私が小学生のとき日劇ウエスタンカーニバルが流行ったから、私はリアルタイムで同カーニバルを知っている。私にはセックスアピールという発想がまだなく、なぜこんなに騒ぐのだろうか?と不思議だった。舞台に熱狂する女たちもまた平尾昌晃ら歌手たちもバカに見えた。(女たちは「わんさガール」と呼ばれていた)。
高校生の時から私はモダンジャズに魅了され(スイングジャズやニューオーリンズジャズとは別でバップと呼ばれた)バンドを組んで、それは大学から中年になるまで続いた。大学生のころはフォークソングが流行った。吉田拓郎や岡林信康だ。外国人ならジョーンバエズとかPPM(ピーターポール&マリー)。
とうじ私は「フォークソングは音楽ではなく、(語りの内容が重視される)浪曲や平家琵琶みたいなものだ」と感じていた。当然、美空ひばりや島倉千代子なぞ従来の歌謡曲も聴くことはなかった。
そんなときに出てきたのが小柳ルミ子の「私の城下町」だった。「なんじゃ、これは!けっこういいじゃないか!」と私は当時としては新鮮なメロディーラインに驚いた。「瀬戸の花嫁」、「漁火恋歌」も素人でも歌えるメロディーながら素人では作れないと感じた。
「この曲の作曲者が平尾昌晃?なんであんなチャラ夫が?」と私は苦々しく思ったが、良いものは良いから仕方がない。カラオケが発明され一大ブームとなったのは、そのころである。たいていの歌謡曲は素人でも歌えた。現在のJポップはメロディーラインが難しすぎて素人では歌えない。(ついでに玄人っぽいことを言わせてもらうと、伴奏はJポップより昭和歌謡のほうが凝っていて演奏もむずかしい)。
ついに私も昭和を懐かしむ世代になってしまったのか!嗚呼!
※私の俳句(夏)
膝までのプールやパパに水をかけ
小学校二年生の三学期(二月)に日劇ウェスタンカーニバルが始まった。わが家にテレビが入ったのが、その翌年なので、情報化時代でもなかったので、第一回目の情報は家庭内には入ってこなかった。
小学生の生きる現実世界は、時間的空間的に狭いし、文字言語の習得もまったく不完全なので、それに伴う精神世界も元々非常に狭いものである。
私がウェスタンカーニバルについて知ったのは、高校に入って、ビートルズの二番煎じとしての、グループサウンズ・ブームが起こった時だったと思う。同じ日劇を使ってウェスタンカーニバルという題名そのままに、中身が換骨奪胎されて、初期のロカビリーブームが、グループサウンズブームに衣替えした時期だ。
高校時代は、よくテレビを見ていたから、前身としてのロカビリーブームの情報も私の目と耳に入ってきた。
ただ私は、中学三年以降は、クラシックとジャズ、そしてAM放送で日々伝えられる、欧米のポップスにしか興味がなかったので、耳に入ってきて、認知はしているものの、記憶と記録(日記)にまで及ぶこともなく、リアルタイムの経験はなかったも同然だった。
後添え的知識にすぎないが、50年代の初期ロカビリーブームは、基本的に、欧米のポップス市場で生まれたオリジナルの超劣化コピーにすぎなかった。カバー曲が大半だったので、オリジナルを聞くと、その彼我の落差に唖然とした。楽器の才能、作曲の才能、歌唱力、英語の発音、和訳で歌う時の曲との整合性の悪さ。アレンジも恥ずかしいくらい安っぽかった。中学、高校生の時代とは言え、そういうマイナス部分の感覚的認知にはけっこう長けていた。
あと聴衆が、騒ぎ回る印象が濃く、私の聞き手としての意識の倫理性が邪魔をして、正直のところ閉口した。主流の考えかどうかは分からないが、音楽は静かに座して聞くものでなければならなかった。(続く…かも知れない)
小学校から中学にかけて「ザ・ヒットパレード」というテレビ番組があって、よく見ました。ただ、当時、米進駐軍のFENという英語AM放送があって、そこに出てきた米ヒットポップスの翻訳版を米より半年以上あとに中尾ミエなんかが歌っていました。(美人でもないし歌もうまくない中尾さんがなぜ受けたのでしょうね?)。
ウエスタンカーニバルは私も後から見たのかもしれません。実況中継をやっていたわけではないから。歌手が舞台を這いずり回るのは子ども心に見苦しいと思いましたよ。
あと「わんさガール」というのは、劇場にわんさときて大騒ぎするから付けられた名称だと思います。
シナモンさんのコメントの末尾に「続くかも」とありますが、ぜひ続けてください。