連載コラム(36) 『日本の百霊域(パワースポット)
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三島由紀夫諌死事件(市ヶ谷台)の現場
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三島由紀夫事件は昭和四十五年十一月二十五日。自衛隊へ自ら組織した私兵「楯の会」の学生四人をともない、益田東部方面総監を人質にとって自衛隊員をバルコニー前広場に集めさせ、改憲をよびかける檄を飛ばした。
その後、古式に則り楯の会学生長の森田必勝とともに割腹自決した。
演説するにも拡声器(マイク)を意図的に使用せず、檄文も手書きにした三島のスタイルは、まさに神風連の精神を具現しているのである。なにしろコピィ機を使わず文明の利器を拒否して、一枚一枚を三島は手書きし、その檄文を森田必勝とともに撒いた。そのうえ地声で演説をした。
これは現代版神風連の乱だった。
空にはテレビ、新聞のヘリコプターの騒音、当時市ヶ谷に近かったフジテレビからはすぐに中継車が入った。広場に集められた隊員に三島の声はまるで届かず、ヤジと怒号のなか、演説は短めに終わった。自衛隊員に檄を飛ばしながらも、三島も森田も自衛隊がクーデターを起こすことなど期待していなかった。
世界を震撼させた「三島事件」は江戸幕府のやり方に抗議して蜂起した陽明学者、大塩平八郎のようでもあり、古今集のように清澄な精神の所業である。
この壮絶な擬似クーデターは日本ばかりか全世界に巨大地震並みの衝撃を与え、その余韻はフランスでイタリアで、世界中で燻り続ける。
いわゆる「三島事件」以後、左翼をのぞく日本人の間に活発な憲法改正論議を呼び起こし、論壇に保守主義への本格回帰の潮目をつくることにもなった。
拙作『三島由紀夫の現場』を書くために自決の現場を訪れたのは二十年ほど前だった。総監室のある建物は所謂「東京裁判」の会場でもあった。東条英機ら七名に死刑判決が出されたところだ。建物ごと歴史的記念館として、現在の防衛省の奥の方へ移管された。
内部は当時のまま保存されており、刀傷が数カ所残っている。のちに防衛省見学ツアーの案内嬢を体験したことのある葛城奈海(女優)に拠れば、ときおり透明な三島の影を見たという。その体験を語って貰おうと、「憂国忌」の司会を葛城女史に頼んだことがあった。令和二年の第五十回「憂国忌」はコロナ災禍にも拘わらず全国から参加者があって満員御礼、入場できない人が目立った。
かくして日本人のこころを激しく揺さぶった三島の問いかけは、時空を超え、精神的な波紋となって拡がり続けた。友人で世界的な作曲家だった黛敏郎は「精神的クーデター」と表現した。日本人の襟元をつかんで、激しく精神の覚醒を促した。
▼「此の詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知っているかの如くである」
三島を介錯後、自らも自刃して果てた楯の会学生長・森田必勝について、三島は命令書に「三島はともかく森田の名誉を回復せよ」と書いた。
森田必勝は学生時代、筆者の親友の一人であった。三重県四日市の実兄宅に泊まり込んで日誌を抜粋し、ほかの資料も加えて森田必勝遺稿集を編集した。かれの魂が乗り移ったかのような日々、十分な睡眠をとった記憶もない。
四半世紀のちに中村彰彦が三年の取材をかけて足跡の分からぬままだった森田の関係者を訪ね歩き、世に問うた労作が『烈士と呼ばれる男』(文春文庫)である。
知られざる森田必勝の物語がここに明らかにされ、また森田遺稿集も殆どの研究者が爾後に引用し、第一級史料と評価が固まった。森田の故郷、四日市市に慰霊碑が建立され、数年後には森田を顕彰する銅像が建った。
(後半は 次回転載)
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)10月22日(日曜日)
通巻第7970号より
当時、17歳だった私はテレビでそのニュースを見たけれど、確かにヘリコプターの爆音と、微かに聞こえる三島由紀夫の張り上げる声と、今の隊員とはどうしても重ならない自衛隊員の怒声と罵声ばかりが記憶に残っている。