哲学的落語家! | |
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筑摩書房 |
☆☆☆☆☆
一度前に、図書館で借りて読んでいるんですが、
どうしても手元に置いておきたくて、古本屋で見つけてゲット。
2009年10月の9年前に、読んでいるんですな。
改めて読んで、附箋をつけたところで、ダブっていないところを紹介しますと、
マクラの紹介で、「日和ちがい」同様、「鷺とり」でもとんでもないマクラが
一人でしゃべって一人で返事しているおかしな商売が落語家でございますが、
地球滅亡の日の落語家はどうなるのでしょうか・・・。
「ノアの箱舟ではないですが、他の天体に行くロケットに誰を乗せるか議論します。
アチラノ星行っても、タベモノいります。オ百姓サンノセマス。着るモノ、イリマス。
洋服屋サン、テーラー、ノセマス。スムトコ、イリマス。大工サン、連れてイキマス。
後ろの方に噺家がポツンと立っております。アレ、ナンデスカ。アレ、ハナシカイイマス。
ツマラナイコト、ゴチャゴチャいう商売デス。・・・・オゥ、イリマセンネ。
置イテ イキマショウ。」 自己否定、自己卑下の思いが、根強く根底あったんですな。
皆を楽しませるという立派なお仕事なのに・・・・
哲学的に考えすぎた、枝雀さん、惜しいですな。
そして、枝雀が「立ち切れ」を演らず、レパートリーとして六十席ののなかに
とりあげていない理由はなにか。それは「立ち切れ」は、「情」が濃いからだと。
なんぼ「情」が結構やちゅうてもおしつけがましなったらいけまへん。
良いのは、正反対の薄い薄い「情」やと思うんですわ。
それがかえって「人間の情ってええもんやなァ」 と感じられる。
薄い「情」ほど上等の「情」になることがあると思うんですよ。
この、「情」の濃い、薄い、は日頃から人との接し方では難しいとこですな。
何年か経って、こちらの聴き手の心情が変われば、
同じ演目でもその日の受けとりかたは変わります、
そういう意味でも落語は永久にライブでおますな・・・・。
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(2009.10.27)のブログの写し
落語の本としては、一番おもしろい本である。
そして、枝雀ファンであれば、尚更である。
第24章まであるが、一つ一つがうんちくに満ちている。
第8章の「天神山」枝雀のバサラ
第11章の「寝床」の上方への再移植
第14章の志ん朝「宿屋の富」vs枝雀「高津の富」
第18章「代書屋」松本留五郎の鼓腹撃壤」
など、題目だけで興味がわきますやろ。
例えば、第2章・枝雀初アルバム「日和ちがい/鷺とり」のなかには、
小米時代12年、枝雀時代26年、彼は二つのピークを持ったと。
「小米の頃は、押し出す芸ではなくひく芸、ひいた中で追ってくるものがあった。
枝雀になって一変したが、枝雀は、小米風と枝雀風と全く違った二つの形で
頂点を極めた。・・・こんな噺家さんは例が無い。」と
ほんと言うと、小米時代を知っている私は、当初の枝雀の芸風は肌にあわず、
いたって否定的であった。
しかし、CDなどで聴く枝雀落語は飽きることなく、何度聴いてもおもしろい。
今では、CDにて聴く一番の噺家さんである。
[日和ちがい]のマクラに、アメーバーが人生誕生までの万有進化論が語られる。
・・・・・この部分、枝雀ファン、必聴でおます。・・・・・・
この本、結構高いので、時間のあ方、図書館でも利用して、一度ご覧あれ。