![]() | 21世紀の落語入門 (幻冬舎新書) |
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幻冬舎 |
「21世紀の落語入門」と、「もてない男」に続いてのひさびさの、小谷野敦さんの本を読む(2012年6月)。
出版されてすぐ購入し、5月の出張中に読みあげたのだが、なかなかプログアップできなかった。
理由は、内容が腹に落ちないというか、落語に対する普段自分が考えているのとスタンスが違ったからである。
著者は、はじまりの序言で、、「落語って聴いたことがない、という人は、寄席に行くより、まず昔の名人の録音を聴くところから始めよ、といっている。
「寄席へ行け、そうでなければ落語を聴いたとはいえない」というのも、「落語は古い名人のものを録音で聴けばいい、今の落語など聴いてもしょうがない」というのも、いずれも極論だが、私はどちらもとらないと。 古い名人の録音も聴き、もし機会があったら今の落語家のものも聴き、可能なら生で聴いてもよし、というのが私の立場と著者は言っている。・・・・が。
だが、生を聴く機会が少ないのか、大部分は過去の名人の賞賛にあてられている。
途中では、存命の落語家ばかりを生で聴いてばかりいる人には、志ん生や文楽、圓生といった過去の名人のものも聴くよう勧めたい・・・と。 逆に、過去の名人のものは聴くけど、今の落語は聴く気にならないという人がいても、それはしょうがないと思うと 、最後には寄席礼賛の風潮には流されないよ、私は「現場主義」が嫌いと・・・自己弁護とも本音とも言える発言をなさっている。
でも、ピカソが書くその場に立ち会えと言っている訳ではなく、その本物が観る機会があれば、その場に足をのばすのも如何なものと思うのだが・・・。 でも著者も、最後には男なら寄席もいいが、一度くらいならストリップ劇場を覗いてみてほしいと言っているように、何か大きな偏見と矛盾にみちた見解が終始述べられている。
私が、子供たちに日頃言っていることに、「初物はできるだけ良いものを」、食べ物でも、芸事にも出会うならできるだけ一流を味わうこと、さもなければ最初の出会いで性に合わなくて嫌いになるのは長い人生にとって不幸だと・・・・。
そういう意味では、録音にて名人の芸にふれることは大事だが、でも生と録音では比較できない、次元の違うものと常々思っている。 生の高座では、噺家と客席の間に漂う空気を味わう、その場いるみんなで、緊張と緩和の笑いの醍醐味を一緒に感じる。
私にとっては多少出来が悪くても、一番は生の落語。
次がCDやラジオなどの音源のみで聴く落語。
なぜか、面白くないのがDVDやテレビの映像での落語である。
落語はお客さんの想像によって成り立っている芸とよく言われているが、音声だけの方が一見情報量の多い画像つきに勝つとは、やはりブラウンカンでは伝えられない何かがあるのでしょうな・・・それが、生の落語にはエッセンスとして満ち溢れているんでしょうな。
そんなことを、考えさせてくれた一冊でおました。
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