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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

α

2012-07-21 07:50:45 | 月の世の物語・余編
季節は春から夏に移ろうとしていた。道端に灯る小さな花々も、星が点滅するように、消えては咲き、消えては咲きながら、季節の風に喜びの歌を混ぜてくれる。

篠崎什は、母に選んでもらった紺のチェック柄のシャツに、はき古したジーパンという格好で、いつもの散歩道を歩いていた。背中を照らす日の光が熱い。もうすぐ蝉も鳴きだすだろう。無精で伸ばしている髪が、汗で少し首にべたつくが、面倒なので彼は床屋には滅多にいかない。母に言われているので、髭だけは剃るが。

「こんにちは、什さん」後ろから声をかけられたので、振り向くと、そこに中学生になった、るみがいた。篠崎什は、笑って「やあ、こんにちは、るみちゃん」と答えた。彼女とは、初めて出会って以来、何度か近所で偶然に会い、いつの間にか、友達のように話をするようになった。二十以上も年の離れた友達だが。

るみは中学の制服を着ていた。半袖の白いシャツから出ている腕が細く、まだ子どものようだ。どんぐりのような丸い小さな目が笑って、嬉しそうに什を見ている。るみは、什が好きなのだ。まだ小学生だったとき、本気で什に、「大人になったらお嫁さんにして」と言ったことがある。什は、子ども相手のことだからと、「ああ、いいよ」とよい返事をしたが、その約束を、るみはまだ半ば本気にしているようだ。まあ、大人になれば、気持ちは変わるものだから、いずれはそんな約束も自然に消えていくだろうが。
とにかく、什の数少ない友人たちの中では、るみは最もかわいい友人だろう。実際、この近所で、什に話しかけてくれる人間は、母をのぞいたら、るみだけだった。

「もう学校は終わったのかい?お昼前だけど」什が問うと、るみは什の隣まで走ってきて、一緒に歩きながら言った。「なんか先生たちの大会みたいのがあるらしくて、今日の授業は三時限で終わったの。家に帰る前に、こっちに来ちゃった。この前貸してもらった詩集、返さなくちゃいけないし」「ああ、それならいつでもいいのに」

什は、明るい日差しの中を、いつものように一人で散歩していたのだが、こうして今日はなんとなく、るみといっしょに散歩をするような感じになってしまった。るみは黙って什についてくる。什もべつに何も言わず、歩いていく。この男には、この世界で生きて行くために必要な、ある種の動物的勘というものが全く欠けているのだ。るみがついてきても、べつになんとも思わない。他人が見たら、どんな誤解をされるかわかったものではないのに、そんなことは思いもしないのだ。ただ、今日の散歩は、いつもと変わった散歩になりそうだなと彼は思った。子ウサギみたいな女の子がひとりついてくる。それもなかなかに楽しい。

什は道端や、近所の家々の庭に植えられている花や、日陰の小さな林檎の木に目で挨拶をしながら、道を何度か曲がり、やがて狭い公園に入っていった。その公園の隅には、だいぶ樹齢を経た大きな楠の木が立っており、その下に小さなベンチがおいてあった。什は散歩の途中、時々そのベンチに座って一休みしながら、楠の木を見あげるのが、好きだった。この楠の木は深い知者で、いつも大切なことを什に教えてくれる。什がベンチに座ると、るみは少しの間おずおずとためらったが、スカートのひだをいじりながら、その隣にそっと座った。

涼しい風が吹き、梢がざわめく音がする。楠の木が何かを伝えようとしているのだ。木々は風でものを言う。木は何かを自分に伝えたいのだなと、什は感じた。いつもなら彼はそこで目を閉じ、ゆっくりと自分の心の中にある何かと話をして、楠の木の言いたいことを感じて、自分の言葉に変換するのだが、今日はとなりにるみがいるので、それもできない。楠の木もそれがわかっているのか、葉を一、二枚、はらりと彼の足もとに落とした。什はそれを見て、何か少し、妙な予感めいたものを感じて、ふと、ほう、と言ったが、それが何か分かる前に、るみが声をかけてきた。

「わたし、今、先生に教えてもらって、短編小説書いてるんだ」什ははっとして、あわてて答える。「…あ、ああ、そうか、文芸部だったね」「うん、短編ていうより、超短編ていうの?すっごく短いお話」「へえ、どんな話?」「ううん、まだちょっと下手で恥ずかしいから、言えない。わたしもいつか、什さんみたいな詩、書いてみたいな」「詩はみんな、人によって違うものだよ。君には君の詩がある。最初のうちは、真似でもいいけどね」「…うん。什さんて、花や木や石が好きなのね。詩集にそんな言葉がいっぱい出てくる」「うん」「あと、星も好きね。北斗七星の七つの星に、みんな名前があるなんて、わたし初めて知った」「…ああ、それ、暗記してるんだよ。ひしゃくの柄の先から、アルカイド、ミザール、アリオト、メグレズ、フェクダ、メラク、ドゥーベ…」「へええ、すごい!」「ミザールにはアルコルという伴星がある。よく見ると、ミザールの横に小さな星が寄り添って見えるんだ、兄弟みたいにね」「ふうん、どうして覚えたの?」「中学の頃に、天文に興味持ったことがあって、本をたくさん読んだんだ。それで、なんとなく覚えてしまった。星を見ると、なにか懐かしいような気持ちがして、昔からよく夜空を見ていた…」

什が言うと、ふとるみが黙り込んだ。白い中学カバンをさすりながら、何やら真剣な目をして、足元を見ている。什は特に気にするでもなく、楠の木を見あげている。木が何かを伝えようとしている。それは何だろう?と考えていると、突然、るみがいった。

「什さん、わたし、こ、この詩の意味、わかんないの。教えて」そういうとるみは、カバンの中から、この前什が貸した詩集を取り出し、しおりを挟んであったページを開いて、什に見せた。そこには白い紙に青っぽいインクで星のような文字が行儀よく並び、一瞬だが什はその文字が虫のように震えてうごめいているように見えた。るみの目が何かを訴えているように苦しそうなので、什は詩集を手にとってその詩を読んだ。

宵の方 天空に釘打たれた
銀のヴェガを見つめていた
あらゆる雲と風と真空を乗り越えて
今私たちは一本の光でつながっていた

沈黙の中でまなざしを交わす
見つめ合うだけですべてがわかるひとが
ほら あそこにいる

いつか
すべてのことを語り終えて
青い風の結び目がほどけたら
私はあのなつかしいひとの元へと
帰ることだろう

野の香り山の光海のささやきに染め上げて
空に語る人々の愛の歌を織り込んだ
広い翼をひるがえし

さしのべられたあなたの
ただ一本の指をたぐり
風を越え空を越え魂の岸辺を抜け

いつか帰ることだろう

なつかしいあの故郷へと

「ああ、これは…」什は詩の説明をしようとして、言いよどんだ。彼はよく、自分がこの世界の生き物ではないと感じることがあり、その苦しくも奇妙な望郷の心をこの詩に込めたのだが、そういうことをどうやってるみに説明したらいいのか、彼は思いつかなかった。正直に話してしまえば、気がおかしいと思われかねない。彼が詩集を見つめつつ、困っていると、突然、るみが言った。
「什さん、ヴェガに帰らないで」
什は、「え?」と言って、隣のるみを振り返った。るみは震えながら什を見ていた。目に小さな玉のような涙がにじんでいる。什はあわてて言った。「わたしはヴェガには帰らないよ。これは暗喩というもので、つまりはたとえという言葉の技術で、そのまんまの意味でとるようなものじゃない…」「だって什さん、時々、ほんとにどっかにいっちゃうような顔するんだもの、空ばかり見てるし」
るみは目に浮かんだ涙を手でぬぐいながら言った。什は何やらこの少女がかわいくてたまらなくなり、やさしく笑って、彼女に言った。「わかった。帰らないよ。ずっと地球にいる」「ほんと?」「ああ、ほんとだよ」什が言うと、るみは少し安心したようにほっとして、笑顔を見せた。

るみは、詩集を什に返すと、おなかがすいてきたからと言って、小さく手を振ると、急いで走って家に帰って行った。楠の木の下のベンチで、什は去っていくるみの背中を見ながら、女の子はかわいいなと思った。思っていることを、素直にはきはきと言うるみのおかげで、什はだいぶ他人と話すのが上手になっていた。

るみの姿が見えなくなると、ふと、また楠の木の梢がざわついた。什は上を向き、その梢の音に耳を浸した。一瞬、彼の目の色が変わったが、それに気付いたのは、今、彼の目には見えない誰かだけだった。熱い風が吹いた。太陽は正午の位置を少し過ぎていた。什は声をあげずに「ああ」と胸につぶやいた。まばたきをして目を閉じ、再び開けた時、いつの間にか空が真っ赤になっていた。夕暮れ時でもないのに、まるでピジョンブラッドの紅玉を液体にして染め抜いたような赤い空が広がっている。

