(「虚礼廃止」のポスター。西都市のHPより引用。)
年賀状を誰に出して誰に出さないかは、どうでもよいようでいて、どうでもよいことではありません。故山本夏彦翁のエッセイに「上役はたくさん来る年賀状の山から、誰から来ていないかをたちどころに察知する」とあります。別におべっかのために年賀状を出すわけではありませんが、山本翁の言っていることもまた真実でしょう。
年賀状を出さない方針の人がいます。亡父がそうでした。その人なりの美学なのでしょうが、私が妻と結婚後、妻の親から年賀状が来るので、亡父は妻の親だけには年賀状を出すようになりました。出さないのが亡父の美学なら、妻の親にも出すべきではないと当時思いました。
むかしは議員から年賀状が来ました。それが「虚礼廃止」の掛け声のもと来なくなりました。思うに「礼」の中で「虚礼」でないものがどれほどあるでしょうか?対人関係が「虚」だからこそ「礼」は必要なのではないでしょうか?議員から「虚」ではなく「実弾」が贈られてきたらそれこそ大問題です。
私は年賀状はなるべく出すべきだと考えています。出さない主義だとか、「虚」だとか「実」だとかうるさいのです。年に一回50円程度の音信に、あまり主義主張を込めたくはないのです。
※今日、気にとまった短歌
雨戸には父の修理の跡のあり真似て釘打つ台風の前 (名古屋市)吉成益人