季節は春から夏に移ろうとしていた。道端に灯る小さな花々も、星が点滅するように、消えては咲き、消えては咲きながら、季節の風に喜びの歌を混ぜてくれる。
篠崎什は、母に選んでもらった紺のチェック柄のシャツに、はき古したジーパンという格好で、いつもの散歩道を歩いていた。背中を照らす日の光が熱い。もうすぐ蝉も鳴きだすだろう。無精で伸ばしている髪が、汗で少し首にべたつくが、面倒なので彼は床屋には滅多にいかない。母に言われているので、髭だけは剃るが。
「こんにちは、什さん」後ろから声をかけられたので、振り向くと、そこに中学生になった、るみがいた。篠崎什は、笑って「やあ、こんにちは、るみちゃん」と答えた。彼女とは、初めて出会って以来、何度か近所で偶然に会い、いつの間にか、友達のように話をするようになった。二十以上も年の離れた友達だが。
るみは中学の制服を着ていた。半袖の白いシャツから出ている腕が細く、まだ子どものようだ。どんぐりのような丸い小さな目が笑って、嬉しそうに什を見ている。るみは、什が好きなのだ。まだ小学生だったとき、本気で什に、「大人になったらお嫁さんにして」と言ったことがある。什は、子ども相手のことだからと、「ああ、いいよ」とよい返事をしたが、その約束を、るみはまだ半ば本気にしているようだ。まあ、大人になれば、気持ちは変わるものだから、いずれはそんな約束も自然に消えていくだろうが。
とにかく、什の数少ない友人たちの中では、るみは最もかわいい友人だろう。実際、この近所で、什に話しかけてくれる人間は、母をのぞいたら、るみだけだった。
「もう学校は終わったのかい?お昼前だけど」什が問うと、るみは什の隣まで走ってきて、一緒に歩きながら言った。「なんか先生たちの大会みたいのがあるらしくて、今日の授業は三時限で終わったの。家に帰る前に、こっちに来ちゃった。この前貸してもらった詩集、返さなくちゃいけないし」「ああ、それならいつでもいいのに」
什は、明るい日差しの中を、いつものように一人で散歩していたのだが、こうして今日はなんとなく、るみといっしょに散歩をするような感じになってしまった。るみは黙って什についてくる。什もべつに何も言わず、歩いていく。この男には、この世界で生きて行くために必要な、ある種の動物的勘というものが全く欠けているのだ。るみがついてきても、べつになんとも思わない。他人が見たら、どんな誤解をされるかわかったものではないのに、そんなことは思いもしないのだ。ただ、今日の散歩は、いつもと変わった散歩になりそうだなと彼は思った。子ウサギみたいな女の子がひとりついてくる。それもなかなかに楽しい。
什は道端や、近所の家々の庭に植えられている花や、日陰の小さな林檎の木に目で挨拶をしながら、道を何度か曲がり、やがて狭い公園に入っていった。その公園の隅には、だいぶ樹齢を経た大きな楠の木が立っており、その下に小さなベンチがおいてあった。什は散歩の途中、時々そのベンチに座って一休みしながら、楠の木を見あげるのが、好きだった。この楠の木は深い知者で、いつも大切なことを什に教えてくれる。什がベンチに座ると、るみは少しの間おずおずとためらったが、スカートのひだをいじりながら、その隣にそっと座った。
涼しい風が吹き、梢がざわめく音がする。楠の木が何かを伝えようとしているのだ。木々は風でものを言う。木は何かを自分に伝えたいのだなと、什は感じた。いつもなら彼はそこで目を閉じ、ゆっくりと自分の心の中にある何かと話をして、楠の木の言いたいことを感じて、自分の言葉に変換するのだが、今日はとなりにるみがいるので、それもできない。楠の木もそれがわかっているのか、葉を一、二枚、はらりと彼の足もとに落とした。什はそれを見て、何か少し、妙な予感めいたものを感じて、ふと、ほう、と言ったが、それが何か分かる前に、るみが声をかけてきた。
