えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

遊び心のプログラム<やりこみというリバースエンジニアリング>

2014年02月08日 | コラム
 同じゲームをずっと遊び続けていると、時々少し前の遊び方と変わったことがしたくなる。それが顕著になると、ゲームがどこまでルールを用意しているか、挑むようにゲームのあらゆる要素を調べて遊び方を模索し始める。ルールの限界の中でプレイヤーは遊ぶ。

 だが、やりこみというリバースエンジニアリングはルールの限界の向こう、ゲームの構造に限りなく近づいてゆく行為だ。
 リバースエンジニアリングとは、たとえばマフラーを作る時、完成したマフラーの糸をほどきながらそのマフラーの編まれ方を確かめてから同じマフラーを編むような、完成されたプログラムを解いて構造を洗い出す行為だ。やりこみの思考はリバースエンジニアリングというプログラムの要素にとてもよく似ている。コンピュータゲームの場合、ソースを開く代わりにシステムの挙動からそこに仕組まれた要素を解析し、ゲームを単純な形へほどいてゆくのだ。ゲームの作成者があらかじめ用意している、誰でも遊べる形のものを解いて、徐々に製作者が仕組む、組み込まれた構造を読んでゆく。

 ここにひとつのコンピュータゲームがある。テレビに画像を写し、専門の機械でプログラムされたコードを読み込み、コントローラから受けた刺激を命令として機械へ送り、テレビの画面に結果を映し出す。説明書に則り、与えられた条件を満たせばゲームはクリアとなり終わりを迎える。けれど自分が行ってきた操作がゲームに仕込まれたプログラムのほんの一部だと気づき、もっと知りたい欲求が芽生える時、クリアし終わったゲームに対してプレイヤーはどのような行動を取るだろうか。ある人はそのままゲームを止め、ある人はもっと知ろうとさまざまな命令を出し、観察する。結果を取る。その結果が良きに白悪しきにしろプレイヤーはより深くゲームを知る。プレイヤーの目的は様々にしても、やり込むという行為自体はゲームを知ることに尽きる。

 ただしやり込みの限界はゲームを、あくまでゲームとして遊ぶことに留まる。コードの記載された文書をゲームから何らかの形で取り出して読み、解析する事もやはりリバースエンジニアリングだが、やり込みはゲームを遊ぶ中でその解析を行うことに特色がある。それはコントローラを使って間接的にゲームに触れ、コントローラの動作と画面の連動を注視し、何度も試行錯誤しながら行われてゆく遊びである。ゲームをより楽しむ遊びへ自ら昇華させることへ、やり込みの目的があると言っても良いと思う。
コメント
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