…ああ、きた。

と、什は思った。なぜかはわからない。けれども、それは遠い昔からの約束事だったような気がした。一瞬背筋が凍り、思いもしない涙が左目から滴った。何もわからないが、すべてはわかっている。什はベンチに座ったまま右手をあげ、天を指差した。すると真っ赤な空の天頂から、何か白いものが落ちてくる。什は目を見開いた。遠い空の果てから落ちてくるそれは、二羽の白い鳩だった。鳩は双子のように翼をそろえつつ、什をめがけて落ちてきた。什は逃げなかった。やっと、やっと来た。彼がそう思った瞬間、二羽の白い鳩は、頭から什の体の中に入り、彼の腹の底に熱い衝撃を起こして着地した。

意識はあったが、心も体も鉄のように重く動かない一瞬があった。什はめまいを起こして、しばしベンチの背もたれにつかまりながら、全身のしびれ感に堪えた。彼の中で光を切り裂くような直感が電流のように走った。それとほぼ同時に、彼は自分の中で嵐のように大量の言葉が二重三重の暗喩にくるまれながら荒れ狂っているのを感じた。書かねばならない!彼はそう思い、めまいがおさまる前にふらふらと立ち上がって歩き出した。そして家に帰るや否や、昼食をとるのも忘れて書斎に閉じこもり、原稿用紙に、あふれださんばかりに頭の中で暴れている言葉を次々と書いていった。ペンを握る手が熱い。原稿用紙の上に焼きついた文字が時々、妙に動いているような気がした。あふれてとまらぬ言葉を、彼は次々に書いていった。頭の中の嵐の風がおさまり、言葉の泉が枯れ切るまで、書き続けた。どれだけの間書いていたのか。彼がすべてを書き終えてふと気付いた時には、夜を過ぎ、朝が来ていた。

什は時計を見て驚いた。五時前だが、夕方にしては外が静かすぎる。窓の外から朝鳥の声が聞こえる。机の端や床に積もった原稿用紙の量を見て、什はびっくりした。あれからずっと書いていたのか?什はやっと母のことを思い出し、夕食はどうしたろうと、心配になったが、すぐにその思いは消えた。今はそれよりも大事なことをせねばならないと感じたからだ。什は書斎の窓を開けた。まだ日は上り切っていないようだが、空は明るかった。町は静かだ。まだ誰も目を覚ましてはいないようだ。だが什は、窓のすぐそばに植えてある庭木の後ろに、誰かがいるような気配を感じた。

ひとりだけではない、と什は思い、目を上げた。目には見えないが、なぜか百万の観衆の視線を今自分が浴びているような気持がした。什は、ほ、と思わず言った。什にはわからなかったが、彼はこう言ったのだ。「ああ、みなさん、きて下さいましたか」。何故にか、懐かしさに胸がつまった。什は微笑み、静かにもやさしく、何とも気品のある声で言った。

「みなさん、ありがとう」
すると、見えないたくさんの者たちが、ざわりと空気を動かしたような気がした。
「今日、ひとつの仕事を終えました。お願いいたします。鍵を、左に回して下さい」什が礼儀を正して頭を下げていうと、たくさんの見えないものがかすかな風を動かして、一斉にそこから飛びたっていった。もうすべてはわかっていたからだ。ただ、庭木の影にいる一人だけは、什のそばを離れず、そこに残っていた。

什はその庭木の影をみた。何も見えないが、見えない者は確かにいた。彼は役目として、什のそばを離れるわけにはいかなかったのだ。金髪青眼の聖者は、庭木の影でひざまずき、驚きを隠すことのできない目で、什を見ていた。什の背中で、大きな薄紅の翼が清らかな炎のように光りながら大きく天に向かって伸びていた。什の本来の姿が、彼の肉体と重なって見えた。金髪青眼の聖者は、什に向かって小さく、はぅ、と声をかけた。「あなたは、どなたなのか」という意味だった。その声は、一瞬沈黙した風によって、什の耳に届けられた。その意味はすぐにわかった。什の目はいつしか澄んだ空色になっていた。彼は人間とは思えぬ明るすぎる微笑みをし、小さくも確かな自信に満ちた声で言った。

「わたしは、オメガであり、アルファである」

そして彼は、明るい笑い顔を変えずに、上空のはるか彼方にあるものを見つめ、優雅な所作で右手を揺らし、人差し指をたててまっすぐに天を指差しながら、言ったのだ。

「これより、始まる」



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2012-07-20 07:30:15 | 月の世の物語・余編

「よう、おぼっちゃん、おれ貧乏なんだ。ちょっと金貸してくんない?」
髪を刺のように逆立てて、耳にピアスを三つ四つもつけた少年たち三人が、学校の近くの裏道で、ひとりの眼鏡をかけた少年を取り囲んで、にやにやと笑っていました。そのうちのひとりは、薄い灰色の目の周りを黒く塗って化粧までしていました。その顔が笑うと、それはまるで目を吊り上げた竜の怪物のようにも見えました。
「ぼく、ぼく、お金持っていません…」眼鏡の少年は灰色の冷たい壁にもたれ、カバンをしっかりと抱きしめ、震えながらも、返しました。すると化粧をした少年が、鼻息がかかるほど彼に顔を近寄せ、目をぎらつかせながら言うのです。「うそつけよ。たんまりもってたじゃん。休み時間に財布開けて札数えてたろう。見てたぜ。全部よこせよ!」「ここ、これは、だ、大事なお金で…」眼鏡の少年はカバンを抱きしめた手を強めながら、半泣きの顔で言いました。

彼を取り囲む少年たちは、神話や妖精話に出てくる怪物のように、舌舐めずりをしながら、彼の持っているカバンに手をかけ、それを引っ張って無理やり取り上げようとしました。眼鏡の少年はもちろん抵抗しました。するとカバンの留め金がばちんと弾け、中からたくさんの本やノートや筆記用具などがばらばらと落ちて道の上に散らばりました。三人のうち二人の少年が道に落ちたカバンの中身を探りましたが、財布らしいものは見つからず、化粧の少年は、ちっと舌打ちをすると、眼鏡の少年の胸ぐらをつかんで、ぐいとひっぱり、品のない罵声を眼鏡の少年の顔に浴びせました。そのときふと、どこからか強く胸に響く声が聞こえてきました。

「何してるんだ?そんなとこで」

少年たちは、一斉に、声のする方向に目をやりました。するとそこには、黒い巻き毛に青い目をした、肩の広いがっしりとした体躯の、美しい少年が立っていたのです。
「やべえ、ドラゴンだ」その少年の姿を見た途端、ピアスの一団は大慌てで逃げて行きました。眼鏡の少年は、ほっとしつつも、全身から力が抜けて、へなへなとそこに座り込んでしまいました。すると、黒い巻き毛の少年は彼に近づいてきて、言いました。
「大丈夫かい?」眼鏡の少年は、うつむいたまま、よわよわしい声で、答えました。「え、あ、大丈夫…」そうして、ほっと溜息をついて顔をあげたとき、黒い巻き毛の少年は、道に散らばった彼の本を黙って拾い集めているところでした。「いや、あ、ありがとう!」眼鏡の少年はあわてて腰をあげ、自分も道に散らばった本やボールペンを拾い集めました。

ふと、黒い巻き毛の少年は、何かに気付いたかのように、本の中の一冊を手に持って、しばし何か興味深げに見つめていました。それは小さな雑誌で、表紙には白い二羽の鳩の絵が描いてありました。黒い巻き毛の少年は、その本に何か強く引かれるようなものを感じたのですが、それが何なのかはわかりませんでした。眼鏡の少年は、雑誌の表紙を何やら真剣に見つめている黒い巻き毛の少年の横顔を見ながら、少しおっかなびっくりの声で、言いました。
「あ、そ、それ、詩の専門誌なんだ。ぼ、ぼくは、詩文が好きで…」「へえ、詩の…」「うん、ほんとは定期購読してる別の専門誌があるんだけど、その号だけは特別で、買ってきたんだよ。お、おもしろい特集があって」「ふうん、そうなのか…」言いながら、黒い巻き毛の少年は、集めた本を黙って眼鏡の少年に渡し、言いました。
「もう落ちてるのはないかな」「うん、全部拾ったと思う。あ、あの…」

用が終わったと思ったのか、何も言わずに去っていこうとする黒い巻き毛の少年を、眼鏡の少年があわてて呼びとめました。

「あ、ありがとう。助けてくれて…」すると黒い巻き毛の少年が、振り向いて言いました。
「いや、特に何もしてないし。別に気にしなくていいよ」
「あの、あの、ぼ、ぼくはアーヴィン、アーヴィン・ハットンていうんだ」眼鏡の少年が、勇気をふりしぼって自己紹介すると、黒い巻き毛の少年も言いました。「ああ、ぼくは、ドラゴン・スナイダー」
「知ってるよ。ハイスクールで君を知らない人なんていないから」
「まあ、珍しい名前だからね」
そう言うと、ドラゴンはアーヴィンに背を向けて、黙って行ってしまおうとしました。するとアーヴィンはあわてて彼を追いかけて、言いました。
「君の家、シヴェル地区だろう。ぼくも同じなんだ。わりと家が近くなんだよ。と、途中まで一緒に歩いて、いいかい?」
「うん?まあいいけど…?」
ドラゴンは別に気にもせず、アーヴィンと並んで歩き始めました。

