を手にし、続けざまに二、三度、抜刀、納刀をやって見せた。
その刀捌きに、軍学者が驚いて何も言えずにいると、
「この程度(自分の腕前)では、とても、実際の時には遣えない。却って、危険だから、貴殿は片付けられた方が良かろう」
と、忠告した。
実は、福沢諭吉は立身(たつみ)流という居合い(抜刀術)を、豊前中津藩藩士時代から修練しており、記録から見る限り、かなりの腕前だったようです。
立身流自体は定寸の刀(二尺四寸前後)を使いますから、三尺の刀を抜き差しするということは、おそらく初めてのことだったでしょう。
その刀を少なくとも雑作なく(自然に)扱って見せた。相当な技量です。
当然、諭吉はこう言いたかったのです。
「普通の刀でさえ、満足に、遣えない者が、これ見よがしのことをすれば大怪我をする。」
身の丈に合わぬ大法螺を吹くのはやめろ、と言いたかったのかもしれません。
「まずは、確実に、こつこつと正しい取り組みをしよう。そうすれば、分からないことも少しずつ分かるようになり、できなかったことも、少しずつ、できるようになる。」
「できないことがあっても、焦っていることを外に見せず、こつこつと、ひたすら努力し続ける。」
「痩せ我慢の説」で勝海舟、榎本武揚を批判した諭吉の考えがここに見えます。
この軍学者は、確かに、この幕末を余りにも大拍子(大雑把)に生きている。自分の命はもっと大事に考えなければ。
いや、現代も同じだ。この軍学者と同じく啓蒙の姿勢は必要だ。同時に、そこには煽動家の側面もある。
そして、諭吉が武術修業で身に着けた「焦っていても外には見せず、ひたすら精進を続ける」姿勢。
初めは「生兵法」でしかありません。格好だけです。でも、それは仕方がないことです。格好だけで中身がないのを、気にして焦る。焦りながら、外には見せず、こつこつと努力をする。
まあ、幕末当時の軍学者、といえば、今の軍事評論家、とはちょっと違って、国の在り方から、外交、政治、軍事等、色々なことに詳しくて、よく言えば啓蒙家、悪く言えば煽動家。その分、熱心な信者もいれば、論敵もいて、命を狙われるおそれもあったのだそうです。
さて、諭吉が部屋に入ると、床の間に、刃渡り三尺を優に超えるであろう大刀があった。
普通の刀は刃渡り二尺二寸から二尺四寸(66センチから72センチ)です。三尺(90センチ)を超える大刀、というのは、腰にした状態から抜く、ということになると、相当な修練が必要です。
驚いた諭吉が、
「これを遣えるのか」
と聞くと、軍学者は
「何、用心のためだ。これを置いておけば、そう簡単には誰も手を出すまい」
と笑って答えた。
それを聞いた諭吉は「そうか」と頷いて、その刀を手にし、続けざまに二、三度、抜刀、納刀をやって見せた。
その刀捌きに、軍学者が驚いて何も言えずにいると、
「この程度(自分の腕前)では、とても、実際の時には遣えない。却って、危険だから、貴殿は片付けられた方が良かろう」
と、忠告した。
実は、福沢諭吉は立身(たつみ)流という居合い(抜刀術)を、豊前中津藩藩士時代から修練しており、記録から見る限り、かなりの腕前だったようです。
立身流自体は定寸の刀(二尺四寸前後)を使いますから、三尺の刀を抜き差しするということは、おそらく初めてのことだったでしょう。
その刀を少なくとも雑作なく(自然に)扱って見せた。相当な技量です。
当然、諭吉はこう言いたかったのです。
「普通の刀でさえ、満足に、遣えない者が、これ見よがしのことをすれば大怪我をする。」
身の丈に合わぬ大法螺を吹くのはやめろ、と言いたかったのかもしれません。
「まずは、確実に、こつこつと正しい取り組みをしよう。そうすれば、分からないことも少しずつ分かるようになり、できなかったことも、少しずつ、できるようになる。」
「できないことがあっても、焦っていることを外に見せず、こつこつと、ひたすら努力し続ける。」
「痩せ我慢の説」で勝海舟、榎本武揚を批判した諭吉の考えがここに見えます。
この軍学者は、確かに、この幕末を余りにも大拍子(大雑把)に生きている。自分の命はもっと大事に考えなければ。
いや、現代も同じだ。この軍学者と同じく啓蒙の姿勢は必要だ。同時に、そこには煽動家の側面もある。
そして、諭吉が武術修業で身に着けた「焦っていても外には見せず、ひたすら精進を続ける」姿勢。
初めは「生兵法」でしかありません。格好だけです。でも、それは仕方がないことです。格好だけで中身がないのを、気にして焦る。焦りながら、外には見せず、こつこつと努力をする。
2010.01/10 (Sun)
慶応義塾をつくり、教育界の重鎮となり、又、啓蒙家としても大きな仕事を成し遂げた諭吉も、晩年を迎えると、さすがに身体の調子も悪くなります。
ついに、このままではいけないとなった時、諭吉の弟子で、今は立派な医者となった人が診察をすることになりました。
その医者は諭吉の身体を丹念に診て
「先生も、もうお歳なんですから、あまり無理をしない様になさってください。特に、力仕事は身体に堪えますから」
と言ったそうです。
すると諭吉は
