青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。どこまで歩いていても、空と月と砂漠のゆるやかな起伏以外のものは、見えません。わたしは、なぜかしら、いつのころからか、ここにいるのです。ああ、いやな風が吹く。生ぬるい風が、汚い砂を運んで私の目を汚します。わたしは目の痛さに涙を流し、しばし、子どものように声をあげて泣きます。でもその感情はすぐに、水が砂に吸われていくように、消えていきます。だってこんなのは、所詮、お芝居だからです。わたしはお芝居が上手でした。女優なんぞじゃありませんでしたよ。ただ、周囲の人をだます芝居が、とてもうまかったのです。
砂で目を痛めて泣くなんてことも、本当はお芝居。あまり痛くはありませんの。けれど、大仰に、痛い、痛いといって泣きわめいて、周りの人間を困らせるのが、わたしの趣味のようなものでしたから。誰も見ていないと言うのに、ついお芝居をやってしまいます。
風のない静かなときは、砂漠の砂は、まるで星空の星を全て砕いて作ったように、きらめいて美しく、手で砂を一すくいとって、よく見てみると、砂は本当に、小さな小さな一粒一粒が、星のように小さく光り、何かを言いたげに、かすかに震えているのでした。でもわたしは、誰の話を聞くのもいやでしたから、人間も含めて、誰もかれもが、いやでたまりませんでしたから、砂の声が聞こえる前に、それを捨てます。
そうですねえ。お聞きになりたいのなら、わたしの名を、教えてもかまいませんわ。あまり好きな名ではないのですけど。わたしの名は今、「いては嫌な者」と言います。それは、わたしという者がいるのを、皆が嫌がるからです。わたしは、何らかの重い罪を犯して、この砂漠に落ちたのですが、一体何をやったのかは、もう忘れてしまいました。覚えていてもしょうがないことですもの。ただ、わたしはこの、広い砂漠の中でひとり、いつまでもぼんやりとして、歩いたり座ったりするだけで、ほかには何もしようとはしません。確かわたしは重い罪を犯して、償いのためにここで何かをやらねばならないのでしたが、その記憶も薄らいで、一体何だったかしらと、思い出すにも、苦労するようになってしまいました。月日とはむごいもの。わたしはここにいて、一体何をしなければいけなかったのでしょう?
ほ、お知りになりたい?…そうですか。では、少々考えてみます。
…ああ、そうだ。わかりました。わたしは、この広い砂漠の砂粒を、一粒一粒数えて、全て数えた数を、神に報告せねばならないのです。この砂漠の砂粒の数を、全て数えることができ、その数が正しかったら、わたしは自分の罪を許されることになっているのです。
ふ、なんて馬鹿なことでしょう。こんな広い砂漠の砂粒など、数えられるわけがないではありませんか。もうずいぶん昔のことですけど、最初のうちは、小さなコップに砂を入れて、本当にまじめに、砂粒を数えていました。けれども、砂の数を、二百五十個まで数えたとき、もう馬鹿らしくなって、コップの中にためておいた数え終わった砂粒を、みんな砂漠の上にひっくり返し、こうしてひとり、なんにもせずに、ただ砂漠の中をさまよい歩くようになったのです。
…はて、わたしは一体、何をして、こんな砂漠にいるのでしたか?自分の頭に問うてみます。しかし記憶の奥を探れば探るほど、暗い闇が広がるばかりで、わたしは一切、自分のしたことを思い出せないのです。ただわかっているのは、わたしがいると、人間が嫌がる。そういうものに、わたしがなってしまったということだけです。なぜでしょう。なぜ人々は、わたしがいるのを嫌がるのか。そんなにいやなことをしたのでしょうか。もう一度、思い出してみます。ああ、でも頭をひねって考えようとすると、黒い闇が記憶の中の痛いところを、どうしても隠してしまうのです。たぶんわたしは、思い出したくはないのです。
思い出せと言いますか。厳しいことを言われますね。お聞きになりたいのですか?しかたありません。少し思い出すのに、時間をくださいませ。
