院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

虚子の言う「客観写生」

2012-09-20 07:19:21 | 俳句
 近代俳句の祖、高浜虚子は自らの俳句哲学を「花鳥諷詠」と称して、それを実践した 

 世の中は苦しいこと辛いこと悔しいことに満ちている。そんなことは十分承知している。だから、俳句の世界では花鳥風月などの美しいものしか詠まないようにしよう、という態度である。

 戦中の雑誌の俳句欄には、戦争を賛美したものや兵隊の尽力を詠んだものが、数多く掲載された。しかし、虚子は一貫して「花鳥諷詠」のスタイルを崩さなかった。

 戦後、虚子は「戦争によって俳句はどう変わったか」とインタビューを受けて、「何の影響も受けなかった」と答えた。

 虚子はまた「客観写生」ということを説いた。主観を排し、ありのままを詠むことに力点を置いた。また、何気ない風景の中になんらかの「発見」をせよと薦めた。

 ここからは私論だが、虚子は必ずしも「客観写生」をしていない。

     神慮いま鳩をたたしむ初詣  虚子

 この句は、神が鳩を立たせたという主観である。

     白酒の紐のごとくにつがれけり  虚子

 この句には「紐のごとく」という発見がある。しかし、その発見は決して客観的ではない。言ってみれば「主観写生」である。発見はしばしば主観的である。

 虚子の句は確かに、ほとんど主観をまじえずに感動を誘うものが多い。しかしながら、主観的な句も詠んでいる。「客観写生」という言葉ばかりが独り歩きしているが、虚子の跡を継いだと思われる諸句には、実は「主観写生」とも言うべき句のほうが多いのではあるまいか。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。