(英会話教室のチラシの原案。Lancers のHPより引用。)
私は英語が読めるのに話せない世代です。小学校で英語が必須になることについて、識者には反対が多いです。日本語がちゃんと身についてからにせよというわけですね。海外で活躍している人は、英語が必要な日本人は1割だけだと言っています。(9割の人は英語を勉強しても一生縁がないといいます。)
小学生は会話はうまくなるでしょう。でも、中学に入って読み書きが始まると、とたんに困難を感じる子どもが続出すると思います。
私の周辺にいる外国人の多くが「隣りのネコが子を産んだ」程度の内容しか話しません。とにかく無内容なのです。でも、私が英語でどう言ったらよいのか悩んでしまうようなことを、ふつうに言えます。例えば、以下です。
「入れ歯をはめる」
「テレビに出る」
「お年寄りとのふれあい」
これらの日常語を即座に言えないのが、私には残念でなりません。
※今日、気にとまった短歌
味も香も知らず空想広げしは西田佐知子のコーヒールンバ (岡崎市)兼松正直
43歳の時に、仕事でアメリカのシアトルに2カ月滞在しました。話せないし聞き取れないのではじめは困りましたが、毎日英語漬けになっていたら、日常に必要な表現(学校では習わなかった)はすぐに覚え、ネイティブの発音になれると概ね聞き取れるようになりました。
日本に帰る頃になって、世話になったアメリカ人に、「あなたは英語がうまいけど、どうやって会話を習ったのか」と聞かれ、ビックリ。英語は中学から大学まで8年間学校で習ったけど会話は習わなかったと言うと、向こうがビックリ。あなたの英語は丁寧な話し方で難しい単語も知っているし文法も正確だ、とほめられました。
私たちが中学高校で受けた英語の授業、つまり、文法・和訳・英作文は、決して無駄ではなかったどころか、ちゃんとした英語だったんですね。よく、学校で習った文法でしゃべると古語に聞こえるなどという人がいるけど、と聞くと、そんなことはない、教養ある英語に聞こえるから問題ないといわれました。
残念ながら、自転車と違って英会話は使っていないとすっかり忘れてしまい、依然として聞いたりしゃべったりするのは苦手ですが、その時の体験は、必要になれば堂々と対応できるという自信になりました。母校の英語の先生方に感謝しなければなりません。
中高で習った英語でしゃべると教養があるように聞こえるのですかぁ。池上さんやランプさんや首なし猫さんに感謝しなくてはなりませんね。少々自信がもてました。以前、次のように彼らの悪口を言っていたのでした。
http://blog.goo.ne.jp/nakazato-hitoshi/e/9859616652e289427eae685babb15ba0
(Motoyama さんのコメントつきです。)
確かに身の回りの外国人はボキャブラリーが貧困です。get on, get off, get up ...で済ませてしまうので、文脈から推し量るしかありません。
もっとも僕は海外に続けて2か月いたことがありません。今後もないでしょう。大学を卒業したころはドイツ留学を考えていたのですが、果たせませんでした。
一応国の政策としては_今後_外国人観光客を日本にいっぱい呼んできたいということになっているので、_現在_海外で活躍している人の意見は多分限定的にしか参考にならないように思いますがいかがでしょう。
「とにかく無内容なのです。」
コンビニやファーストフードの店員レベルの英会話ができればいい、というのも一つの考え方なのでは?
マクドナルドの店員程度の会話ができればよいと私も思いますが、いろんな場合、すなわち就活市場、結婚市場、趣味人市場、(もしそういうのがあれば)友人市場などで必要とされる会話レベルは違ってくるでしょう。
でもこれ以上言うと、差別的な物言いになる恐れがあるので控えておきます。(^^;
ファストフードの店員レベルの話はひとまず置いておいて、(先生があえて言わなかったであろう)より「知的に高等」なレベルの話を申し上げます。
「(旧来の)中学高校の英語がほんもの」
何が「本物」の英語なんでしょうか。
私はアメリカの英語学校で大学入学者レベルの教育を受けたことがありますが、とにかく文章を書かせ、プレゼンテーション、ディスカッションをさせる、というのが複数の学校で共通に行われたことでした。
アメリカの英語教育が「本物」の英語教育なら、文法第一、英文和訳が第二、和文英訳が第三という日本の英語教育はニセモノだということになりませんか?