「わたし、今、先生に教えてもらって、短編小説書いてるんだ」什ははっとして、あわてて答える。「…あ、ああ、そうか、文芸部だったね」「うん、短編ていうより、超短編ていうの?すっごく短いお話」「へえ、どんな話?」「ううん、まだちょっと下手で恥ずかしいから、言えない。わたしもいつか、什さんみたいな詩、書いてみたいな」「詩はみんな、人によって違うものだよ。君には君の詩がある。最初のうちは、真似でもいいけどね」「…うん。什さんて、花や木や石が好きなのね。詩集にそんな言葉がいっぱい出てくる」「うん」「あと、星も好きね。北斗七星の七つの星に、みんな名前があるなんて、わたし初めて知った」「…ああ、それ、暗記してるんだよ。ひしゃくの柄の先から、アルカイド、ミザール、アリオト、メグレズ、フェクダ、メラク、ドゥーベ…」「へええ、すごい!」「ミザールにはアルコルという伴星がある。よく見ると、ミザールの横に小さな星が寄り添って見えるんだ、兄弟みたいにね」「ふうん、どうして覚えたの?」「中学の頃に、天文に興味持ったことがあって、本をたくさん読んだんだ。それで、なんとなく覚えてしまった。星を見ると、なにか懐かしいような気持ちがして、昔からよく夜空を見ていた…」
什が言うと、ふとるみが黙り込んだ。白い中学カバンをさすりながら、何やら真剣な目をして、足元を見ている。什は特に気にするでもなく、楠の木を見あげている。木が何かを伝えようとしている。それは何だろう?と考えていると、突然、るみがいった。
「什さん、わたし、こ、この詩の意味、わかんないの。教えて」そういうとるみは、カバンの中から、この前什が貸した詩集を取り出し、しおりを挟んであったページを開いて、什に見せた。そこには白い紙に青っぽいインクで星のような文字が行儀よく並び、一瞬だが什はその文字が虫のように震えてうごめいているように見えた。るみの目が何かを訴えているように苦しそうなので、什は詩集を手にとってその詩を読んだ。
宵の方 天空に釘打たれた
銀のヴェガを見つめていた
あらゆる雲と風と真空を乗り越えて
今私たちは一本の光でつながっていた
沈黙の中でまなざしを交わす
見つめ合うだけですべてがわかるひとが
ほら あそこにいる
いつか
すべてのことを語り終えて
青い風の結び目がほどけたら
私はあのなつかしいひとの元へと
帰ることだろう
野の香り山の光海のささやきに染め上げて
空に語る人々の愛の歌を織り込んだ
広い翼をひるがえし
さしのべられたあなたの
ただ一本の指をたぐり
風を越え空を越え魂の岸辺を抜け
いつか帰ることだろう
なつかしいあの故郷へと
「ああ、これは…」什は詩の説明をしようとして、言いよどんだ。彼はよく、自分がこの世界の生き物ではないと感じることがあり、その苦しくも奇妙な望郷の心をこの詩に込めたのだが、そういうことをどうやってるみに説明したらいいのか、彼は思いつかなかった。正直に話してしまえば、気がおかしいと思われかねない。彼が詩集を見つめつつ、困っていると、突然、るみが言った。
「什さん、ヴェガに帰らないで」
什は、「え?」と言って、隣のるみを振り返った。るみは震えながら什を見ていた。目に小さな玉のような涙がにじんでいる。什はあわてて言った。「わたしはヴェガには帰らないよ。これは暗喩というもので、つまりはたとえという言葉の技術で、そのまんまの意味でとるようなものじゃない…」「だって什さん、時々、ほんとにどっかにいっちゃうような顔するんだもの、空ばかり見てるし」
るみは目に浮かんだ涙を手でぬぐいながら言った。什は何やらこの少女がかわいくてたまらなくなり、やさしく笑って、彼女に言った。「わかった。帰らないよ。ずっと地球にいる」「ほんと?」「ああ、ほんとだよ」什が言うと、るみは少し安心したようにほっとして、笑顔を見せた。
るみは、詩集を什に返すと、おなかがすいてきたからと言って、小さく手を振ると、急いで走って家に帰って行った。楠の木の下のベンチで、什は去っていくるみの背中を見ながら、女の子はかわいいなと思った。思っていることを、素直にはきはきと言うるみのおかげで、什はだいぶ他人と話すのが上手になっていた。
るみの姿が見えなくなると、ふと、また楠の木の梢がざわついた。什は上を向き、その梢の音に耳を浸した。一瞬、彼の目の色が変わったが、それに気付いたのは、今、彼の目には見えない誰かだけだった。熱い風が吹いた。太陽は正午の位置を少し過ぎていた。什は声をあげずに「ああ」と胸につぶやいた。まばたきをして目を閉じ、再び開けた時、いつの間にか空が真っ赤になっていた。夕暮れ時でもないのに、まるでピジョンブラッドの紅玉を液体にして染め抜いたような赤い空が広がっている。
