


高校時代の友人達と村上義清の坂城町へ。うだつのある古民家を見ながら坂城神社へ。ここを出発地点として葛尾城跡経由で五里ケ峯(五里ケ峰)へ登りました。ちょうど葛尾城跡の祭ということで、城跡は地元の老若男女で賑わっていました。後方の林道からは野菜や米をかついで大勢人がやってきます。これから大宴会が始まるようです。我々は後ろ髪引かれつつも、途中ランニングの人とすれ違いながら五里ケ峯へ。
急登をこなすと以外にあっけなく山頂に着きます。普段の行いが良かったのか、悪童共の毒気に雨雲も退散したのか、ドピーカンの晴天。北アルプスの大パノラマが堪能できました。なんと槍ヶ岳の先っぽも見えました。休憩もそこそこに勘助道へ。ロープを頼りに100mほど急斜面を下ります。約一名がこけたものの、なんとか全員無事に鞍部へ。
ところが、振り返ってあまりの急斜面に、ここを登り返すのはいやだとみなだだをこね始めました。宮坂峠へ下って戸倉に下りておべちゃ入って帰ろうと言い出す始末です。宮坂峠から戸倉では、延々と西日を浴びながら舗装路を下らなければなりません。これはたまらんと、どうせなら一重山まで歩こうと提案。それなら、打ち上げに予定している屋代駅前の居酒屋も目の前と。この先はずっと下りだからと。実はかなりのアップダウンがあるのですが…。というわけで、五里ケ峯往復で帰りは飯縄山で岩遊びは中止。急遽目標は五里ケ峯山脈(五一山脈)踏破となりました。
その前に勘助道に寄ります。勘助道(勘助横手)については、10年3月22日のルポで紹介しました。勘助道は、伝説上のものであり史実とは証明できませんが、武田軍が難攻不落といわれた村上義清の葛尾城を背後から攻略するために、山本勘助が造らせたという軍道です。五里ケ峯は、旧森村では寥亮(りょうりょう)山と呼ばれました(埴科郡誌より)。寥亮とは、声や音が澄んだ音色で響き渡る様で、寥戻(りょうれい)ともいいます。森側が伐採されたので、勘助道からはその山名の由来が納得できる風景が広がります。
さてその先は、天狗山までは行きましたが、さらに先は私も初めてでした。埴科郡誌にある山名をチェックしながら歩いたのですが、どうにも気持ちが先に行ってしまうのか、実際の位置となかなか上手く照合しません。尾根にはまばらに千曲市が設置した方向の標識はあるのですが、主な山に山名を書いた標識があれば現在位置が分かっていいのにと思いました。今ここがどこなのか分からないのです。
途中の明るい落葉松林の中で昼にしました。シートを敷いてそれぞれが持参したビールとつまみとおにぎりで、おじさん達が森の中で宴会という妖しげな光景となりました。近くには御嶽講の石碑がありました。ツツピーと四十雀が鳴いていました。浮き世の騒音もここまでは届きません。今年は寒さのため花は、草木瓜と霜に当たってしおれた躑躅ぐらいでしたが、芽吹き始めた里山はやはり春の香り。
葛尾城跡から五里ケ峯には、クヌギの仲間のアベマキが生えています。珍しいな、植林でもしたのかなと思っていたら、五里ケ峯山脈のいたるところにありました。一本東の戸神山脈にも、千曲川を距てた西山にもあまり見られないので不思議な感じがします。コシアブラは全くありません。赤松の自然林は至る所にあります。五里ケ峯では見られなかった松食虫や松枯病が北へ向かうほど見られるようになります。
ところで埴科郡誌には、宮坂峠手前に戸倉城跡(樫井城跡)があるというのですが、それらしきものは見あたりませんでした。ところが有明山手前の久保峰と思われる頂では、山城跡かと思われるような郭の形や、積石塚古墳かと思われるような跡が見られました。これは千曲市も未調査の場所でしょうか。謎です。
森将軍塚古墳に到着で、ようやくコースも終わりです。あとは一重山に登るだけ。この一重山ですが、国土地理院の地形図では、458mの屋代城跡本郭を一重山と記していますが、本来はここは小島山(おじまやま)といい、一重山はさらに北に下りて登り返した三本柏のあるピークになります。五里ケ峯山脈の終焉は、一重山不動尊と鐘突堂ですが、この先端を蹄ケ崎(ひづめがさき)といいます。その名の通り屋代城跡では、この山の主・ニホンカモシカが出迎えてくれました。
この時点で膝痛のため意識朦朧者が約二名ほど。早々に駅前の居酒屋に転げ込みました。生ビールの美味しかったこと。長い山行で懲りたかなと思いきや、結構良かったようで秋もやろうということになりました。
★このトレッキングは、後日フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「葛尾城跡・五里ケ峯・勘助道・一重山」を御覧ください。