えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

遊び心のプログラム<ロールプレイングとゲーム>

2014年02月22日 | コラム
 予め用意された物語を読むことはロールプレイングなのだろうか。「ロールプレイングゲーム」には二つの種類がある。ひとつは機械を使わず、人々が集まって自分の「役割」=ロールを、ルールに則り演じる=プレイングすることを楽しむもの。遊び手の中にはそのゲームを裁決するゲームマスターという役割があり、ゲームの進行は全て人力で進んでゆく。たとえば剣と魔法の世界を舞台にした「ソード・ワールド」というゲームでは、プレイヤーは予め用意された架空の世界の中の冒険者の一人を演じる。そのシナリオ中の行動に対して冒険者には基本的に制約はなく、ゲームマスターが行動を制限する要素を付加することはあるものの、プレイヤーはルールに則って自分が選んだ役割を自由に演じることができる。

 一方コンピュータゲームの「ロールプレイングゲーム」に目を向けてみると人間同士で遊ぶゲームと大きく異なることは、機械を通して全てを行うことだ。ルールを組み込まれた機械は人間の外部操作を裁決するゲームマスターとなり、プレイヤーの行動の可否を組み込まれたプログラムに則って処理する。では機械のゲームマスターを通じたロールプレイングゲームは人間同士で行っていた行為をより好きなタイミングで遊べるよう利便を改良しただけなのだろうか。

 コンピュータゲームのロールプレイングゲームを大雑把にさらに二分化して考えてみる。「ウィザードリィ」からオンラインゲームまで、先ほど述べた人々がルールブックに集って遊ぶものに似た、目的は決まっているがそれを果たすまでの行動はプレイヤーがルールに則り自分の選んだ役割を自由にプレイすることのできるゲーム。もうひとつは「ドラゴンクエストⅣ」など、プレイヤーが起こすべき行動の起承転結があらかじめ決まっており、プレイヤーの演じる役も定められているゲーム。後者の場合、プレイヤーに委ねられる自由は限定的であることが多いのではないだろうか。ゲームの筋書きは製作者側が意図した筋書きに沿って進められてゆき、プレイヤーの行動や結果はその筋書きに影響を与えない場合、果たしてそれは何をしていることになるのだろうか。小説の登場人物が成長する過程を指先で過ごすこと以外に、何ほどの違いがあるのだろうか。
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