…ああ、きた。
と、什は思った。なぜかはわからない。けれども、それは遠い昔からの約束事だったような気がした。一瞬背筋が凍り、思いもしない涙が左目から滴った。何もわからないが、すべてはわかっている。什はベンチに座ったまま右手をあげ、天を指差した。すると真っ赤な空の天頂から、何か白いものが落ちてくる。什は目を見開いた。遠い空の果てから落ちてくるそれは、二羽の白い鳩だった。鳩は双子のように翼をそろえつつ、什をめがけて落ちてきた。什は逃げなかった。やっと、やっと来た。彼がそう思った瞬間、二羽の白い鳩は、頭から什の体の中に入り、彼の腹の底に熱い衝撃を起こして着地した。
意識はあったが、心も体も鉄のように重く動かない一瞬があった。什はめまいを起こして、しばしベンチの背もたれにつかまりながら、全身のしびれ感に堪えた。彼の中で光を切り裂くような直感が電流のように走った。それとほぼ同時に、彼は自分の中で嵐のように大量の言葉が二重三重の暗喩にくるまれながら荒れ狂っているのを感じた。書かねばならない!彼はそう思い、めまいがおさまる前にふらふらと立ち上がって歩き出した。そして家に帰るや否や、昼食をとるのも忘れて書斎に閉じこもり、原稿用紙に、あふれださんばかりに頭の中で暴れている言葉を次々と書いていった。ペンを握る手が熱い。原稿用紙の上に焼きついた文字が時々、妙に動いているような気がした。あふれてとまらぬ言葉を、彼は次々に書いていった。頭の中の嵐の風がおさまり、言葉の泉が枯れ切るまで、書き続けた。どれだけの間書いていたのか。彼がすべてを書き終えてふと気付いた時には、夜を過ぎ、朝が来ていた。
什は時計を見て驚いた。五時前だが、夕方にしては外が静かすぎる。窓の外から朝鳥の声が聞こえる。机の端や床に積もった原稿用紙の量を見て、什はびっくりした。あれからずっと書いていたのか?什はやっと母のことを思い出し、夕食はどうしたろうと、心配になったが、すぐにその思いは消えた。今はそれよりも大事なことをせねばならないと感じたからだ。什は書斎の窓を開けた。まだ日は上り切っていないようだが、空は明るかった。町は静かだ。まだ誰も目を覚ましてはいないようだ。だが什は、窓のすぐそばに植えてある庭木の後ろに、誰かがいるような気配を感じた。
ひとりだけではない、と什は思い、目を上げた。目には見えないが、なぜか百万の観衆の視線を今自分が浴びているような気持がした。什は、ほ、と思わず言った。什にはわからなかったが、彼はこう言ったのだ。「ああ、みなさん、きて下さいましたか」。何故にか、懐かしさに胸がつまった。什は微笑み、静かにもやさしく、何とも気品のある声で言った。
「みなさん、ありがとう」
すると、見えないたくさんの者たちが、ざわりと空気を動かしたような気がした。
「今日、ひとつの仕事を終えました。お願いいたします。鍵を、左に回して下さい」什が礼儀を正して頭を下げていうと、たくさんの見えないものがかすかな風を動かして、一斉にそこから飛びたっていった。もうすべてはわかっていたからだ。ただ、庭木の影にいる一人だけは、什のそばを離れず、そこに残っていた。
什はその庭木の影をみた。何も見えないが、見えない者は確かにいた。彼は役目として、什のそばを離れるわけにはいかなかったのだ。金髪青眼の聖者は、庭木の影でひざまずき、驚きを隠すことのできない目で、什を見ていた。什の背中で、大きな薄紅の翼が清らかな炎のように光りながら大きく天に向かって伸びていた。什の本来の姿が、彼の肉体と重なって見えた。金髪青眼の聖者は、什に向かって小さく、はぅ、と声をかけた。「あなたは、どなたなのか」という意味だった。その声は、一瞬沈黙した風によって、什の耳に届けられた。その意味はすぐにわかった。什の目はいつしか澄んだ空色になっていた。彼は人間とは思えぬ明るすぎる微笑みをし、小さくも確かな自信に満ちた声で言った。
「わたしは、オメガであり、アルファである」
そして彼は、明るい笑い顔を変えずに、上空のはるか彼方にあるものを見つめ、優雅な所作で右手を揺らし、人差し指をたててまっすぐに天を指差しながら、言ったのだ。