わたしは考えつつ、砂の上を歩きます。すると、ふと流砂の中に巻き込まれ、足元がずぶりと砂に沈み、わたしは何かに引き込まれるように顎まで砂に埋まってしまいました。悲鳴をあげましたが、誰も助けてくれる人などおりません。わたしを見ているのは、あの月だけ。だれか、だれかわたしをここから、引っ張り出して下さい。…引っ張り出す?おや、気になる言葉だわ。何か思い出せそうな気がする。…ああ、そうです。わたしは人間として生きていたとき、産婆だったことがありました。よく、赤ん坊の親に、生まれてきた子を殺してくれと、頼まれたことがありました。なんて惨いことでしょう。生まれてきた子を事情があって育てることができないからと、殺して捨ててくれと頼まれたのです。もちろん、その礼はたっぷりといただきました。ええ、商売にしていたのです。わたしに頼めば、生まれてくる子を殺してくれると、ずいぶんと遠くから、わたしのところに来た女もいましたわ。なんてことでしょう。ああ、赤ん坊の声が、遠くから聞こえます。わたしは赤ん坊が産声を上げてすぐ、その鼻と口をふさぎ、窒息させて殺していました。それはもう、何人も、何人も。生涯のうちに、何人の赤子を殺したことでしょう。あまりにも惨い。ああ、本当に、惨い…
死んだ赤ん坊はみな、里の近くの山の中に、ぼろ布にくるんで、捨てました。それはもうたくさん、赤子を山の中に捨てました。あの谷は今どうなっているでしょう。誰にも見つかっていなければ、今も赤子の小さな頭蓋が無数の貝殻のようにあの谷の底に転がっていることでしょう。
わたしは目を閉じます。すると小さな夢が見えます。深い谷に捨てられた赤子の死体が土に溶け、そこから青い芽が出てきて、どんどん大きくなり、やがて一輪の赤い百合の花が咲くのです。赤い百合。見るだけで目が焼けてしまいそうな鮮やかに赤い百合の花が、谷のそこらじゅうに咲き乱れている。百合の奥からは、まるで赤いらっぱが音を吐くように、かすかな赤ん坊の泣き声が聞こえる。悲しい。なぜ殺したのか。なぜ殺すことが、できたのか。あまり、にも、むごい…
ああ、思い出しましたわ。わたしは、生まれるたびに、似たようなことをしてきました。たいてい、小さな子どもを殺したり、自分の産んだ子どもを売って金に変えたり、役立たずとののしって奴隷のように働かせた上、病気になると捨てたりしました。
あなたの心の中に憐れみはないのかと、誰かに尋ねられたことがあります。女が、なぜ子どもに、ここまで惨いことができるのかと。その人の顔は、うっすらと覚えています。確か黄色い服を着ていました。その人は何度もわたしに尋ねましたが、わたしは、別に何を答えるではなく、目を伏せて、じっとあらぬ方を見つめていました。いやだったからです。なんでこんなことをしたのかなんて、聞かれるのがいやだったからです。だってわたしは、誰よりもえらいんですから。みいんな、わたしより馬鹿なんですから。何を言ったって、他人にわたしの気持などわかるはずはないのです。
黄色い服を着たその人は、わたしに教えました。わたしが、やらねばならない罪の浄化を。わたしはそれを聞いたとき、愕然としました。わたしは、わたしがこれまで殺してきた子どもと同じように、子どものときに惨く殺されねばならないというのです。自分がやったこと、そのままの形で、何度も何度も殺されねばならないというのです。それを聞くや否や、わたしは、いやだといいました。いやです。いやです、そんなこと、絶対にいや!
なぜですって?どうしてお聞きなさるの?あなただって、こんなときは、わたしと同じことを言うはずだわ。他人が苦しいのや痛いのは別にかまわないけど、自分が同じ目にあって苦しむのは、いやなんです。痛いのや、苦しいのは、絶対にいや。当たり前じゃないの。
どうしてそんな顔でわたしを見ますの?おかしいわ。人間て、みんなそうじゃありませんか。他人は別として、自分が苦しむのは嫌だって、たくさんの人は言いますわ!
