CubとSRと

ただの日記

確かに予言通りに・・・ 後半

2023年10月26日 | 心の持ち様
   連載コラム(36) 『日本の百霊域(パワースポット)
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 三島由紀夫諌死事件(市ヶ谷台)の現場  (後半)
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 『群像』の昭和四十五年六月、「懐風藻と古今和歌集」について論じていた三島は、「父天武天皇が崩御した後、叛徒を抱いた疑いで捕らえられ二十四歳で自害した大津皇子の漢詩」に触れ、蓮田善明の「此の詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知っているかの如くである」という有名な一節を結ぶ。

 大津皇子は天武天皇の長男でありながらも母親は天武天皇皇后(のちの持統天皇)ではなく、その姉だった。しかるに持統天皇が草薙皇子に肩入れし、大津皇子を疎んじれば、その悲運は決まっていた。

 「三島の死も森田の死も、大津皇子の死と同じ意味を持つであろう。それは速須佐之男命、倭建命から為朝、そして二二六事件の青年将校へと続く系譜に、三島、森田が連なる」とした井上隆史『暴流の人 三島由紀夫』(平凡社)は、このことを示唆する三島の文章箇所を以下のくだりと指摘する。

 「ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の我々の胸にも直ちに通うのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起った以上、人は最終的実行を以ってしか、つひにこれを癒す術を知らぬ」

 三島の遺作となった『天人五衰』の有名な最終場面は月修寺(モデルは奈良の山村御殿)の美しくも端正な庭の寂寞だった。
 芭蕉は立石寺を訪れて、「岸をめぐり岩を這うて、仏閣を拝し、佳景寂寞としてこころ澄み往くのみ覚ゆ」と『おくのほそ道』に記し、「静かさや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ。

 『豊饒の海』のラストは「数珠を手繰るような蝉の声がここを領している。そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている」。
 三島は「日本文学小史」(『群像』に連載された)で、近代化以後の日本文学はある意味ではつまらない、退屈なものだ、と明言し、続けた。

 「なによりも個人の思想感情の表現、あるいは個人が現に暮らしている、この現実を写し取ることに焦点が絞られるようになったと、概括してよかろう。いわゆる近代文学の成立である」
 けれども、ならばその後の日本文学はいかなる地平に到着したのか?
 戦後文学を三島は激越に批判した。

 「個々の卑小な民俗現象のゴミ箱の底へ手を突っ込んで、ついには民族のひろく深い原体験をさぐりだそうという試みは、人間個々人の心の雑多なゴミ捨て場の底へ手を突っ込んで、普遍的な人間性の象徴符号をみつけ出そうという試みと、お互いによく似ている。こういうことが現代人の気に入るのである。マルクスとフロイトは、西洋の合意主義の二人の鬼子であって、ひとりは未来へ、一人は過去への呪縛と悪魔払いを教えた点で、しかもそれを世にも合理的に見える方法でおしえた点で、双璧をなす」

 ▼現代日本は「精神の曠野」

 歳月の流れは速い。「昭和元禄」といわれた経済の高度成長は峠をこえて、バブル崩壊後の日本は右肩下がり。国民から活気は失われ、詩の精神は枯渇し、草食系男子が蔓延(はびこ)り、伝統的な価値観は鮮明にひっくり返った。伝統文化は廃(すた)れた。

 日本に唾する人々が論壇とメディアを壟断し、自虐史観は拡大再生産され、改憲は一歩も前に進まず、歴代首相の靖国神社参拝もはばかれるようになった。
 諸外国から莫迦にされ、とくに中国に対して「位負け外交」に埋没した。民族にとって何が一番大事な価値であるかを真剣に考える人々が少なくなった。
 日本に広がるのは「精神の曠野(こうや)」である。

 市ヶ谷台の激憤から半世紀以上を閲した。
 三島由紀夫の予言の多くが的中していることに私は慄然としている。空っぽで、無機質で、ニュートラルな経済大国が極東に残っているだけで、武士道精神はもぬけの殻になっているだろうと三島は現在の日本を見通していた。
 最後の矜持だった「経済大国」の位置さえ諸外国の猛追により失われ、日本が誇った匠(たくみ)の技術も激減した。

 三島が檄文で訴えたクーデターを現在の自衛隊に望むことは妄想である。体験入隊を通じて三島はいやというほど体得していた。
 市ヶ谷台こそは、三島、森田両烈士の魂魄が残る壮烈なパワースポットである。「このバイブレーションはなんだ」と筆者は現場で震えていたのである。

              (宮崎正弘 記)

「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)10月22日(日曜日)
        通巻第7970号より