「これより、始まる」
篠崎什は、母に選んでもらった紺のチェック柄のシャツに、はき古したジーパンという格好で、いつもの散歩道を歩いていた。背中を照らす日の光が熱い。もうすぐ蝉も鳴きだすだろう。無精で伸ばしている髪が、汗で少し首にべたつくが、面倒なので彼は床屋には滅多にいかない。母に言われているので、髭だけは剃るが。
「こんにちは、什さん」後ろから声をかけられたので、振り向くと、そこに中学生になった、るみがいた。篠崎什は、笑って「やあ、こんにちは、るみちゃん」と答えた。彼女とは、初めて出会って以来、何度か近所で偶然に会い、いつの間にか、友達のように話をするようになった。二十以上も年の離れた友達だが。
るみは中学の制服を着ていた。半袖の白いシャツから出ている腕が細く、まだ子どものようだ。どんぐりのような丸い小さな目が笑って、嬉しそうに什を見ている。るみは、什が好きなのだ。まだ小学生だったとき、本気で什に、「大人になったらお嫁さんにして」と言ったことがある。什は、子ども相手のことだからと、「ああ、いいよ」とよい返事をしたが、その約束を、るみはまだ半ば本気にしているようだ。まあ、大人になれば、気持ちは変わるものだから、いずれはそんな約束も自然に消えていくだろうが。
とにかく、什の数少ない友人たちの中では、るみは最もかわいい友人だろう。実際、この近所で、什に話しかけてくれる人間は、母をのぞいたら、るみだけだった。
「もう学校は終わったのかい?お昼前だけど」什が問うと、るみは什の隣まで走ってきて、一緒に歩きながら言った。「なんか先生たちの大会みたいのがあるらしくて、今日の授業は三時限で終わったの。家に帰る前に、こっちに来ちゃった。この前貸してもらった詩集、返さなくちゃいけないし」「ああ、それならいつでもいいのに」
什は、明るい日差しの中を、いつものように一人で散歩していたのだが、こうして今日はなんとなく、るみといっしょに散歩をするような感じになってしまった。るみは黙って什についてくる。什もべつに何も言わず、歩いていく。この男には、この世界で生きて行くために必要な、ある種の動物的勘というものが全く欠けているのだ。るみがついてきても、べつになんとも思わない。他人が見たら、どんな誤解をされるかわかったものではないのに、そんなことは思いもしないのだ。ただ、今日の散歩は、いつもと変わった散歩になりそうだなと彼は思った。子ウサギみたいな女の子がひとりついてくる。それもなかなかに楽しい。
什は道端や、近所の家々の庭に植えられている花や、日陰の小さな林檎の木に目で挨拶をしながら、道を何度か曲がり、やがて狭い公園に入っていった。その公園の隅には、だいぶ樹齢を経た大きな楠の木が立っており、その下に小さなベンチがおいてあった。什は散歩の途中、時々そのベンチに座って一休みしながら、楠の木を見あげるのが、好きだった。この楠の木は深い知者で、いつも大切なことを什に教えてくれる。什がベンチに座ると、るみは少しの間おずおずとためらったが、スカートのひだをいじりながら、その隣にそっと座った。
涼しい風が吹き、梢がざわめく音がする。楠の木が何かを伝えようとしているのだ。木々は風でものを言う。木は何かを自分に伝えたいのだなと、什は感じた。いつもなら彼はそこで目を閉じ、ゆっくりと自分の心の中にある何かと話をして、楠の木の言いたいことを感じて、自分の言葉に変換するのだが、今日はとなりにるみがいるので、それもできない。楠の木もそれがわかっているのか、葉を一、二枚、はらりと彼の足もとに落とした。什はそれを見て、何か少し、妙な予感めいたものを感じて、ふと、ほう、と言ったが、それが何か分かる前に、るみが声をかけてきた。
