マシュー・ボールのスワンは鳥と人をわけることがばからしくなるあわいにいた。眠る王子の夢枕に現れて両腕をしならせ、ゆったりと翼をはためかせるわずかな合間に、そのスワンは王子の運命のように現れた。2014年、2010年の日本公演の力強いスワンから、白鳥の形をとった「スワン」という別のなにかのように、王子はスワンの夢を見る。
目覚めてからの王子は変わらぬ駄目っぷりで、気持ち誰かに「すがる」姿が強調されているように感じた。たとえば母親である女王の手を、男としてではなく子供のように頬へ当てようとする仕草は言葉を選ばずにいえばオーバーに何度も繰り返され、身振り手振りはわがままを言う子供そのものだ。常に無償の愛を欲して叫び続ける彼と周囲のずれがマシュー・ボーンの『白鳥の湖』の芯のひとつだろう。
打算からでも自分にあからさまな好意を向けてくれたガールフレンドの虜になっても、彼女を母親から否定され、酒におぼれるポーズをしても母親は彼の子供らしい甘えを許さない。母親をあきらめて酒場で探し当てたガールフレンドも近習の執事から金を握らされ、王子を袖にする。失望と諦めにかられて白鳥の湖(看板の「えさをあげないでください」も健在)に入水を決行しようとしたその時、美しいスワンに王子は目を奪われる。この少し前、酒場の看板に描かれた白鳥がCGで飛び立つ様子が投影され、王子はそれを追いかけて右往左往するのだが、個人的には王子が見ている幻をCGで直接示されるよりは、目線から幻の白鳥を追いかけてもよかったのではないか、と思う。これをはじめとして王子の目線をわかりやすくした細工が気持ち増えたように感じた。
かつて観たジョナサン・オリヴィエのスワンが、人間が跳んではいけないような高く力強い跳躍と全身を使って「鳥」で会ったのに対して、新しいスワンはなにものかがわからない。周りに白鳥を従えた白鳥の姿をしたなにものかが、王子の出会ったスワンだった。鳥になってしまう少し手前にとどめるような跳躍と、なめらかな身体のさばきかたで、人でも鳥でもないものでいようとするような、とにかくそうした生き物だった。ごく自然に王子へ少しずつ翼で触れるとき、指先をまっすぐにそろえつつ手の甲から先の腕が常に弧となるような羽ばたきが、人の関節を忘れさせる。スワンの翼に何度も触れて踊る王子は一時の喜びに包まれて、死ぬことをあきらめてしまうのだが、「ストレンジャー」の登場を知っているとその天上の喜びはしごくはかないものである。
たった一夜のスワンとの邂逅はそれからの王子の心の支えとなるはずだった。だから、スワンと瓜二つのストレンジャーが現れたとき、王子はまったくこわれてしまう。
このストレンジャーも、たばこやお酒、腕力で各国の姫君の集う優雅な場を支配する「男」から、妖魔のようにそもそもの正体がわからない悩ましいものへと変わっていた。それはマシュー・ボールという人の味かもしれない。各国の王妃たちと交互に踊りながら、王子が見ていないときに目線を常に彼へと向け、王子がストレンジャーを見ている時は目を合わせず、二人の目が合った後のデュエットはたくましい子供のような王子をあやすようにあしらいながら、最後の最後で王子へ銃を向けるところまで、歌舞伎の女形が荒事を演じるようなアンバランスなつやっぽさを崩さなかった。
母親のまぼろしに現実で責められ、夢ではあのスワンが他の白鳥に奪われ、大切なものを一挙に失う王子とスワンの過程ははっきりと美しい。行き場のなくなった王子を抱えるスワンは、かつてのスワンよりももっと遠くの方へ王子を連れて行ってしまった。そう思わせるほど、スワンという名前の「なにか」が、大きく物語を変えた演出だと思う。
目覚めてからの王子は変わらぬ駄目っぷりで、気持ち誰かに「すがる」姿が強調されているように感じた。たとえば母親である女王の手を、男としてではなく子供のように頬へ当てようとする仕草は言葉を選ばずにいえばオーバーに何度も繰り返され、身振り手振りはわがままを言う子供そのものだ。常に無償の愛を欲して叫び続ける彼と周囲のずれがマシュー・ボーンの『白鳥の湖』の芯のひとつだろう。
打算からでも自分にあからさまな好意を向けてくれたガールフレンドの虜になっても、彼女を母親から否定され、酒におぼれるポーズをしても母親は彼の子供らしい甘えを許さない。母親をあきらめて酒場で探し当てたガールフレンドも近習の執事から金を握らされ、王子を袖にする。失望と諦めにかられて白鳥の湖(看板の「えさをあげないでください」も健在)に入水を決行しようとしたその時、美しいスワンに王子は目を奪われる。この少し前、酒場の看板に描かれた白鳥がCGで飛び立つ様子が投影され、王子はそれを追いかけて右往左往するのだが、個人的には王子が見ている幻をCGで直接示されるよりは、目線から幻の白鳥を追いかけてもよかったのではないか、と思う。これをはじめとして王子の目線をわかりやすくした細工が気持ち増えたように感じた。
かつて観たジョナサン・オリヴィエのスワンが、人間が跳んではいけないような高く力強い跳躍と全身を使って「鳥」で会ったのに対して、新しいスワンはなにものかがわからない。周りに白鳥を従えた白鳥の姿をしたなにものかが、王子の出会ったスワンだった。鳥になってしまう少し手前にとどめるような跳躍と、なめらかな身体のさばきかたで、人でも鳥でもないものでいようとするような、とにかくそうした生き物だった。ごく自然に王子へ少しずつ翼で触れるとき、指先をまっすぐにそろえつつ手の甲から先の腕が常に弧となるような羽ばたきが、人の関節を忘れさせる。スワンの翼に何度も触れて踊る王子は一時の喜びに包まれて、死ぬことをあきらめてしまうのだが、「ストレンジャー」の登場を知っているとその天上の喜びはしごくはかないものである。
たった一夜のスワンとの邂逅はそれからの王子の心の支えとなるはずだった。だから、スワンと瓜二つのストレンジャーが現れたとき、王子はまったくこわれてしまう。
このストレンジャーも、たばこやお酒、腕力で各国の姫君の集う優雅な場を支配する「男」から、妖魔のようにそもそもの正体がわからない悩ましいものへと変わっていた。それはマシュー・ボールという人の味かもしれない。各国の王妃たちと交互に踊りながら、王子が見ていないときに目線を常に彼へと向け、王子がストレンジャーを見ている時は目を合わせず、二人の目が合った後のデュエットはたくましい子供のような王子をあやすようにあしらいながら、最後の最後で王子へ銃を向けるところまで、歌舞伎の女形が荒事を演じるようなアンバランスなつやっぽさを崩さなかった。
母親のまぼろしに現実で責められ、夢ではあのスワンが他の白鳥に奪われ、大切なものを一挙に失う王子とスワンの過程ははっきりと美しい。行き場のなくなった王子を抱えるスワンは、かつてのスワンよりももっと遠くの方へ王子を連れて行ってしまった。そう思わせるほど、スワンという名前の「なにか」が、大きく物語を変えた演出だと思う。