晴天のもとに出歩くと吐く息も白くなり、マスク姿もインフルエンザの季節に入りつつあるおかげか自然な風景として目に溶け込む。こうして世界が見かけからも引きこもりになる以前から季節を問わずにマスクをし続けていた職業が歯医者だ。幸いここのところの検診では虫歯や神経を抜くような大事の手術もなく過ごしているが、定期的に来るたびに町も自分も年を取っている。長年のかかりつけ医の歯医者も下から見上げている首の皮がたるんで手術着の襟に被さっていた。
逆さまの首の開いた口を薄いゴム手袋をはめた指が固定し、鈎針のような器具や柄のついた鏡が差し込まれる。幼い頃はその冷たさと自分の知らない、コントロールできない何かに口の中を探られる捉えどころのない感覚がわからなかった。大人しくしていれば親が珍しく褒めてくれて嬉しいという覚えもあるが、それがじっとしていられるという理由かと問われれば首を傾げる。麻酔をかけられるときの注射針の刺さる痛みや、口腔を伝って頭が理解している歯茎のぶよぶよした食感や、親知らずを抜いて麻酔が取れた後の鈍痛といった痛い思い出もただの感触でしかない。そこまで無感動な理由は、昔よりも耳で歯医者にかかるようになったおかげかもしれない。今日も歯医者は言葉少な目ながらも口の中へ批評を下している。
歯医者が移転してからは虫歯も芥子粒より小さな粒のものばかりでその日に治療され、歯磨きの不備を指摘しつつ歯の間に溜まった歯垢を糸ようじや細いドリルで磨かれるささやかな30分を過ごしている。「前歯だな……」と呟いて歯医者は「鏡」と助手に頼んだ。手鏡を渡されて口の中を見るように指示される。
「前歯。ここね。目立つから」
当然ながら口は開け放したままなので相槌すら打てない。歯医者は鍵爪のような針で上の前歯の側面に固まった橙色の塊を引っ搔いた。「歯ブラシとジェル」と医者が助手を呼ぶと、ピンク色の柄の歯ブラシが鏡の中に登場した。あっという間にブラシの細い毛が歯茎と歯の隙間からCMのように汚れを落とし、同時に爪の間に針を刺したような痛みが走った。
「これね、歯茎が鍛えられていないから」
歯医者は口を固定する手を離すと歯茎から流れる鮮血を指さした。私はようやく返答の機会を与えられる。
「どのくらいの強さで磨けばよいですか」
「お粉を計る秤があるでしょ、台所に」
「はあ」
「あれにこう、歯ブラシを載せて力をかけて、150gくらいが丁度いい力加減」
歯茎を鍛えてくださいね、とまとめ、本日の診療は終わった。会計には先ほど使われたピンクの歯ブラシがそっと添えられていた。
逆さまの首の開いた口を薄いゴム手袋をはめた指が固定し、鈎針のような器具や柄のついた鏡が差し込まれる。幼い頃はその冷たさと自分の知らない、コントロールできない何かに口の中を探られる捉えどころのない感覚がわからなかった。大人しくしていれば親が珍しく褒めてくれて嬉しいという覚えもあるが、それがじっとしていられるという理由かと問われれば首を傾げる。麻酔をかけられるときの注射針の刺さる痛みや、口腔を伝って頭が理解している歯茎のぶよぶよした食感や、親知らずを抜いて麻酔が取れた後の鈍痛といった痛い思い出もただの感触でしかない。そこまで無感動な理由は、昔よりも耳で歯医者にかかるようになったおかげかもしれない。今日も歯医者は言葉少な目ながらも口の中へ批評を下している。
歯医者が移転してからは虫歯も芥子粒より小さな粒のものばかりでその日に治療され、歯磨きの不備を指摘しつつ歯の間に溜まった歯垢を糸ようじや細いドリルで磨かれるささやかな30分を過ごしている。「前歯だな……」と呟いて歯医者は「鏡」と助手に頼んだ。手鏡を渡されて口の中を見るように指示される。
「前歯。ここね。目立つから」
当然ながら口は開け放したままなので相槌すら打てない。歯医者は鍵爪のような針で上の前歯の側面に固まった橙色の塊を引っ搔いた。「歯ブラシとジェル」と医者が助手を呼ぶと、ピンク色の柄の歯ブラシが鏡の中に登場した。あっという間にブラシの細い毛が歯茎と歯の隙間からCMのように汚れを落とし、同時に爪の間に針を刺したような痛みが走った。
「これね、歯茎が鍛えられていないから」
歯医者は口を固定する手を離すと歯茎から流れる鮮血を指さした。私はようやく返答の機会を与えられる。
「どのくらいの強さで磨けばよいですか」
「お粉を計る秤があるでしょ、台所に」
「はあ」
「あれにこう、歯ブラシを載せて力をかけて、150gくらいが丁度いい力加減」
歯茎を鍛えてくださいね、とまとめ、本日の診療は終わった。会計には先ほど使われたピンクの歯ブラシがそっと添えられていた。