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確かに予言通りに・・・

2023年10月25日 | 心の持ち様
 
   連載コラム(36) 『日本の百霊域(パワースポット)
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 三島由紀夫諌死事件(市ヶ谷台)の現場
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 三島由紀夫事件は昭和四十五年十一月二十五日。自衛隊へ自ら組織した私兵「楯の会」の学生四人をともない、益田東部方面総監を人質にとって自衛隊員をバルコニー前広場に集めさせ、改憲をよびかける檄を飛ばした。
 その後、古式に則り楯の会学生長の森田必勝とともに割腹自決した。

 演説するにも拡声器(マイク)を意図的に使用せず、檄文も手書きにした三島のスタイルは、まさに神風連の精神を具現しているのである。なにしろコピィ機を使わず文明の利器を拒否して、一枚一枚を三島は手書きし、その檄文を森田必勝とともに撒いた。そのうえ地声で演説をした。
これは現代版神風連の乱だった。
 空にはテレビ、新聞のヘリコプターの騒音、当時市ヶ谷に近かったフジテレビからはすぐに中継車が入った。広場に集められた隊員に三島の声はまるで届かず、ヤジと怒号のなか、演説は短めに終わった。自衛隊員に檄を飛ばしながらも、三島も森田も自衛隊がクーデターを起こすことなど期待していなかった。

 世界を震撼させた「三島事件」は江戸幕府のやり方に抗議して蜂起した陽明学者、大塩平八郎のようでもあり、古今集のように清澄な精神の所業である。
 この壮絶な擬似クーデターは日本ばかりか全世界に巨大地震並みの衝撃を与え、その余韻はフランスでイタリアで、世界中で燻り続ける。

 いわゆる「三島事件」以後、左翼をのぞく日本人の間に活発な憲法改正論議を呼び起こし、論壇に保守主義への本格回帰の潮目をつくることにもなった。
 拙作『三島由紀夫の現場』を書くために自決の現場を訪れたのは二十年ほど前だった。総監室のある建物は所謂「東京裁判」の会場でもあった。東条英機ら七名に死刑判決が出されたところだ。建物ごと歴史的記念館として、現在の防衛省の奥の方へ移管された。
 内部は当時のまま保存されており、刀傷が数カ所残っている。のちに防衛省見学ツアーの案内嬢を体験したことのある葛城奈海(女優)に拠れば、ときおり透明な三島の影を見たという。その体験を語って貰おうと、「憂国忌」の司会を葛城女史に頼んだことがあった。令和二年の第五十回「憂国忌」はコロナ災禍にも拘わらず全国から参加者があって満員御礼、入場できない人が目立った。

 かくして日本人のこころを激しく揺さぶった三島の問いかけは、時空を超え、精神的な波紋となって拡がり続けた。友人で世界的な作曲家だった黛敏郎は「精神的クーデター」と表現した。日本人の襟元をつかんで、激しく精神の覚醒を促した。

▼「此の詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知っているかの如くである」

 三島を介錯後、自らも自刃して果てた楯の会学生長・森田必勝について、三島は命令書に「三島はともかく森田の名誉を回復せよ」と書いた。
 森田必勝は学生時代、筆者の親友の一人であった。三重県四日市の実兄宅に泊まり込んで日誌を抜粋し、ほかの資料も加えて森田必勝遺稿集を編集した。かれの魂が乗り移ったかのような日々、十分な睡眠をとった記憶もない。
 四半世紀のちに中村彰彦が三年の取材をかけて足跡の分からぬままだった森田の関係者を訪ね歩き、世に問うた労作が『烈士と呼ばれる男』(文春文庫)である。
 知られざる森田必勝の物語がここに明らかにされ、また森田遺稿集も殆どの研究者が爾後に引用し、第一級史料と評価が固まった。森田の故郷、四日市市に慰霊碑が建立され、数年後には森田を顕彰する銅像が建った。

 (後半は 次回転載)


「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)10月22日(日曜日)
        通巻第7970号より



 当時、17歳だった私はテレビでそのニュースを見たけれど、確かにヘリコプターの爆音と、微かに聞こえる三島由紀夫の張り上げる声と、今の隊員とはどうしても重ならない自衛隊員の怒声と罵声ばかりが記憶に残っている。
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体育の日改めスポーツの日

2023年10月24日 | 心の持ち様
 10月9日(月)

