CubとSRと

ただの日記

「外見で判断するな。要は心だ」、というけれど。

2023年10月04日 | 心の持ち様
 「ありのままの、或いは本当の自分を見てほしい」。
 そう思うなら、まずは初めて見られた時の「見た目」、それが一番雄弁だということ。
 だから例の「第一印象」に関して、自分なりの準備をしておかなきゃならないのは言うまでもないこと。
 何しろ「身なり」、「身捌き」は言葉を発するよりも先に、相手に見られています。

 「人は見てくれじゃない。中身だ」。確かに。
 でも中身は見えないから、外見で少しでも表そうと努力しなければならないわけで。
 わざわざやくざな格好をして「本当の自分は違うんです」、と説明する必要があるんでしょうか。二度手間になるだけです。
 どんなに口下手でも、「本当の自分はこれです」と伝えたいならばそれなりの格好を(しようと努力)する。そうすれば大きく誤解されることはない。

 「ありのまま」「赤心」を表したいならば、同じくそれなりの恰好をしようと(努力)することが大事だと思います。その時に用いるのが「作法」です。

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 「参拝の作法」

  「神社での参拝って、大事なのは心だ」と思っている人は、意外に多いようです。そりゃ、勿論、心です。
 それって、間違いじゃありませんよ。間違いじゃないけど、でも、ちょっと引っ掛かるんです。
 
 参拝は「穢れを祓い、無私無欲になって神前で頭を下げる」。
 これだけです。
 でも、これだけ単純なことだからこそ、「大事なのは心だ」という人に傲慢、或いは大雑把な気持が湧いてくるおそれがあるのでは、と思うのです。
 神道は、形、作法から入る方が、境地を実感しやすいのです。
 最大限の、努力をするんです。そして、「努力したんだから分かって下さい」なんて、どっかの総理大臣みたいに(あ、かげぐちタタイテシマッタ)国民にだって言わないのが普通。まして、神様に「努力したんですよ」なんて言えるわけがありません。
 
 「どうやって参拝したらいいのか分からない」、という人が
 「要は心だ、気持が大事なんだ」といくら、自分に言い聞かせて見ても、作法を知らなければ、やっぱり心のどこかに不安が残ります。
 
 その不安、心の揺れ、がやっぱり穢れにつながるのです。
そんな不安や、小さな穢れと対決するより、一点の曇りもない「明(あか)い心」で参拝するほうが良い。(あかごころ。赤心とも書きます。赤子も穢れてない子の意)

 前置きが長くなりました。
 では、まず手水の遣いかた。
1、柄杓を取ります
2、水を掬い、左手(主に手のひら)に半分かけ、
  残り半分を右手にかけます。これで、体外は祓えました。
3、もう一度、水を掬い、掌(たなごころ)のくぼみにいれ、それを口に含みます。すぐ、吐き出します。これで、体内もきれいになりました。
4、柄杓を立て、半分残っていた水が柄杓の柄を流れ落ちるようにします。これで、柄杓もきれいになりました。
 (大きい柄杓なら水を一回掬うだけでも済みますが。)

  次は参拝です。
 二礼二拍手一礼の前後に会釈を入れてみると、より、気持が集中します。
 礼は、できるだけ首を曲げず、どちらかと言えば頭を上げるくらいのつもりで腰から曲げます。
 腰も、曲げるというより、尻を突き出すくらいな気持ですると、他の人からは最敬礼のように見え、自身もあまりの窮屈さに雑念の浮ぶ間がなくなります。

 国家一族等の平和を御願いするのは、拍手の後の一礼の時だけです。

 手を合わせるのは仏様を拝む時だけです。神社には拝む相手はいません。 


                 2010.01/02 (Sat) 
 
コメント
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