黄色い服の人は、わたしがあまりに嫌だ嫌だというのに、呆れてものも言えないという顔をしていました。そしてしばし苦しげに頭を抱えたあと、持っていた書類に何かを書き込み、長い時間がかかるが、そう痛くはない浄化の方法があると、言いました。
それがこの、はてしない砂漠の砂粒の数を、正確に数えると言うことだったのです。
わたしは、それなら、別に痛くないからいいと、思わず言ってしまいました。本当に、お馬鹿さんだわ。こんなに、こんなに広い砂漠だとは思わなかった。
要するにわたしは、永遠に、この砂漠に閉じ込められたのです。「いると嫌な者」と名付けられ。砂粒を数えきるまで、決して帰ってくるなと。お前などいたら嫌だと、誰もがわたしに言う者。それがわたし、「いては嫌な者」。
そうして今、わたしは、砂に埋もれたまま、ただじっと動くことができずにいます。時々砂が口に入って、ざらついた苦い味が舌を痛めます。両腕を動かして、何とか砂から出られないかと試してはみるのですが、砂が重すぎて、体を動かすことができません。どうしたらいいでしょう?ああ、誰か助けて。わたしを、ここから出して。
どこからか、風に乗って、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえます。あれは、わたしの殺した赤ん坊の声でしょうか。…おや、よく見ると、いつの間にか、砂に埋もれているわたしの周りに、小さな白い毬のような、赤子のされこうべが散らばっています。わたしはびっくりして、思わず、ひい、と声をあげました。されこうべは、がらんどうの眼窩を一斉にわたしに向けながら、かすかな声で笛のような歌を悲しげに歌っています。その骨は、それぞれにみな、雪のように清らかに白く、美しい。
「おお、よしよし、おいで、かわいい子…」わたしは猫なで声で、されこうべを呼びます。彼らをなんとか利用して、砂から出してもらえないかと考えたからです。けれども、赤子のされこうべは、わたしの声を聞くやいなや、まるで嘔吐をもよおしたかのようなひどい声をあげて、次々と逃げ去っていくのです。
されこうべは、みな、わたしを見捨てて、あっという間に行ってしまいました。ああ、もう、わたしを助けてくれるものは、誰もいません。わたしは、永遠に、ここに埋もれていなければならないのか…。これではもはや、砂粒を数えることすらできない。どうすればいいのか。
いいえ、もう、考えるのはやめにしましょう。見上げれば青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。
わたしは、「いては嫌な者」。多分、永遠に、この砂に埋もれて、動けないまま、時を食べて行かなければならない。
満足されましたか。わたしの身の上を聞いて。ええ、誰かに言ってもかまいませんわよ。悪いことばかりして、自分のことだけしか考えない人は、こんな目にあうぞと。ふふ、でもわたしだって、言わせてもらうわ。あなたがどんなことをして、どんなうそをついているか、顔を見ればすぐにわかりますもの…。
ああ、誰もいない。わたしはわたしに向かい、女優のように芝居をしている。演じるのもわたし、それを観るのも、わたし。白い月が照りつけて、時々わたしの頭を刺します。少し時が経つと、わたしは風が運んでくる砂にすっかり埋もれてしまいました。闇の中に、どんどん深くとりこまれてゆきます。もう月も見えない。
だれでしたか?わたしは。そして何をしたのでしたか? 脳髄の中から、だんだんと記憶がはぎとられてゆく。暗い砂の中は、暖かく、わたしはまるで胎内に眠っている胎児のようです。なんとなく、わかるような気がします。きっとわたしは、胎児なのです。そしてきっといつか、生まれるのです。
静かな暗闇の時を噛んで食べながら、わたしは温かな砂の中で、眠ります。わたしがいつか、生まれたとき、母はどんなにかうれしい顔をして、わたしを抱いてくれるでしょうか。