歩きながら、アーヴィンは何やら嬉しそうに頬を紅潮させつつ、茶色の目をきらめかせてドラゴンに話しかけてきました。
「カ、カラテやってるんだってね?」「うん?ああ、親父がやってたから、小さい頃から習わされたんだ」「優勝したこともあるんだって?」「うん、二度くらいかな。ガキんときだけど」
アーヴィンは、ドラゴンの隣を歩きながら、弾む胸を抑えきれずに、言いました。「ど、ドラゴンて、す、すごい名前だよね。なんかぼく、好きなんだ、そういうの。どうしてそういう名前になったの?」するとドラゴンは、少々口の端を歪めて困ったような顔をしながらも、今まで何度も聞かれたことのあるその質問に、落ち着いて静かに答えました。「…ああ、親父がね、生まれたばっかりのぼくを抱いた時、言ったんだってさ。『こいつはドラゴンだ!』って。直感的にそう思ったんだってさ。それでドラゴンて名前になったらしい。おふくろは最後まで反対したそうだけど」「へえ、へえ、そうかあ」

アーヴィンはドラゴンと一緒に歩いているうちに、胸がうれしくてたまらず、歌でも歌いたくなってきました。彼にとってドラゴンはあこがれの人だったからです。その美しい容貌や変わった名前などが、詩作の好きな彼の想像力を痛く刺激して、一度でいいから、話がしたいといつも思っていました。そのチャンスが思いもしないときに振ってわいたように落ちてきて、彼はうれしくてなりませんでした。

「ぼくは、詩作が好きなんだ。読むのも書くのも好きだけど、今、ちょっと変わった詩人に凝っててね。外国の詩人なんだけど、おもしろいんだ。これなんだけど」
そう言うとアーヴィンはカバンの中からさっきの雑誌を出し、ページの端をおって印をつけてあるところを開き、ドラゴンに渡しました。ドラゴンは、あまり詩には興味なかったのですが、他人が気を悪くするようなことがあまりできない少年でしたので、その詩の雑誌を受け取りました。

「ここだよ、Camphor Tree。初めて読んだとき、なぜかすごいショックを受けた。なんだか言葉が弾丸みたいに胸に飛び込んで全身にしみ込んでくるようなんだ。好きで何度も読んでるうちに、暗唱できるようになってしまった。君はどう思う?」アーヴィンが、はしゃぎ気味に言うのに少し戸惑いながらも、ドラゴンはその詩を読んでみました。

Camphor Tree

この壁は
乗り越えられる壁だ
たとえどんなに難しい壁でも
無理にでもそう思うことだ
気持ちで負けてはだめだ

今はまだ力が足りなくても
いつか必ずそれを
乗り越えられる自分になる
そんな自分を信じることだ
そして一歩を踏み出すことだ
少なくとも
今何をやるべきなのか
やれるのか
考え始めるべきだ
背を向けてはならない

私があきらめたら
この世界はもう終わりなのだ
だからあきらめてはならない
そう思うことだ
背骨を千切られるような
心の痛みに出会っても
自分を見捨ててはだめだ

絶望と怠惰の沼に
自分の旗を捨ててはならない
それは乗り越えられる壁だ
乗り越えられる壁なのだ

読んでいるうちに、ドラゴンの目の色が変わって来ました。何か、熱いものに心臓をがっしりとつかまれたような気がして、彼の目は自然に詩人の名前の方に向かいました。

「…ジュウ・シノ…ザキ…?」「いや、それ、本当は、シノザキ・ジュウっていうのが正しいんだ。その詩人の国では、ファミリーネームの方を先に呼ぶのが習慣だから」「へえ、いいね、これ」「そうだろう!君ならわかるって思ってた!でも残念ながら、シノザキの詩は、これ一作しか翻訳されてないんだ。彼の国でもあまり売れてないらしい。かなり熱いファンはいるらしいんだけど、一部の批評家がすっごく汚い批評をするんだってさ。個人的感情むき出しって感じの。ぼくはとにかく、もっと彼の詩が読んでみたくて、書店に頼んで、原書を取り寄せてもらうことにしたんだ。辞書も買って、テキストも買って、自分で翻訳してみようと思って。その本を買うお金をとられそうになったところを、君に助けてもらった!」アーヴィンは財布の入ったズボンのポケットをなでながら、言いました。「…ふうん、そうか」ドラゴンは雑誌をアーヴィンに返しつつ、言いました。

「私があきらめたら この世界はもう終わりなのだ」

ドラゴンは、強く印象に残った一節を、暗唱してみました。何か、不安に似た熱いものが自分の胸で蛇のようにうごめくのを感じました。

ドゥラーーゴン…

彼はふとかすかな声を聞いたような気がして、振り向きました。風が一筋、彼の頬をなでて行きました。

ドゥラーゴンン、神の小さき竜よ…

一瞬、ドラゴンの目の色が変わりました。自分の中で、犬のように何かが吠えたぎっているような気がしました。心臓のあたりが熱くなり、正体のわからない生き物が、自分の頭の中でうごめきあばれているような気がします。しかしそれは、決して溶けない氷の檻の中にしっかりと閉じ込められて、自分の表面には決して出てこないのでした。

この感じ。時々感じる。何かの拍子に聞こえるんだ。あの声。…だれかが、ぼくを呼んでいるような…

「どうしたの、ドラゴン?」アーヴィンが、後ろを振り向いたまま動かないドラゴンに向かって言いました。するとドラゴンははっと我を取り戻し、アーヴィンの方を向いて言いました。「あ、いや、なんでもないよ」

二人で話しながら並んで歩いているうちに、やがて道は二人が別れていくところまでさしかかりました。ドラゴンは別れ際、アーヴィンに言いました。
「その詩、なんか好きになったみたいだ。今度、ノートに写させてくれないかい?」
それを聞いたアーヴィンの顔が、ぱっと喜びに明るくなりました。「いい、いいよ!なんなら、今持ってくといいよ、この雑誌、貸してあげるから!」「いいのかい」「うん、いいとも!」

アーヴィンはカバンを探って例の雑誌を取り出し、ドラゴンに渡しました。ドラゴンは礼を言いつつ、雑誌を受け取りました。
「あ、あの…」アーヴィンが、笑いながらも、どきどきする心臓をおさえながら、目を震わせて、ドラゴンに言いました。「…と、ともだちになってもらっても、いいかな、ドラゴン…」
するとドラゴンはいささかびっくりして、アーヴィンを見ました。アーヴィンは、まるで恋の告白をした少女のように唇を震わせて、ドラゴンの顔をじっと見ています。その顔にドラゴンはやさしく笑い返して、言いました。
「ああ、いいよ、ともだちになろう。えーと、ア…」
「アーヴィン、ぼくはアーヴィン・ハットン」
「そう、アーヴィン。ぼくは、ドラゴン・スナイダー」
アーヴィンは最高の笑顔をして嬉しさを現し、手を出してドラゴンに握手を求めました。ドラゴンはアーヴィンの手を握って、彼の喜びが自分に伝わってくるのが何やら快く、不思議な幸福感を感じながら、微笑みを返しました。

その夜、ドラゴンは、夕食後、自室の机で、例の詩を自分のノートに書き写しました。そしてそれを小さな声で読みながら、窓を開け、夜風に触れました。

「シノザキ・ジュウ」ドラゴンはその名を呼びました。するとまた一筋、何やら熱い風が、頬をなでたような気がして、彼は窓の外を見ました。空を見あげると、満月に近い月が、白く輝いています。一瞬、ドラゴンは目をきらりと鋭くし、窓の向こうをまっすぐに見ました。何かの気配を感じたのです。

ドゥラーゴン…

月光のわずかに混じった闇の奥から、彼はまた自分の名を呼ぶ声を、かすかに聞きました。

ドゥラーーゴンン…、神の小さき竜よ…

「誰だ。ぼくを呼んでいるのか?」ドラゴンは闇の向こうに眼を凝らしながら、小さくも鋭い声で、ささやくように言いました。

おまえは、やらねばならぬ…

そのとき、強い風が硬い板のように自分の体をたたくのを、ドラゴンは感じました。背後で、ベッドに立てかけてあったカバンが倒れる音が聞こえました。
乾いた荒い風が窓から入ってきたかと思うと、彼の部屋の中をひとあばれして、彼の耳にふっと小さな言葉を放り込んだ後、窓からばたばたと出てゆきました。

炎の竜よ…

ドラゴンは風に巻き込まれて足元がふらつき、一瞬意識を失って、気付いた時には床に倒れていました。目を開けると、天井がぐるぐると回るようなめまいを感じ、彼は再び目を閉じました。脳髄の中で、覚えてしまった言葉が、稲妻のように光を放ちました。

ワタシガアキアラメタラ コノセカイハモウオワリナノダ…

めまいがおさまって来ると、彼は頭を振りながら立ち上がり、窓枠に手をついてまた窓の外を見ました。しかし、闇の向こう、どこまで遠く視線を投げても、気にとまるようなものは何も見えません。ドラゴンは少し息を激しくしながら、胸の奥でつぶやくように、もう一度言いました。

「シノザキ・ジュウ…」

ドラゴンは窓から半身を乗り出して、月を見上げました。やらねばならぬことがある。その思いが、彼の腹のあたりで確かな形を取り始めていました。何を、何をやらねばならないのか?何もわからない。だが、わかっているような気がする。

