




妻女山の奥に、毎年人知れずひっそりと咲く貝母(バイモ)と片栗(カタクリ)の群生地があります。まだ数輪ですが、ここ数日の暖かさで開花し始めました。見頃は来週末でしょう。初めは真上を向いていた蕾が、やがて下をむき出すと開花が始まる印です。
バイモは、前にも書きましたが、享保(1716-1736)年間に中国から咳止め、解熱、去痰などに効く薬用植物として入ってきた花です。帰化植物ですが、そんなに繁殖力が強いわけでもなく、薬用として栽培されていたためか、山野草として見られるところは多くありません。この群生地も、薬用畑として栽培されていたものが野生化したものです。そのためか、植物図鑑にもあまり載っていません。
俯いて咲き、花弁の外側が葉とほぼ同じ色なので、遠目では咲いているのかよく分からない花です。しかし、近づいて覗き込むと内側は黄色みを帯びた緑色で、赤紫の網目模様が見えます。葉の先はくるりと丸まって、地味ですがなんとも愛らしい花です。茶花として人気があるのも頷けます。
この群生地は道から離れており、非常に迷いやすいところにあるので紹介はできません。また、希に猪や熊も出没します。去年の暮れには熊の足跡がありました。日本羚羊(ニホンカモシカ)は毎日現れます。よく見ると茎の上がないものがいくつも見られましたが、これはニホンカモシカが食べたようです。まさか咳止めの薬として食べたのではないでしょうが、本能的に体にいいことを知っているのでしょうか。
そしてカタクリの花。万葉集の中の大伴家持が「もののふの 八十乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花」(巻18)とうたったように、古代はかたかごと呼ばれていたといわれています。色々な解釈があるようですが、これは八十人もの乙女達が水を汲みに来たのではなく、俯いて咲く桃色のカタクリの花を大勢の賑やかな乙女達に見立てたのではないかと私は思うのですが…。ここでいうもののふは、武士のことではなく、古語の朝廷につかえるという意味のようです。堅香子の花の高貴さを表すために用いたのでしょう。
大伴家持は、天平18年(746年)7月に越中国国守に任ぜられ、天平勝宝3年(751年)まで赴任し、その間に220余首の歌を詠んだそうです。この歌もその間のものでしょう。都を懐かしむ気持ちもあったのでしょうか。
カタクリの花弁が反り返るのは、花弁の体温が25度を超えたときだそうです。首都圏の里山では絶滅が心配されて保護されているところがありますが、ここ北信濃では人知れず咲く群生地があちこちにあり、八十乙女らが春風に揺れながら静かな会話をしています。
★妻女山の真実について、詳しくは、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。