 今日は体育の日。
 勿論、本来は晴れの「特異日」として東京オリンピック開会式に選ばれた10月10日、これが後に「体育の日」と制定された。

 それが例の「ハッピーマンデー」の考えから、毎年10月10日に一番近い月曜日とされた。だから毎年日が変わる。ややこしい。
 これは建国記念日を計算の結果2月10日としたのとは逆に、「まずは記録、統計」ありき、(開会式が雨、じゃ具合が悪いから、晴れになる可能性の高い日を探し出して決めよう)で決められたものだから、「ハッピーマンデー」というのは本当に「円周率は『約』3」に近い大雑把な発想と言えるか。

 そんなことに関係なく、昨日は早朝散歩も休み、数年ぶりに二日続けて酒を飲み、午後は雨となったので外出もせず、で一日が過ぎた。

 今日は朝から雨。散歩は、なし。
 少し目が回る感じが昨晩からあって、今朝もそれが残っていた。睡眠不足からそうなることがある。11時には寝たのだが。

 結局、今日も昨日と同じく、パジャマのままで一日過ごしてしまった。
 そんなだから当然外出もしてない。

 午前3時前か、変な夢を見た。
 夢の中で富士山、というより浅間神社の奥宮へ参ろうとしている。
 特に登山をするような恰好はしていない。ただ奥宮参拝だけを考えている。
 山登りに行くのではなく参拝に行くのだから、登山のような服装は必要ないじゃないか。そう思っている。

 実際、目の前の奥宮へつながる道には、神社の拝殿から本殿に懸かる階段と同じような、それも吉備津神社の回廊のような長大な階段がまっすぐ上方へ続いている。吉備津神社と違うのは回廊ではなくちゃんとした壁があるということ。
 標高でさえ三千八百メートル近くあるのだから階段の先は小さく霞んで、全く見えない。

 その階段に、あろうことか(奥宮のある方に)背を向けて座っている。
 そして、どうなっているのだろうか、階段はエスカレーターのように上り方向に動いていて、休憩しているみたいに腰を掛けているだけなのに身体はどんどん富士山の斜面を登っていく。
 「こんなに急に登ったらエスカレーターと雖も空気が薄くなって高山病にかかるかも」と思いながら進行方向を振り返ってみると、あと数百メートルの階段の先に奥宮の神扉が見えた。
 
 「これはいけない。こんな楽をして参拝をしてはいけない。」
 そう思った辺りで目が覚めた。

 何だったんだろう、一体。



 
 

 
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特別に

2023年10月23日 | 日々の暮らし
 10月8日(日)

 昨晩は家にあった物で一杯。
 
 今朝は雨も降ってないのに散歩を休む。
 それだけではない。今日は習字も休む。理由なしに習字を休んだのは何か月ぶりだろう。

 何しろ内視鏡検査の注意書きを能く見ると、前日は当然のことながら検査後一週間は禁酒、と書いてある。
 いやいや、去年だって注意書きには同じことが書いてあった筈だ。
 そう思って去年の日記を引っ張り出して読んでみたら、確かに同じことを書いていた。
 それに併せて「禁酒明け」を天国にでも行くかのように喜んでいる。
 本当に「天国良いとこ一度はおいで~ 酒はうまいしねーちゃんはきれいだ ワッ、ワッ、ワッワ~」と言わんばかり(それは言い過ぎ)。

 まあ、そういうわけで数年ぶりに昨日に続けて今日も酒を飲むことにした。
 三日前から食事制限。大腸のポリープを取ったら一週間禁酒。
 つまり10日間以上酒を飲めない日が続く。

 だから今日は特別に缶ビール一本、焼酎一合!
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あたふた

2023年10月22日 | 日々の暮らし
 10月1日(日)

 月初めだというのに・・・。
 
 朝4時に目が覚める。雨かもしれない。
 ウェザーニュースの1時間予報では8時頃まで小雨。気象協会の方は午前1時2時辺りが雨で、あとはずっと曇り。午後からは晴れ、の予報。
 確率はいつも後者の方が分が悪い。
 けど、先月のゲリラ豪雨みたいな夕立は両方揃ってはずれた。
 「ずれた」ではなく「はずれた」。

 雨が降っていてほしい。降っていたら夜更かししていたのを取り戻せる、と思いながら、「もし降ってないのに散歩に出なければ、今晩酒を飲めないし」という現実の打算が脳裏をよぎる。

 4時半。
 二階の窓を開け、降雨の有無を確かめ、ベランダの床を叩く雨音がしないのも確認して散歩に出発する。
 玄関の鍵を閉め、一歩出たら雨が降っているのが分かった。やや強めの「小雨」。
 勿論潔く(?)踵を返す。

 結局、一日煮え切らない天気で、洗濯物を干せば降り、慌てて取り込めば止み、を数度繰り返す。
 午後からは時折り陽も射しこんだが、基本、ほとんど信用できない天気と予報の一日だった。
 
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