ドラゴンの瞳が、月の光を反射して、一瞬金色に光りました。


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みよちゃん

2012-07-19 06:13:45 | 詩集・貝の琴

みよちゃんがお嫁にゆくとき
おとうさんは みよちゃんに言ったそうだ
おまえの のちのちのためのことを考えて
あそこに嫁にやるから
わかってくれよ

みよちゃんは お嫁にいったさきで
下働きのように働かされた
お姑さんは意地悪で 口も悪くて
自分は何にもしないで遊んでばかりで
家のことはなんでもみよちゃんにやらせて
しまいにはおむつの交換までやらせて
死んでしまった

一緒になった旦那さんは
いつもいばってて
みよちゃんに文句ばっかり言ってた
醤油の位置が悪いだとか
みそしるがぬるいだとか
みよちゃんがどんなにきちんとやっても
旦那さんはつまらないことでいつも
みよちゃんを馬鹿にして叱るのだ

みよちゃんは お姑さんと旦那さんに
好きなだけこき使われて
たくさんの苦労をしていた
一度だけだけど 親を怨むようなことも言った
なんでこんなとこに嫁に来させたのかと

そして今 みよちゃんは病院で
酸素のパイプを鼻につけながら
眠っている
苦労ばかりの人生だったね
辛かったろう 苦しかったろう
楽しいことなんて いくらもなかったろう
でも お父さんは本当に
みよちゃんのためを思って
お嫁にやったんだよ

人間はねえ 苦労をしないといけないのだ
苦労が足りないと 馬鹿になってしまうのだ
だから みよちゃんのお父さんは
みよちゃんに苦労させるために
嫁にやったのだ
そうすることが 
ほんとうにみよちゃんのためになるからだ

幸せじゃなかったって思っているかもしれない
だけど人間は幸せになるために生きるのではないのだ
苦労続きだったね つらいことばかりあったね
愛しているよ みよちゃん
生きるってことは そういうことなんだよ
幸せはいつもみよちゃんのそばで花のように咲いていた

ほんとうに がんばったね



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さみしさの

2012-07-18 11:52:03 | 歌集・恋のゆくへ


さみしさの 水流し込む 水槽の 青きに沈む 蝋のてふてふ


すきとほる しらぎくの夢 破りきて 満身に塗る 自らの血を


黒蝿の ごとき眼を くりぬきて 地に打ち捨てよ いたましき者


星を練り 溶かして青き 玉として 新しき目を 君に与えむ


そのひとを 愚か者とぞ わらふ人 ありて阿呆の 仮面が割れる


維新とは 何とも古き ことばなれ 百年の酢の 瓶底の梅



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女性

2012-07-17 06:50:42 | アートの小箱

前回、天使の絵をたくさん紹介してみたので、今回は美しい女性の絵をたくさん紹介してみたいと思います。冒頭はアントニオ・デル・ポライウォーロ(15世紀、イタリア)の「婦人の肖像」。かわいい女性ですね。髪や首に飾った小さな真珠がよく似合う。良家のお姫様みたいな感じですが、小さな口元と顎がかわいい。貴夫人というより、まだ少女ですね。目元に幼さが見える。でもこれは好きです。とてもきれい。



これは、カミーユ・コロー(19世紀、フランス)の「真珠の女」。真珠みたいに見えますが、髪に飾ってあるのは真珠じゃなくて、葉っぱの飾りです。それが真珠のように見えるので、「真珠の女」と題されたそうなのですが。モデルはコローの家のご近所の十代の娘さんだそうです。ポーズはモナリザからとったのだと思いますが、小さくて丸い目がとてもかわいい。質素な服を着てるけれど、どこか気品を感じます。



ピーテル・パウル・ルーベンス(十七世紀、フランドル)の「麦わら帽子」(シュザンヌ・フールマンの肖像)。モデルのシュザンヌ・フールマンは、ルーベンスの二度目の妻、エレーヌ・フールマンのお姉さんだそうです。「麦わら帽子」というのはこの絵の愛称みたいなものらしいですが、かぶっているのは麦わら帽子ではありません。着てる服もとても上等だし、羽飾りのついたきれいなフェルトの帽子をかぶっている。大きな目がかわいいですね。ルーベンスは、ふくよかで愛らしい女性が好きだったようだ。



これは説明するまでもない。レオナルド・ダ・ヴィンチ(十五-十六世紀、イタリア)の「白テンを抱く貴婦人」。モデルは、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人、チェチーリア・ガッレラーニ。細面に少し薄い唇。まだ少女の瞳。資料では当時十六歳から十七歳だったと言われます。美しいけれど、悲しいな。誰かの愛人として生きることを、どういうふうに感じていたのでしょう。当時の風習では、彼女は彼の妻となることはできない。愛していたのだろうか。レオナルドの目は女性を静謐な光の中に照らしだす。その奥に見える真実を洗い出す。彼が描くと、女性はもう人間ではなくなってしまう。



これは、エドゥアール・マネ(19世紀・フランス)の「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像」。ベルト・モリゾは当時の女流画家で、エドゥアール・マネの弟、ウジェーヌ・マネと結婚しています。でも彼女の本当の気持ちは、ウジェーヌよりエドゥアールのほうにあったようだ。こうして見てみると、画家を見つめるベルト・モリゾの気持ちが見えてくるようです。わたしはこの絵が好きで、いつだったか、何かで自分のプロフィール画像みたいに使ったことがあったな。才気を感じる瞳ですね。



これは「フローラ」ティツィアーノ・ヴェチェリオ(16世紀、イタリア)。ふくよかというより、やわらかいながらもがっしりとした体つき。体躯が豊かだというのは、かなり魅力的ですね。最近の女性はみな細いけど、こういう女性も美しいな。暗闇に浮かびあがる金髪なども、とてもきれい。モデルはティツィアーノの妻ではないかとどこかで読んだことがあります。学術的にはいろんなことを言われていて、ネットでも調べたのだけど、その解釈の内容があまり好きじゃなかったので、ただ、美しい女性像の一つとして紹介してみました。

今日はたくさんの名画の美女を紹介してみました。こうして並べてみると、すごいですね。みんな美しいけれど、みんな違う。それぞれに、目が小さかったり大きかったり、金髪だったり茶色の髪だったり、やさしそうだったり、ちょっと気が強そうだったり、はかなそうだったり、しっかりしていそうだったり。もちろん画家の個性や好みもあるんでしょうが。

みんなちがって、みんないい。(by 金子みすず)

みんなきれい。




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諸連絡など

2012-07-16 12:15:35 | 画集・ウェヌスたちよ

今日二回目の更新です。

5月に発表した、「北風と太陽と猫」の「解説」につけたイラストが、あまり気にいらなかったので、切り絵に変えて、差し替えました。よろしければ、ごらんください。

冒頭の切り絵は、「天使はあばら家を建てる」のシリーズの中で一番気に行っていたイラストをもう一度、切り絵にして描きなおしてみたものです。あのシリーズは、けっこう見えない邪魔が入りましてね、すごく苦労したんです。だから、全体的に硬い感じがするでしょう。

切り絵版「愛の天使」は、かわいらしく、やさしく描けました。

はたして、「愛の天使」は、なぜ、目を閉じて笑いながら、天を指さしているのでしょうか。

天国には、門も鍵もない。行こうと思えばすぐ行けるところにあります。というより、もうみんな天国にいる。それに気づいていないだけだ。

簡単な切り絵だけど、なんとなく、いいですね。自分で言ってはなんだけど。




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星の言葉・3

2012-07-16 07:25:00 | 詩集・貝の琴

何やら外から
きれいな音が聞こえるので
窓を開けてみると
そこに 星がいくつか並んでいて
鈴のように震えて音楽を奏でているのだ

それは ハンドベルの音を
薄絹のようにやわらかくしたような
それは澄んだきれいな歌なのだ
わたしはしばし耳を傾けていたのだが
その音を聞いていると
胸がどんどん楽しくなってきて
微笑みが花のようにほわほわと咲いて
うれしくてたまらなくなるのだ

あんまり幸福なので
ついうっとりとため息をついてしまうと
星は合奏をやめて
静かにわたしに言うのだ

このたびもどうか伝えてください
この世界で 一番の幸せは
正しくあることだということを

わかりました 伝えますと言うと
星はまたうれしげに空に帰ってゆく
だからこうしてわたしは
詩に 星の言葉を書いているのだが

ああ たしかに
本当に幸せなのは
自分が正しいことをしていることだなあと
深く思いを同じくするのだった



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2012-07-15 08:17:39 | 月の世の物語・余編

青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。どこまで歩いていても、空と月と砂漠のゆるやかな起伏以外のものは、見えません。わたしは、なぜかしら、いつのころからか、ここにいるのです。ああ、いやな風が吹く。生ぬるい風が、汚い砂を運んで私の目を汚します。わたしは目の痛さに涙を流し、しばし、子どものように声をあげて泣きます。でもその感情はすぐに、水が砂に吸われていくように、消えていきます。だってこんなのは、所詮、お芝居だからです。わたしはお芝居が上手でした。女優なんぞじゃありませんでしたよ。ただ、周囲の人をだます芝居が、とてもうまかったのです。
砂で目を痛めて泣くなんてことも、本当はお芝居。あまり痛くはありませんの。けれど、大仰に、痛い、痛いといって泣きわめいて、周りの人間を困らせるのが、わたしの趣味のようなものでしたから。誰も見ていないと言うのに、ついお芝居をやってしまいます。

