


信濃では31年ぶり、東京では41年ぶりの突然の春の雪でした。妻女山の桜も朝は桜吹雪ならぬ本物の吹雪の中で揺れていました。レクイエムは、ラテン語で「安息を」という意味で、転じて典礼として死者のためのミサまたは死者を追悼する音楽の通称としても広く用いられます。「桜の木の下には死体が埋まっている」というのは、梶井基次郎の短編小説から。桜の樹が美しいのは下に死体が埋まっているからであるという空想に駆られる主人公…。この発想の原点ともいえるのが西行法師というのが通説です。
西行法師の京都西山の庵には、見事な桜が咲き見物の人が毎年訪れたそうです。それを煩わしく思い、
「花見んと 群れつゝ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎(とが)にはありける」と詠みます。
その夜の夢枕に白髪の老人が立ち、桜は非常無心の草木であるからの咎とは承伏できないといい、桜の精であることを名乗り、舞いを舞って消えます。(能の『西行桜』より)
能の『西行桜』
あら名残おしの夜遊(やいう)やな
惜しむべし 惜しむべし
えがたきは時会いがたきは友なるべし
春宵一刻値千金 花に清香(せいきょう)月に影
春の夜の花の影より明け初めて 鐘をも待たぬ
別れこそあれ 別れこそあれ 別れこそあれ
待て暫し 待て暫し 夜はまだ深きぞ
白むは花の影なりけり
よそはまだ小倉の山陰に残る夜桜の
夢は覚めにけり 夢は覚めにけり
嵐も雪も散り敷くや
花を踏んでは 同じく惜しむ少年の
春の夜は明けにけりや
翁さびて跡もなし 翁さびて跡もなし
「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
西行(1118-1190)はこの寺を隠棲の地と定め文治6年(建久元年)2月16日没しました。これらの句が「桜 老人 死」と結びついて先のイメージを生んだのでしょうか。
西行は二百三十首の桜の句を詠んでいるそうです。
「梢うつ 雨にしをれて 散る花の 惜しき心を 何にたとへむ」
「風に散る 花の行方は 知らねども 惜しむ心は 身にとまりけり」
「散るを見て 帰る心や 桜花 むかしに変はる しるしなるらむ」
「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」
無常と哀惜の念が漂う心にしみ入る句です。
信州には西行法師が詠んだとされる句がいくつか残っていますが、実際に訪れたかどうかは研究者によっても異なるようです。
「風越(かざごし)の 峯のつづきに 咲く花は いつ盛りとも なくて散るらむ」
風越は、飯田市郊外の風越山でしょうか。旧四賀村と筑北村の境には風越峠がありますが…。どちらを通ったのでしょう。木曽の歌があるので前者か。
千曲市倉科には三滝を詠んだ「三瀧山 岩の苔間に 住ながら 思ひくらせし 瀧の水かな」という句と「信濃なる 明しの松の ありながら なぞ暗科の 里といふらん」という倉科と暗科をかけた句がありますが、「此歌里俗の口碑にして、確乎たらず」と倉科村誌には記してあります。
午後には春の陽射しが戻り、雪景色は幻のように消えました。いずれが現か幻か。杏の残花が舞い散り、桜も散り始めました。桃の花が開き始めました。まもなく林檎の白い花も咲くでしょう。
★妻女山・斎場山・倉科三滝トレッキング・ルポは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。