「わたし、今、先生に教えてもらって、短編小説書いてるんだ」什ははっとして、あわてて答える。「…あ、ああ、そうか、文芸部だったね」「うん、短編ていうより、超短編ていうの?すっごく短いお話」「へえ、どんな話?」「ううん、まだちょっと下手で恥ずかしいから、言えない。わたしもいつか、什さんみたいな詩、書いてみたいな」「詩はみんな、人によって違うものだよ。君には君の詩がある。最初のうちは、真似でもいいけどね」「…うん。什さんて、花や木や石が好きなのね。詩集にそんな言葉がいっぱい出てくる」「うん」「あと、星も好きね。北斗七星の七つの星に、みんな名前があるなんて、わたし初めて知った」「…ああ、それ、暗記してるんだよ。ひしゃくの柄の先から、アルカイド、ミザール、アリオト、メグレズ、フェクダ、メラク、ドゥーベ…」「へええ、すごい!」「ミザールにはアルコルという伴星がある。よく見ると、ミザールの横に小さな星が寄り添って見えるんだ、兄弟みたいにね」「ふうん、どうして覚えたの?」「中学の頃に、天文に興味持ったことがあって、本をたくさん読んだんだ。それで、なんとなく覚えてしまった。星を見ると、なにか懐かしいような気持ちがして、昔からよく夜空を見ていた…」
什が言うと、ふとるみが黙り込んだ。白い中学カバンをさすりながら、何やら真剣な目をして、足元を見ている。什は特に気にするでもなく、楠の木を見あげている。木が何かを伝えようとしている。それは何だろう?と考えていると、突然、るみがいった。
「什さん、わたし、こ、この詩の意味、わかんないの。教えて」そういうとるみは、カバンの中から、この前什が貸した詩集を取り出し、しおりを挟んであったページを開いて、什に見せた。そこには白い紙に青っぽいインクで星のような文字が行儀よく並び、一瞬だが什はその文字が虫のように震えてうごめいているように見えた。るみの目が何かを訴えているように苦しそうなので、什は詩集を手にとってその詩を読んだ。
宵の方 天空に釘打たれた
銀のヴェガを見つめていた
あらゆる雲と風と真空を乗り越えて
今私たちは一本の光でつながっていた
沈黙の中でまなざしを交わす
見つめ合うだけですべてがわかるひとが
ほら あそこにいる
いつか
すべてのことを語り終えて
青い風の結び目がほどけたら
私はあのなつかしいひとの元へと
帰ることだろう
野の香り山の光海のささやきに染め上げて
空に語る人々の愛の歌を織り込んだ
広い翼をひるがえし
さしのべられたあなたの
ただ一本の指をたぐり
風を越え空を越え魂の岸辺を抜け
いつか帰ることだろう
なつかしいあの故郷へと
「ああ、これは…」什は詩の説明をしようとして、言いよどんだ。彼はよく、自分がこの世界の生き物ではないと感じることがあり、その苦しくも奇妙な望郷の心をこの詩に込めたのだが、そういうことをどうやってるみに説明したらいいのか、彼は思いつかなかった。正直に話してしまえば、気がおかしいと思われかねない。彼が詩集を見つめつつ、困っていると、突然、るみが言った。
「什さん、ヴェガに帰らないで」
什は、「え?」と言って、隣のるみを振り返った。るみは震えながら什を見ていた。目に小さな玉のような涙がにじんでいる。什はあわてて言った。「わたしはヴェガには帰らないよ。これは暗喩というもので、つまりはたとえという言葉の技術で、そのまんまの意味でとるようなものじゃない…」「だって什さん、時々、ほんとにどっかにいっちゃうような顔するんだもの、空ばかり見てるし」
るみは目に浮かんだ涙を手でぬぐいながら言った。什は何やらこの少女がかわいくてたまらなくなり、やさしく笑って、彼女に言った。「わかった。帰らないよ。ずっと地球にいる」「ほんと?」「ああ、ほんとだよ」什が言うと、るみは少し安心したようにほっとして、笑顔を見せた。
るみは、詩集を什に返すと、おなかがすいてきたからと言って、小さく手を振ると、急いで走って家に帰って行った。楠の木の下のベンチで、什は去っていくるみの背中を見ながら、女の子はかわいいなと思った。思っていることを、素直にはきはきと言うるみのおかげで、什はだいぶ他人と話すのが上手になっていた。
るみの姿が見えなくなると、ふと、また楠の木の梢がざわついた。什は上を向き、その梢の音に耳を浸した。一瞬、彼の目の色が変わったが、それに気付いたのは、今、彼の目には見えない誰かだけだった。熱い風が吹いた。太陽は正午の位置を少し過ぎていた。什は声をあげずに「ああ」と胸につぶやいた。まばたきをして目を閉じ、再び開けた時、いつの間にか空が真っ赤になっていた。夕暮れ時でもないのに、まるでピジョンブラッドの紅玉を液体にして染め抜いたような赤い空が広がっている。