風のない静かなときは、砂漠の砂は、まるで星空の星を全て砕いて作ったように、きらめいて美しく、手で砂を一すくいとって、よく見てみると、砂は本当に、小さな小さな一粒一粒が、星のように小さく光り、何かを言いたげに、かすかに震えているのでした。でもわたしは、誰の話を聞くのもいやでしたから、人間も含めて、誰もかれもが、いやでたまりませんでしたから、砂の声が聞こえる前に、それを捨てます。

そうですねえ。お聞きになりたいのなら、わたしの名を、教えてもかまいませんわ。あまり好きな名ではないのですけど。わたしの名は今、「いては嫌な者」と言います。それは、わたしという者がいるのを、皆が嫌がるからです。わたしは、何らかの重い罪を犯して、この砂漠に落ちたのですが、一体何をやったのかは、もう忘れてしまいました。覚えていてもしょうがないことですもの。ただ、わたしはこの、広い砂漠の中でひとり、いつまでもぼんやりとして、歩いたり座ったりするだけで、ほかには何もしようとはしません。確かわたしは重い罪を犯して、償いのためにここで何かをやらねばならないのでしたが、その記憶も薄らいで、一体何だったかしらと、思い出すにも、苦労するようになってしまいました。月日とはむごいもの。わたしはここにいて、一体何をしなければいけなかったのでしょう?

ほ、お知りになりたい?…そうですか。では、少々考えてみます。

…ああ、そうだ。わかりました。わたしは、この広い砂漠の砂粒を、一粒一粒数えて、全て数えた数を、神に報告せねばならないのです。この砂漠の砂粒の数を、全て数えることができ、その数が正しかったら、わたしは自分の罪を許されることになっているのです。

ふ、なんて馬鹿なことでしょう。こんな広い砂漠の砂粒など、数えられるわけがないではありませんか。もうずいぶん昔のことですけど、最初のうちは、小さなコップに砂を入れて、本当にまじめに、砂粒を数えていました。けれども、砂の数を、二百五十個まで数えたとき、もう馬鹿らしくなって、コップの中にためておいた数え終わった砂粒を、みんな砂漠の上にひっくり返し、こうしてひとり、なんにもせずに、ただ砂漠の中をさまよい歩くようになったのです。

…はて、わたしは一体、何をして、こんな砂漠にいるのでしたか?自分の頭に問うてみます。しかし記憶の奥を探れば探るほど、暗い闇が広がるばかりで、わたしは一切、自分のしたことを思い出せないのです。ただわかっているのは、わたしがいると、人間が嫌がる。そういうものに、わたしがなってしまったということだけです。なぜでしょう。なぜ人々は、わたしがいるのを嫌がるのか。そんなにいやなことをしたのでしょうか。もう一度、思い出してみます。ああ、でも頭をひねって考えようとすると、黒い闇が記憶の中の痛いところを、どうしても隠してしまうのです。たぶんわたしは、思い出したくはないのです。

思い出せと言いますか。厳しいことを言われますね。お聞きになりたいのですか?しかたありません。少し思い出すのに、時間をくださいませ。

わたしは考えつつ、砂の上を歩きます。すると、ふと流砂の中に巻き込まれ、足元がずぶりと砂に沈み、わたしは何かに引き込まれるように顎まで砂に埋まってしまいました。悲鳴をあげましたが、誰も助けてくれる人などおりません。わたしを見ているのは、あの月だけ。だれか、だれかわたしをここから、引っ張り出して下さい。…引っ張り出す?おや、気になる言葉だわ。何か思い出せそうな気がする。…ああ、そうです。わたしは人間として生きていたとき、産婆だったことがありました。よく、赤ん坊の親に、生まれてきた子を殺してくれと、頼まれたことがありました。なんて惨いことでしょう。生まれてきた子を事情があって育てることができないからと、殺して捨ててくれと頼まれたのです。もちろん、その礼はたっぷりといただきました。ええ、商売にしていたのです。わたしに頼めば、生まれてくる子を殺してくれると、ずいぶんと遠くから、わたしのところに来た女もいましたわ。なんてことでしょう。ああ、赤ん坊の声が、遠くから聞こえます。わたしは赤ん坊が産声を上げてすぐ、その鼻と口をふさぎ、窒息させて殺していました。それはもう、何人も、何人も。生涯のうちに、何人の赤子を殺したことでしょう。あまりにも惨い。ああ、本当に、惨い…

死んだ赤ん坊はみな、里の近くの山の中に、ぼろ布にくるんで、捨てました。それはもうたくさん、赤子を山の中に捨てました。あの谷は今どうなっているでしょう。誰にも見つかっていなければ、今も赤子の小さな頭蓋が無数の貝殻のようにあの谷の底に転がっていることでしょう。

わたしは目を閉じます。すると小さな夢が見えます。深い谷に捨てられた赤子の死体が土に溶け、そこから青い芽が出てきて、どんどん大きくなり、やがて一輪の赤い百合の花が咲くのです。赤い百合。見るだけで目が焼けてしまいそうな鮮やかに赤い百合の花が、谷のそこらじゅうに咲き乱れている。百合の奥からは、まるで赤いらっぱが音を吐くように、かすかな赤ん坊の泣き声が聞こえる。悲しい。なぜ殺したのか。なぜ殺すことが、できたのか。あまり、にも、むごい…

ああ、思い出しましたわ。わたしは、生まれるたびに、似たようなことをしてきました。たいてい、小さな子どもを殺したり、自分の産んだ子どもを売って金に変えたり、役立たずとののしって奴隷のように働かせた上、病気になると捨てたりしました。

あなたの心の中に憐れみはないのかと、誰かに尋ねられたことがあります。女が、なぜ子どもに、ここまで惨いことができるのかと。その人の顔は、うっすらと覚えています。確か黄色い服を着ていました。その人は何度もわたしに尋ねましたが、わたしは、別に何を答えるではなく、目を伏せて、じっとあらぬ方を見つめていました。いやだったからです。なんでこんなことをしたのかなんて、聞かれるのがいやだったからです。だってわたしは、誰よりもえらいんですから。みいんな、わたしより馬鹿なんですから。何を言ったって、他人にわたしの気持などわかるはずはないのです。

黄色い服を着たその人は、わたしに教えました。わたしが、やらねばならない罪の浄化を。わたしはそれを聞いたとき、愕然としました。わたしは、わたしがこれまで殺してきた子どもと同じように、子どものときに惨く殺されねばならないというのです。自分がやったこと、そのままの形で、何度も何度も殺されねばならないというのです。それを聞くや否や、わたしは、いやだといいました。いやです。いやです、そんなこと、絶対にいや!

なぜですって?どうしてお聞きなさるの?あなただって、こんなときは、わたしと同じことを言うはずだわ。他人が苦しいのや痛いのは別にかまわないけど、自分が同じ目にあって苦しむのは、いやなんです。痛いのや、苦しいのは、絶対にいや。当たり前じゃないの。

どうしてそんな顔でわたしを見ますの?おかしいわ。人間て、みんなそうじゃありませんか。他人は別として、自分が苦しむのは嫌だって、たくさんの人は言いますわ!

黄色い服の人は、わたしがあまりに嫌だ嫌だというのに、呆れてものも言えないという顔をしていました。そしてしばし苦しげに頭を抱えたあと、持っていた書類に何かを書き込み、長い時間がかかるが、そう痛くはない浄化の方法があると、言いました。
それがこの、はてしない砂漠の砂粒の数を、正確に数えると言うことだったのです。

わたしは、それなら、別に痛くないからいいと、思わず言ってしまいました。本当に、お馬鹿さんだわ。こんなに、こんなに広い砂漠だとは思わなかった。

要するにわたしは、永遠に、この砂漠に閉じ込められたのです。「いると嫌な者」と名付けられ。砂粒を数えきるまで、決して帰ってくるなと。お前などいたら嫌だと、誰もがわたしに言う者。それがわたし、「いては嫌な者」。

そうして今、わたしは、砂に埋もれたまま、ただじっと動くことができずにいます。時々砂が口に入って、ざらついた苦い味が舌を痛めます。両腕を動かして、何とか砂から出られないかと試してはみるのですが、砂が重すぎて、体を動かすことができません。どうしたらいいでしょう?ああ、誰か助けて。わたしを、ここから出して。

どこからか、風に乗って、かすかに赤ん坊の泣き声が聞こえます。あれは、わたしの殺した赤ん坊の声でしょうか。…おや、よく見ると、いつの間にか、砂に埋もれているわたしの周りに、小さな白い毬のような、赤子のされこうべが散らばっています。わたしはびっくりして、思わず、ひい、と声をあげました。されこうべは、がらんどうの眼窩を一斉にわたしに向けながら、かすかな声で笛のような歌を悲しげに歌っています。その骨は、それぞれにみな、雪のように清らかに白く、美しい。

「おお、よしよし、おいで、かわいい子…」わたしは猫なで声で、されこうべを呼びます。彼らをなんとか利用して、砂から出してもらえないかと考えたからです。けれども、赤子のされこうべは、わたしの声を聞くやいなや、まるで嘔吐をもよおしたかのようなひどい声をあげて、次々と逃げ去っていくのです。