私自身は本当にそう思っています。
「あなたの英語は丁寧な話し方で難しい単語も知っているし文法も正確だ、とほめられました。」
自分も全く同じ経験はしていますが、学校正課の成績はさっぱりでした。いかに形が綺麗でもスピードと量と議論自体の質を伴わなければ「知的に高等」な世界では通用しません。何か優先順位が違っているように思われます。
極端な例かもしれませんがアメリカの学校(英語学校ではない)のディスカッションで点を稼ぐのに三単現のsがどうしたこうしたも発音の訛りも関係ありません。
日本の英語教育は発信の「訓練」を極端に軽視しています(発話も文章もスポーツと同じで数をこなさないと身につかない、という意味です)。
減点法の日本教育が英語で発信することへの興味を失わせているという気もしますが確証はありません。
英語に関する私のスタンスは、よくある「6年間以上も習ったのに何故話せないんだろう(くやしい!)」という素朴なもので、じっさいアメリカのファーストフードの店員程度にも話せません。
そこで、基礎(三単現のSなどの文法)からか、まず実践からかという議論になるかと思うのですが、たぶん英語教育界ではつっこんだ議論が行われていると思います。私が意見を述べるのは屋上屋を架すことと考えられるので、英語とは関係がない図画教育について私見を述べます。
http://blog.goo.ne.jp/nakazato-hitoshi/s/%BF%DE%B2%E8
「好きなように描きなさい」「思ったように描きなさい」という教育法は少数の天才的な子ども以外には通用しないと思います。「個性を大事に」と薦めるのは基礎的なこと(型)が十分できてからにしてほしいと思っています。
先生の以前のエントリも拝読しました。
おかげさまで思い出したことがあります。
前のコメントではすっかり忘れていました(情けないことです)が、アメリカの英語学校で驚いたことの一つは複数の学校で「小論文の書き方はかくあるべし」という「型」(それも複数の学校で同じだった)をまず最初に教えられたことでした。
で、タイトルの通り「自由の国アメリカの作文教育はこんなに型にはまっているんだ」との衝撃を受けたのでした。
型、といっても
●問題提起
●結論の提示
●各論1
●各論2
●各論3
●結論の再度提示
というぐあいに書け、という程度ではありますが。当然各論は独自のことを書かねばなりません。
もちろん文章はたくさん書かねばなりませんが、当然このような「型」に沿った上で数をこなしてゆく、ということです。
日本では中高は言わずもがな大学ですら「教育のある人間の書く英語の論説文とはこういう『型』に則らねばならないのだ」という教育を受けたことは一度もありません。これこそがあえて日本の英語教育は「ニセモノ」であるという理由の一つであります。
言葉足らずで申し訳ありませんでしたが、「発話も文章もスポーツと同じで」と書いたのは基本技術練習の反復が大事、という含意であり「型」はいらない、という意味で言ったわけではありません。ただ「型」で意味するところが違っているようには感じますが。
日本の英語教育の「型」は微視的、アメリカの教育の「型」は巨視的というとおおげさでしょうか。
さて私は上で「教育のある人間の書く英語の論説文とはこういう『型』に則らねばならないのだ」云々という話をしました。
ですが私は「教育のある人間の書く日本語の論説文とはこういう『型』に則らねばならないのだ」という教育さえ日本の学校で受けた覚えがないのです。これはどういうことでしょう(笑)。
話は「型」からちょっとズレるのですが、小学校などの宿題の「読書感想文」がイヤでした。感想とは「面白い」か「つまらない」かであって、それだけで終わりにしてほしかったです。
テレビで幼児にインタビューする人が「どうっだった?」と聞きます。幼児は「面白かった」と答えます。その次にインタビュアーは必ず「どういうところが?」と訊ねます。幼児はぐっと詰まります。
「どういうところが面白かった」と言えるのはずっと大きくなってからです。幼児へのインタビューがワンパターンで、不適切なことにいつも腹を立てています。(^^;
読書感想文が嫌で読書そのものも嫌になったという話はときどき聞きます。
で、先生には誠に申し訳ないのですが、「読書感想文にも『型』がある」という話です。
たしかそういうタイトルの本もあったかと思いますが、ネットで「読書感想文 型」と検索しますと、
1. 読書感想文にはある程度共通のメソッド≒型がある。それをわきまえれば楽に感想文を「生産」できる。
2. でも学校の先生はそれを教えてくれない
というページが数点引っ掛かります。
http://lastline.hatenablog.com/entry/20131104/1383520157
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13111422683
http://school-post.com/hint/dokusyokansobun_140815.html
http://ameblo.jp/shichinin/entry-11250238112.html
「今の大人は手紙が苦手、手紙の『型』を知らぬからだ」とおっしゃる先生には腑に落ちるところでは?
「型を知らなければ破れない」に同感です。
小学生のころはイヤだった感想文も、現在では苦になりません。
むろん今では感想文ではなく書評や論文内での引用ですが・・。
つむじ曲がりの私としては、みんなが感動しそうなそころには感動せず、ぜんぜん別の部分に良さを見出したりして、書評と言えど私の個性が出るように心がけています。(^^)
http://blog.goo.ne.jp/nakazato-hitoshi/e/bae552fc17b4280a125a34265c64d201