「そりゃ、困ったな。私は毎日、自分の食い扶持は唐うすで搗いているんだが。それに居合いの稽古も日課だ」
と応えました。
「それはいけません。おやめなさい。」
「そういうわけにはいかん」
「それじゃ、負担の大きい方をおやめになったらいかがですか。」
「どっちだ?」
「米を搗くのは大変だから、そちらを止められたらどうでしょう。」
「何だ、お前は、わかったようなことを。米を搗くのと居合いとでは、居合いのほうが数倍大変なんだ。藪医者め」
結局、米を搗くことも、居合いの修練も続けたのだそうです。
福澤諭吉は、滴塾で蘭学(というよりオランダ語、でしょうか)を学び、英語の必要性を痛感して、猛勉強をし、ついには英語学校をつくったのですが、滴塾に居たとはいえ、この弟子の医者以上の、医学、医術に関する技量を持っていた、とは考えられません。
それが、弟子だったとは言え、医者の診療方針を聞かない。
頑迷なただの老人ではありません。そこには「推論」でなく(誤解を恐れずに言えば)、実証主義的な物事への対面姿勢があったようです。
「何を、思いっきり推論を言ってるんだ?」と失笑されるかもしれません。
反対に、「うん、そうだろうな、きっと」と思われる方もあるでしょう。
簡単な理由です。若い時から「居合い」を学んでいること、それを生涯続けていること。そして、相当な腕前だったこと。これが証拠です。
居合いは、相手に対して行うものですが、ほとんどの流儀は通常、一人稽古です。立身流も、居合いに関して言えば基本は一人です。
戦うための「武術」なのだから、練習相手が居る方が良い。
けれど、武術は自分の身捌きが全てを決定してしまうのだから、身捌きをつくりあげるためには、なまじ相手などは、ない方が良い。
居合い、抜刀の術は精緻な身捌きが要求されます。表現するのは、自分であり、教えたり、修正したりするのも自分です。自分が感じたり考えたりしたことが、全てを決定します。
前回、書いたように、諭吉は相当な腕前です。
「正しいことをこつこつと積み重ねるしか方法はない。」
居合いも、オランダ語も、英語も、同じ方法で手に入れています。
他所から持ってきた知識ではない。聞きかじりでも、知ったかぶりでもない。「愚直なまでに」、と見えます。
ただ、諭吉は「信じて」行なうのではなく、「(手ごたえを)感じて」行なっていた。
ついに、このままではいけないとなった時、諭吉の弟子で、今は立派な医者となった人が診察をすることになりました。
その医者は諭吉の身体を丹念に診て
「先生も、もうお歳なんですから、あまり無理をしない様になさってください。特に、力仕事は身体に堪えますから」
と言ったそうです。
すると諭吉は
「そりゃ、困ったな。私は毎日、自分の食い扶持は唐うすで搗いているんだが。それに居合いの稽古も日課だ」
と応えました。
「それはいけません。おやめなさい。」
「そういうわけにはいかん」
「それじゃ、負担の大きい方をおやめになったらいかがですか。」
「どっちだ?」
「米を搗くのは大変だから、そちらを止められたらどうでしょう。」
「何だ、お前は、わかったようなことを。米を搗くのと居合いとでは、居合いのほうが数倍大変なんだ。藪医者め」
結局、米を搗くことも、居合いの修練も続けたのだそうです。
福澤諭吉は、滴塾で蘭学(というよりオランダ語、でしょうか)を学び、英語の必要性を痛感して、猛勉強をし、ついには英語学校をつくったのですが、滴塾に居たとはいえ、この弟子の医者以上の、医学、医術に関する技量を持っていた、とは考えられません。
それが、弟子だったとは言え、医者の診療方針を聞かない。
頑迷なただの老人ではありません。そこには「推論」でなく(誤解を恐れずに言えば)、実証主義的な物事への対面姿勢があったようです。
「何を、思いっきり推論を言ってるんだ?」と失笑されるかもしれません。
反対に、「うん、そうだろうな、きっと」と思われる方もあるでしょう。
簡単な理由です。若い時から「居合い」を学んでいること、それを生涯続けていること。そして、相当な腕前だったこと。これが証拠です。
居合いは、相手に対して行うものですが、ほとんどの流儀は通常、一人稽古です。立身流も、居合いに関して言えば基本は一人です。
戦うための「武術」なのだから、練習相手が居る方が良い。
けれど、武術は自分の身捌きが全てを決定してしまうのだから、身捌きをつくりあげるためには、なまじ相手などは、ない方が良い。
居合い、抜刀の術は精緻な身捌きが要求されます。表現するのは、自分であり、教えたり、修正したりするのも自分です。自分が感じたり考えたりしたことが、全てを決定します。
前回、書いたように、諭吉は相当な腕前です。
「正しいことをこつこつと積み重ねるしか方法はない。」
居合いも、オランダ語も、英語も、同じ方法で手に入れています。
他所から持ってきた知識ではない。聞きかじりでも、知ったかぶりでもない。「愚直なまでに」、と見えます。
ただ、諭吉は「信じて」行なうのではなく、「(手ごたえを)感じて」行なっていた。
2010.01/10 (Sun)