されこうべは、みな、わたしを見捨てて、あっという間に行ってしまいました。ああ、もう、わたしを助けてくれるものは、誰もいません。わたしは、永遠に、ここに埋もれていなければならないのか…。これではもはや、砂粒を数えることすらできない。どうすればいいのか。

いいえ、もう、考えるのはやめにしましょう。見上げれば青墨色の空に、真珠のような月がかかっています。目の前には、果てしない砂漠が広がっています。

わたしは、「いては嫌な者」。多分、永遠に、この砂に埋もれて、動けないまま、時を食べて行かなければならない。

満足されましたか。わたしの身の上を聞いて。ええ、誰かに言ってもかまいませんわよ。悪いことばかりして、自分のことだけしか考えない人は、こんな目にあうぞと。ふふ、でもわたしだって、言わせてもらうわ。あなたがどんなことをして、どんなうそをついているか、顔を見ればすぐにわかりますもの…。

ああ、誰もいない。わたしはわたしに向かい、女優のように芝居をしている。演じるのもわたし、それを観るのも、わたし。白い月が照りつけて、時々わたしの頭を刺します。少し時が経つと、わたしは風が運んでくる砂にすっかり埋もれてしまいました。闇の中に、どんどん深くとりこまれてゆきます。もう月も見えない。

だれでしたか?わたしは。そして何をしたのでしたか? 脳髄の中から、だんだんと記憶がはぎとられてゆく。暗い砂の中は、暖かく、わたしはまるで胎内に眠っている胎児のようです。なんとなく、わかるような気がします。きっとわたしは、胎児なのです。そしてきっといつか、生まれるのです。

静かな暗闇の時を噛んで食べながら、わたしは温かな砂の中で、眠ります。わたしがいつか、生まれたとき、母はどんなにかうれしい顔をして、わたしを抱いてくれるでしょうか。



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2012-07-14 06:28:28 | 月の世の物語・余編

ある都会の片隅の、小学校の校庭の隅にある、大きな樫の木の枝に、二羽の小さな白い小鳥が並んでとまっていました。太陽は十一時の位置にあり、町を明るく照らしています。

「ああ、首のあたりがむずがゆい。ねえ、いつまでこんなかっこしとかなきゃならないんだい?」右側の小鳥が言うと、左側の小鳥が答えました。
「もうちょっとだよ。君は変身の術、苦手なのかい?」「苦手というわけじゃないけど、獣や鳥に化けるのってあまり好きじゃないんだ。その、体中の毛や羽が、肌にあわないみたいで、かゆいんだよ」
「まあ、慣れるしかないね。これも勉強だと思ってがんばりなよ」左側の小鳥は冷たく言いました。右側の小鳥は、羽をボールのように膨らませ、臍を曲げたように、ひとこと、ぴり、と鳴きました。

「こういう仕事、初めてじゃないけど、なんかいつも、妙な指定があるんだよな。小鳥に化けて待ってろとか、熊に化けて森に隠れてろとか。こっちは何の意味もわからないし、説明もない」「たぶん、ぼくたちにはわからない重要な意味があるんだろう。とにかく、やるべきことはちゃんとやらないとな」「うん、まあ、とにかく待っていよう。…君、そんなにかゆいんだったら、小鳥やめて、トカゲにでも化けるかい?」「いや、いいよ、小鳥に化けてろって役人さんに言われたんだから」と言いつつも、右側の小鳥は、いかにもかゆそうに足で何度も何度も首筋をかきむしっていました。

ふと、空の上の方から、くらん、という音が響きました。とたん、町じゅうの大気が一瞬、寒天のように固まりました。すぐに元に戻ったので、人間は誰も気づきませんでしたが、小鳥たちはそれに気づいて、大慌てで翼を広げ、空に飛び立とうとしました。しかし、右側の小鳥はうまく飛べずに、ころりと地面に転げ落ち、その拍子に変身がとけて、木の根元に茶色の髪の少年が、目を回しながら座っていました。
もう一羽の小鳥は、仕方ないなあ、と言って自分も変身をとき、黒髪の長いひとりの少年となって、茶色の髪の少年のところに降り立ち、その腕を引っ張って、空に飛び立ちました。

「来るぞ、もうすぐ」黒髪の少年が言いました。「ほら見ろ、もう印ができてる、あそこ」黒髪の少年が指差して言うと、茶色の髪の少年は驚いて「うわ、いつの間に!」と声をあげました。少年たちが空の高いところから町を見下ろすと、町のほぼ真ん中にある広場に、日照と月光を組み合わせて紋章化した魔法印が、青みを帯びた金色の線できっかりと描いてあったのです。

少年たちは再び呪文を唱えて、小鳥に姿を変え、ぴりぴりと鳴きながら空を飛んで時を待ちました。空はまるで深い青菫色の海でした。たなびく雲が美しすぎるほど清らかに白く澄みわたり、それは見る人の瞳を深くも清めてしまいそうでした。その青空の中天あたりを見ると、そこに、かすかな虹色の光の輪があって、それが揺れ動いているのがわかりました。二羽の小鳥は息を飲みながら、それを見つめました。虹色の光は空に溶けだすように次第に広がって、ふと風を受けた薄絹のようにゆらめいて、二人がまばたきをしている間に、そこに、美しい若者の姿をした大きな男神さまがいらっしゃったのです。二羽の小鳥はそのお姿を見るや否や、まるまると目を見開き、「う、うわああ!」と声を合わせて悲鳴をあげました。

神は、腰から下は目に見えず、上半身だけが空に柔らかな石英でできた巨大な彫像のように透き通って、雲の向こうから静かに下界を見下ろしていました。その御身は空の半分を隠してしまうかと思うほど大きく、御顔は清らかな女性のように美しく、長い髪を上空の風になびかせながらも、その表情は厳しく凍りついていました。瞳は青い太陽を燃やしているかのようで、その目で見られた者は、自分の胸を矢で射抜かれ、その目の炎に骨まで焼き尽くされるのではないかと思うほどなのでした。

小鳥に化けた少年たちも、神を見るのは初めてではありません。というより、よくあることです。少年たちは、今日、この地で、ある神様が人間のために何か一つの仕事をなさるから、それを確かめて記録しつつ、人間たちの代わりに深く感謝の意を表して来いと命ぜられたのでした。

神はしばし、雲の上から眼下の都市を見下ろされた後、眼光を強め、頭の後ろに熱く白い光を燃やし、白く燃えている左手を眼下の町に向けて、それを拳にして握りしめ、何か、ふう、という声をおあげになったかと思うと、再び手を広げられました。

一瞬の間をおいて、だだーんん、という轟音が響きわたり、空気と地が振動しました。もちろん生きている人間には音は聞こえませんでしたが、どうやら小さな地震が起こったと思ったようで、少しの間人々の間にざわめきが起こりました。小鳥たちはしばし、空の上で目を回しながら、その音の衝撃にくらくらする頭が、おさまって来るのを待ちました。

そうして、ようやくめまいがおさまって、目を開けると、小鳥たちは、都市の真ん中の、さっきの紋章が描かれていた広場の上に、それは美しい白金水晶の、清らかな鋭い牙のようなものが一本、塔のように突き刺さっているのを見ました。その牙は、三日の月のように細長く優雅に曲がり、透き通りながらもほんのりと青く染まっており、その丈はあまりにも高く、てっぺんは町の周りを囲む山岳よりも、三倍も高かったのです。

小鳥たちは、大慌てで変身を解くと、空の上で姿勢を整え、人間たちの代わりに、深く神への感謝の儀礼をしました。神はしばし、厳しくも澄み渡る瞳で眼下の景色を眺めつつ、必死で感謝の祈りをささげるふたりの声を聞くと、おぅ…と声を空に響かせ、静かに目を閉じてうなずき、空の中にゆっくりと姿を消してゆかれました。

神が行ってしまわれると、ふたりはしばし呆然と目を見開いて、じっと黙って空を見あげていましたが、やがて何かあたふたとし始めました。茶色の髪の少年が牙を指差しながら言いました。「こ、これ、何だ、なんか、前にも見たことある…」すると黒髪の少年が震えながら言いました。「そう、ぼくも分かってるんだけど、今頭から言葉が出てこないんだ。と、とにかく、き、記録しなくちゃ」黒髪の少年が、呪文を唱えて、手の中に帳面を出しました。茶色の髪の少年も、帳面を出しました。そして牙の絵を描いたり、牙の表面を観察して気付いたことや、牙の周りの家々や地質の変化や人々の様子など、要点を、詳しく記録していきました。見えない牙の中を、ツバメが一羽、通り過ぎていきましたが、ツバメは牙の中に入るや否や、バランスを崩して、くるりと回り、目を回して落ちそうになったところを、ようやく体勢を取り直して、飛んでいきました。少年たちはそれも記録しました。

