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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

松代城と妻女山の桜が満開!(妻女山里山通信)

2010-04-13 | 歴史・地理・雑学
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 松代へ所用の帰りに海津城(松代城)と妻女山(赤坂山)に寄りました。最高気温が22度の暖かい日。どちらも桜が満開で、そこそこの人出がありました。あえて海津城と書いたのには訳があります。海津とは松代の古い呼称ですが、その由来が妻女山と関係があるのです。真田のずっと前、古代の話です。

 妻女山の名称は、戦国時代以前にはなく、江戸時代に松代藩が命名したものと思われます。その名前の根拠となったのが、麓にある會津比賣(会津比売)神社といわれています。祭神の會津比賣命(あいづひめのみこと・出速姫神)は、皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命(たけみなかたのみこと)の子・出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の御子であり、両神はこの地の産土神(うぶすながみ)です。

 海津は、會津または出(伊豆)が転訛したものという説があるのです。それゆえ、會津比賣神社と皆神神社は、この地で最も古く創設された神社といえるのですが、なぜか平安時代の延長5年(927年)に編纂された延喜式には載らない式外社となっています。

 それ以前の延喜元年(901年)に成立した日本三代実録には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に會津比売神に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長*であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。[松代町史]*貞観4年(862)、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長。[信濃史料]

 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に上社大祝によって追放されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。

【妻女山】松代町を距たる十数丁の西方埴科郡清野村に位置し往古信濃国造が天神地祇を祀りたる所なれば斎場山と書すべきであると主張する者もある。又山上に古墳多くして中に前方後円の一大古墳あり。山麓に会津比売神社あれば信濃国造の妻女会津比売を葬れるものなるべく従って妻女山と書くべきが至当であると論ずる者もある。(中略)甲陽軍鑑には西條山と誤り記されてある。妻女山の支山赤坂山の招魂社には明治戌辰の戦役に従軍し勤皇の為に働きて戦士を遂げたる松代藩の士卒五十二名の霊を祀れるものにして社殿の傍らに山縣元帥の撰文にかかわる記念碑あり。また日清日露の両役に戦士せる一町六ヶ村将卒の忠魂碑乃木将軍の揮毫する所である。その外弘化四年の震災に横死せる者の為に自然石の供養塔が建てられてある。また明治三十五年五月大正天皇の未だ皇太子にあらせられたる時御見学の為め御登山遊されたる御遊覧所に御手植の松がある。[松代町史]

 注:ここでいう【妻女山】とは、「妻女山の支山赤坂山の招魂社」という文章からも分かるように現在の妻女山ではなく、斎場山のことです。現在の妻女山は、赤坂山といいました。もっとも現在は、妻女山の名前が定着し、事情を知るお年寄り以外は、ここを赤坂山と呼ぶ人はいなくなりました。妻女山はここの小字名です。赤坂山は地名です。旧妻女山は、本来の名称である斎場山(さいじょうざん)と呼ぶようにしています。

 杏が散り始め、桜も今週末まででしょう、長野マラソンの頃には、桃の花が開花しそうです。

★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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