…ああ、きた。
と、什は思った。なぜかはわからない。けれども、それは遠い昔からの約束事だったような気がした。一瞬背筋が凍り、思いもしない涙が左目から滴った。何もわからないが、すべてはわかっている。什はベンチに座ったまま右手をあげ、天を指差した。すると真っ赤な空の天頂から、何か白いものが落ちてくる。什は目を見開いた。遠い空の果てから落ちてくるそれは、二羽の白い鳩だった。鳩は双子のように翼をそろえつつ、什をめがけて落ちてきた。什は逃げなかった。やっと、やっと来た。彼がそう思った瞬間、二羽の白い鳩は、頭から什の体の中に入り、彼の腹の底に熱い衝撃を起こして着地した。
意識はあったが、心も体も鉄のように重く動かない一瞬があった。什はめまいを起こして、しばしベンチの背もたれにつかまりながら、全身のしびれ感に堪えた。彼の中で光を切り裂くような直感が電流のように走った。それとほぼ同時に、彼は自分の中で嵐のように大量の言葉が二重三重の暗喩にくるまれながら荒れ狂っているのを感じた。書かねばならない!彼はそう思い、めまいがおさまる前にふらふらと立ち上がって歩き出した。そして家に帰るや否や、昼食をとるのも忘れて書斎に閉じこもり、原稿用紙に、あふれださんばかりに頭の中で暴れている言葉を次々と書いていった。ペンを握る手が熱い。原稿用紙の上に焼きついた文字が時々、妙に動いているような気がした。あふれてとまらぬ言葉を、彼は次々に書いていった。頭の中の嵐の風がおさまり、言葉の泉が枯れ切るまで、書き続けた。どれだけの間書いていたのか。彼がすべてを書き終えてふと気付いた時には、夜を過ぎ、朝が来ていた。
什は時計を見て驚いた。五時前だが、夕方にしては外が静かすぎる。窓の外から朝鳥の声が聞こえる。机の端や床に積もった原稿用紙の量を見て、什はびっくりした。あれからずっと書いていたのか?什はやっと母のことを思い出し、夕食はどうしたろうと、心配になったが、すぐにその思いは消えた。今はそれよりも大事なことをせねばならないと感じたからだ。什は書斎の窓を開けた。まだ日は上り切っていないようだが、空は明るかった。町は静かだ。まだ誰も目を覚ましてはいないようだ。だが什は、窓のすぐそばに植えてある庭木の後ろに、誰かがいるような気配を感じた。
ひとりだけではない、と什は思い、目を上げた。目には見えないが、なぜか百万の観衆の視線を今自分が浴びているような気持がした。什は、ほ、と思わず言った。什にはわからなかったが、彼はこう言ったのだ。「ああ、みなさん、きて下さいましたか」。何故にか、懐かしさに胸がつまった。什は微笑み、静かにもやさしく、何とも気品のある声で言った。
「みなさん、ありがとう」
すると、見えないたくさんの者たちが、ざわりと空気を動かしたような気がした。
「今日、ひとつの仕事を終えました。お願いいたします。鍵を、左に回して下さい」什が礼儀を正して頭を下げていうと、たくさんの見えないものがかすかな風を動かして、一斉にそこから飛びたっていった。もうすべてはわかっていたからだ。ただ、庭木の影にいる一人だけは、什のそばを離れず、そこに残っていた。
什はその庭木の影をみた。何も見えないが、見えない者は確かにいた。彼は役目として、什のそばを離れるわけにはいかなかったのだ。金髪青眼の聖者は、庭木の影でひざまずき、驚きを隠すことのできない目で、什を見ていた。什の背中で、大きな薄紅の翼が清らかな炎のように光りながら大きく天に向かって伸びていた。什の本来の姿が、彼の肉体と重なって見えた。金髪青眼の聖者は、什に向かって小さく、はぅ、と声をかけた。「あなたは、どなたなのか」という意味だった。その声は、一瞬沈黙した風によって、什の耳に届けられた。その意味はすぐにわかった。什の目はいつしか澄んだ空色になっていた。彼は人間とは思えぬ明るすぎる微笑みをし、小さくも確かな自信に満ちた声で言った。
「わたしは、オメガであり、アルファである」
そして彼は、明るい笑い顔を変えずに、上空のはるか彼方にあるものを見つめ、優雅な所作で右手を揺らし、人差し指をたててまっすぐに天を指差しながら、言ったのだ。
「これより、始まる」