「うっわあ…」
あらかた記録が終わると、茶色の髪の少年が、帳面を抱きしめつつ、神が姿を消した空を見上げて、また言いました。黒髪の少年がそれを見て、言いました。「何驚いてるんだよ。あの神様を見るのは、初めてじゃないだろう?」「わかってるよお。でも、あ、あの神様が、どうして地球に、こんなことしに来たの?」茶色の髪の少年の声は震えてひっくりかえっていました。彼は、もっとちがうほかの神様が来ると思っていたのです。それは黒髪の少年も同じでした。彼は、眉を寄せ、真剣な顔になって、少し考えました。

神と一言に言いましても、いろいろな神がいらっしゃいまして、春の花園に吹く風のようにだれにでもお優しい神さまもいらっしゃれば、よからぬことをした者には容赦なく鉄槌を下すお厳しい神様もいらっしゃり、彼らが今日見た神さまは、その中でも、厳しすぎるほどお厳しい神様でいらしたのです。それはそれは、男神様なれどお顔は乙女のようにお美しいのですが、その神のなさることの厳しさと言ったら、とてつもないのでした。愚かな罪びとがふらふら近寄っていこうものなら、どんな目にあわされるかわかったものではないのです。その神のお姿を見て、震えあがらぬ罪びとはおらず、もちろん、少年たちも、その神のなさることを見て、震えあがったことのないものはおらず、その神は、事実上、彼らの知っている限りの神の中で、最も恐ろしい神なのでした。

「ど、どうなるんだ。これ?」少年たちは、都市に刺さった牙の周りを飛びながら、言いました。するとそこに、一すじの涼しい風が流れてきて、ふたりが振り向くと、いつの間にか後ろに一人の役人が立っていました。

「やあ、やっているかい」役人が言うと、少年たちは挨拶をし、それぞれの帳面を出して、役人に見せました。役人は帳面を受け取り、それらをぺらぺらとめくりながらしばし読んでから、ふむ、よし、と言いました。

「さて、もうそろそろだ」と役人は言いつつ、町に刺さった巨大な青い牙を見あげました。そして役人は少年たちに、少し牙から高い所に離れているように言い、役人自らもまた、空高く飛び上がりました。彼らが牙よりも高い位置から牙と町を見下ろしていると、いつしか、牙を中心にして、正方形の形をした大きな陣が光の線で町に描かれているのが見えました。役人は、その陣を帳面に描き写しながら、ほう、と感嘆の声をあげました。
数秒の時間が経ちました。すると、正方形の陣の真ん中に突き刺さった巨大な白金水晶の牙が、上の方から、まるで水のように崩れ出し、音も立てずに滝のように水晶が流れ始めたのです。

水晶の水は、正方形の陣を底面とした目に見えない四角すいの器の中にだんだんとたまってゆき、しばらくすると、牙は消えて、その代わりにそれは大きくてりっぱな、白金水晶のピラミッドができていました。ピラミッドは透き通って、町の上にふわりと浮かんでおり、方向を微調整しているのか、しばしの間、何か不思議な音をたてながら微妙に全身を揺らしておりました。
少年たちは、無言のまま、目を見開いてそれを見ていましたが、やがてやっと我に返ったように、茶色の髪の少年が言いました。「わお。新しいピラミッドができた」

すると黒髪の少年が少々ふぬけたような声で答えました。「うん。神様が人間のために造って下さった」「しかし、なんでよりによって、あの神様がおいでになったんだろう。すばらしい神様だけど、一体何が起こるか分からないぞ。人間はみんな、神様の中ではあの神様が一番こわいんだ」「おい、失礼なことはいうなよ。…でも言われてみれば、そうだ。なぜあの神様が、いらっしゃったのだろう?何か深い理由でもあるんだろうか」

少年たちが小鳥のような早口で会話していると、役人が近付いてきました。役人は少年たちに、しばらくここにいて、ピラミッドと町の様子を細かく調査するようにと言いました。

「ぼくたちがずっとここを管理するんですか?」ひとりの少年が問うと、役人は言いました。「いや、管理の精霊が決まるまでだ。まあ、ひと月くらいの間だ。君たちはここで、その間、この町のあちこちを調べて、気付いたことがあれば帳面に書いておいてくれ。神への感謝の儀礼も毎日忘れないように」
「わかりました」黒髪の少年が礼儀正しく言いました。茶色の髪の少年は、まだ驚きから抜け出せず、目をぱちくりさせて、少し悪寒でもするのか、体を抱いて震えていました。
「じゃあ、後は頼む。これらの帳面は持って帰るから。ひと月後にはまた来るよ」そう言って役人がそこから姿を消そうとしたとき、茶色の髪の少年が、あっと言って、急いで役人に尋ねました。「あの、このピラミッドは、ちゃんと機能するんですか?」すると役人はすぐに答えました。「ああ、もう機能している。これでだいぶ、人類が生きて行くことが、楽になるはずだ。深い毒が痛く清められる。まことに神はすばらしい。本当に大切なことを、何でもないことのようにやって下さる。それに人類が気付いてくれたら、どんなにかいいだろう」役人はピラミッドを見ながら、感嘆の息をつきました。少年たちはしかし、胸からひとつの疑問を拭い去ることができず、言いました。「それは、わかりますけど…なぜ、あの神様が、造って下さったんですか…」「何か、特別なことでもあるんじゃないですか?だってあの神様が何かをなさるときは、いつも人間は大変なことになって…」とひとりの少年が言いかけた時、役人がぽかりぽかりと二人の少年の頭を次々に叩きました。

「失礼なことをいうんじゃない。神のおやりなさったことに、軽々しく口をはさむものではない。それくらいわからない君たちではないだろう」
そう言われるとふたりは、はっとして、うつむき、身をひきしめました。自分の未熟さが恥ずかしくなって、申し訳ありませんと言って頭を下げました。役人は少年たちに、穏やかにも厳しく言いました。「神のなさることはいつも、我々の予想をはるかに超える。というより、神は風のように水のように自在で、人間が思いもしなかった陰の小さな穴から、とんでもない大水のようにあふれ出てくるものだ。人間はいつもこうして神に翻弄される。このピラミッドも、人類に恵みを与えるだろうが、君たちの感じる通り、確かにあの神のお考えが十分にしみ込んでいるだろう。それが何かは、我々のわかることではない。それが起きるまでは。我々にできることははただ、神の導きのもと、我々の仕事をすることだけだ」少年たちはうつむいて、役人の話をじっと聞いていました。

役人が去ったあと、少年たちは神への儀礼を静かに行い、自分たちの過ちを深くお詫びしました。そして再び小鳥に姿を変え、人間には見えない巨大なピラミッドのそばの、小さな家の屋根に止まって、少し休みました。
「…神さまはただ、愛でこれを造ってくれたんだね」「うん。推測することはあまりいいことじゃないけれど、きっとこのピラミッドはいつか、あの神さまの、なんらかの御計画に使われるんだ。きっとそのとき、人間はとても辛い目に会う」「たぶんそうだろう。でも、人間のためには、その方がいいんだよ」「ああ、わかってる。それが、神の愛なんだ」「ああいう神様が、必要なんだよ。人間にも、ぼくたちにも」「うん、ぼくもそう思う。悪いところは、ちゃんと叱ってくれる、正しい人が、必要なんだ…」

「ところで君、首はどう、平気かい?」一羽の小鳥が言うと、もう一羽の小鳥が言いました。「うん、あれ?なんだろう。かゆくないや」「…きっと、怒られて過ちを改めたから、少し魂が進歩したんじゃないかい」「ああ、そうだねえ、そういえば、なんか自分が少し強くなったような気がするよ」片方の小鳥は、胸の羽をふくらませ、ぴい、と鳴きました。

話をしているうちに、夜になりました。暮れて行く空の下で、白金水晶のピラミッドは、幻のように青い光を発し、町の上に夢幻のように浮かびながら、かすかに震えて無数の鈴を揺らすような音をたてています。こうしてピラミッドがあるということは、人間たちには、たいそうよいことなのでした。大昔には、人間たちが造っていたのですが、もう人間たちが大事なことをすっかり忘れてしまったので、時々こうして、神様が、地上に見えないピラミッドを造って下さるのです。小鳥は身を寄せ合いつつ、ぴりぴりと小鳥の声で歌い、今日会った神様に、深く礼をし、感謝し、間違いを改めて学び進むことをもう一度誓いました。

本当に何でも、一生懸命に勉強して、様々な試練に耐えて学び、すべてのことを、正しくやっていきますと、少年たちは目を閉じ、深く頭を下げて、神に誓ったのでした。



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2012-07-10 07:41:55 | 月の世の物語・余編

「わが名はレギオン、大勢なるがゆえに」
誰かが、小さな声でつぶやきました。するとその隣にいた青年が、怒りをこらえながら、震える声で言いました。「ぼくもそれ、なぜか思い出したよ。マルコだね」
そこは、ある深い山の奥の、高い崖の下でした。
青空に日はようやく高く上り始め、どこからかカッコウの鳴く声が聞こえました。六人の若者たちが、その崖の下に打ち捨てられた惨い遺体を囲んで、それぞれに、目を閉じて唇をかみしめたり、しきりに頬を流れる涙を拭ったり、胸に手をあてて氷のように立ちつくしていたりしていました。

「彼は、どうしてる?」「遺体の中でまだ眠っている」「よほど辛かったんだろう」「…二十七歳か」「この世でなすべきことを、ほとんどできないまま、死んでしまった」青年たちは、遺体を囲みながら、体や声をふるわせつつ、口々に言いました。

「どうする?彼を起こそうか?」誰かが言ったことに、誰かが答えました。「いや、その前に準備をしておこう。花を咲かせたり、小鳥を呼んだり、できるだけ、彼の魂が心地よく目覚められるように、やすらいのたねをたくさんつくっておこう」「…うん、それがいい」

青年たちは魔法を行い、遺体をできるだけきれいに整えると、その周りの草むらを清め、シロツメクサの花をたくさん咲かせました。小鳥を呼び、枝々にとまらせて、歌を歌わせました。白い百合の花もいくつか咲かせ、金のメダルのような光るタンポポもあちこちに散らしました。一羽の鳩が、神の使いのようにどこからか飛んできて、少し離れたところに立っている高い木の、てっぺんに近い枝にとまりました。

遺体の主は、三十年ほど前に入胎命令を受け、地球に生まれてきた青年でした。地球上で生きている間、いくつかの仕事をしてくるはずでしたが、それもほとんどなすことができず、若くして、あまりにも惨い死に方をしてしまったのです。彼は、音楽と文学に高い才能を現し、容姿にも恵まれた上に、人柄もよかったので、それを周囲に妬まれ、ある日、友人たちに騙されて、町のはずれの山際にある、元は精神科の病院だったという古いビルに呼び出され、そこの地下にある鉄格子の部屋に閉じ込められ、そのまま、友人たちに見捨てられ、放っておかれたのでした。

彼を地下牢に閉じ込めた友人たちは、何週間か経ってようやく、彼の元を訪れましたが、彼が牢の中に倒れて餓死寸前のまま、まだ死んでいないのを見ると、ひそひそと相談し合い、誰かが持っていたナイフで、彼の胸を刺したのです。

「…いいか、これはみんなでやったことだからな」
地下室の遺体を囲んで、彼の胸にナイフを刺した男が、手についた血を拭きながら、ほかの皆に言うと、皆は黙ってうなずきました。その様子を、青年たちは絶望に凍りながらずっと見ていました。青年たちは、彼を何とか助けようと、彼を地下室に閉じ込めた人たちの心に訴えたり、事態を何とかできそうな人の魂を導いたり、少しでも彼の命をつなぐため、地下室に水が流れてくるようにするなど努力しましたが、結局は、誰も彼を助けようと考える人は出てこず、彼はこうしてあまりにも惨すぎる死に方をしたのでした。

そして男たちは、夜中に車で遺体を運び、この山の中に捨てて行ったのです。彼を地下牢に閉じ込める計画をした男は七人、胸にナイフを刺して殺した男は一人、遺体を運んだのは五人ほどの男でしたが、彼が廃墟のビルの地下の一室に閉じ込められたまま、放っておかれていることを知りながら何も知らないふりをした人たちは、四十人ほどいたでしょうか。彼が行方不明になったと聞いても、別に何も心配しなかった人を数えれば、百人は超えるかもしれません。

「みんなでやった…か」ひとりの青年が、怒りのにじむ声で言いました。青年たちは遺体の周りにあふれんばかりに花を灯しながら口々に言いました。「それは大昔からの、罪びとの決まり文句だ」「みんながやったから、自分のせいじゃないって言うよ!」「いつもこうだ!少しでも自分たちよりいいものを持ってると思うと、人間はみんなでひとりをいじめて、殺す!」

誰かが大きな声で憎悪を吐いたので、一人の青年がそれを清め、静かな声で言いました。「みんな、もうよそう。苦しいけれど、悲哀や憎悪に長い間浸っているのは、よくない」「…ああ、わかってるよ」憎悪を吐いた青年は、声を低くして言いながら、自分の感情を落ち着かせました。しかし涙はとまりませんでした。

やがて迎えの準備は整いました。彼はまだ遺体の中で眠っています。その安らかな顔を見ながら、ふと一人の青年が言いました。
「どこのコメディアンだったかな。こんなのを聞いたことがある。『赤信号、みんなでわたれば…』」「ああ、それはぼくも知ってる」「愚かで間違ったことも、大勢でやれば正しくなるという意味だ」「みごとな名言だね」誰かが鼻をすすりつつ、皮肉を言いました。

遺体の中で、何かがかすかにうごめく気配がしたので、ある青年が、小さな優しい声で清めと慰めの呪文を歌い始めました。それに合わせて、ほかの青年たちも歌い始めました。青年たちは遺体を取り囲み、愛をこめて歌い、眠っている魂の傷を癒し、目覚めを呼びかけました。そして皆が、その歌を六回も繰り返して歌った頃、ようやく、遺体の中から、何かがふらりと出てきて、ゆっくりと半身を起こしました。歌を歌っていた青年たちのひとりが、耐えられなくなり、まだ意識のぼんやりしていた彼の体を、泣きながら抱きしめて、叫びました。「愛してるよ、愛してるよ、どんなにか辛かったろう!」。そこでようやく、はっきりと目を覚ました青年は、「ああ」と声をあげて、ぱっと元の自分の姿に戻り、茫然と周りの皆を見ながら、言いました。

「…ああ、そうかあ。あれはみな、夢だったのか…」彼は蝋のように青ざめた顔で、ほっとしたようにため息をつきました。その胸のあたりには、ナイフの傷を受けたあとが、まだ残っていました。誰かが涙に震える声で言いました。
「夢じゃないよ。だが夢みたいなものだ。君、ぼくの顔を覚えているかい?」
「…え?ああ、覚えている。みんな、覚えている。…そう、そうだ、ぼくは、月の世で、君たちと氷雪の地獄を管理してたんだっけ…」

まわりでシロツメクサやタンポポや百合や小鳥が、しきりに慰めの歌を歌いました。そして一生懸命愛を送りました。本当に、惨いことを経験した魂には、愛がよほどたくさんいるのです。彼の魂が病気にならないように、青年たちも愛を歌いながら、かわるがわる彼を抱きしめてゆきました。

「ありがとう、みんな、来てくれたんだね」目を覚ましたばかりの青年は、力弱く笑いながらも、みんなの愛を喜び、深くお礼を言いました。「ああ、シロツメクサだ。ぼくの好きな花だ。知っている。シロツメクサは、誰にも何も言わずに、とてもよいことをするんだ。ぼくは、そんな風に、みんなのために、いいことをやっていたつもりだったんだけどなあ…」青年は、まだぼんやりした顔で、周りの花園を見まわしながら言いました。ほかの青年たちはただ、じっと黙って、どうにもならぬ苦い感情をかみしめながら、彼を見つめていました。

「さあ、もうそろそろ帰ろう。帰ったら、ぼくが代わりにお役所に届けを出しておくから、君は少し休むといい」「…ああ、そうしてくれると、うれしいよ」「疲れてるだろう。自分で飛べるかい?」「…うん、ああ、いや、ちょっと無理みたいだ。腰から下に力が入らない」「じゃあ、ぼくたちで抱えて行こう」

青年たちは森と神に感謝の儀礼をすると、死んで間もない青年を、ふたりの青年が両脇から抱え、鳥の群れのように、ふわりと宙に浮かび上がりました。ただ、この事件の後始末をするために、ひとりだけが遺体のそばに残りました。

「…あの遺体はどうなる?」抱えられた青年が問うと、すぐ後ろを飛んでいた青年が答えました。「…ああ、きっとほどなく、警察が見つけるよ。残った彼が何とかするから」
「集団殺人か…。君は、友達みんなに裏切られて殺されたんだ。この罪は、高くつく」
「…ああ、でも、もういいよ。わかってる。人間はみな、自分が苦しいんだ。ぼくも、もう辛かったことは忘れたい。帰って、少し安らいだら、学堂で笛の講義でも受けたいな…」下界を見下ろしながら、青年は小さな涙を落とし、少しさみしそうに言いました。

青年たちが、青空の向こうに消えて行くと、それと同時に、花園は消え、小鳥たちも飛び去って行きました。残っていた青年も、しばし遺体を見つめ、決意に目を鋭くした後、自分の役割を果たすために、そこから姿を消しました。一羽の鳩が、彼らの様子を、ずっと木の上から見つめていました。

皆がいなくなって、しばらくすると、木の枝に止まっていた鳩は、翼を広げ、遺体のそばまでふわりと降りてきました。そして遺体の周りを少し歩き回ったあと、それは突然強い光を放ち、そこに、白い服を着て、朱色の燃えるような翼をした、ひとりの天使が現れました。天使は、鳩がとまっていた木よりも背が高く、透き通った水色の髪をなびかせ、アベンチュリンのように清らかな緑の目には、白く強い星が静かにも激しく燃えていました。天使は、ほう、と息を吐くような声で何かを言うと、ゆっくりと遺体のそばにひざをつき、目を細め、唇に慈愛を現し、翼を優雅に広げて魔法を行い、遺体の中に残った悲哀を深く清めました。

若者の遺体は、青ざめてはいますが、白い顔に、やさしい微笑みを浮かべていました。天使は、その残った脳髄の中に、生前の彼の最後の思考が、かすかな信号の跡になって残っているのに気付き、そっとそれを読み取りました。それは、悲しみに満ちた声で、こう言っていたのです。

「ああ、みんな、ただ、愛していただけだったのに…」



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