えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・元体育の日に寄せて

2015年10月10日 | コラム
 身体を動かすことが嫌いだったわけではない。が、体操着に着かえて体操着を持ち帰る日は嫌いだった。机に向かうか立つか歩くか寝転がるかのほかに身体を使い伸ばすことはむしろ好きだった。腿の裏や肺が急に命じられて泡を食いながら脳に従い、弧を描いて次第に角度を増す坂道を足が踏みしめて高台の公園を駆け抜け下りに足を取られずガソリンスタンドを左手に抜き去る。走り続けていられる身体を確かめることが単純に嬉しかった。

 体操着の上下がジャージの上下に変わった後も、網にひっかけないよう白いボールを網の向こうへ弾き飛ばし、網の向こうから誰かが打ち上げたボールを赤いジャージの膝を擦り切れさせながら手を伸ばして高く跳ねあげるボールのやり取りだけを一心に追いかけていた。手足の、ボールの放物線に合わせてそれまで知らなかった使い方を引きずり出される身体が面白かった。だから決められた動きが出来るまで校庭の片隅の鉄棒とにらみ合い、言葉も交わさないクラスメイトが決めた踊りの型――手を激しく振り回したりじたんだを踏んだりと駄々をこねる子供のような――の的確な再現を求められるのは嫌いだった。その数週間と当日だけ急に勢いづく人々からスコアを求め重さのわからない責任を負わされ、作物の出来具合を比べる農家のような目で彼らは今まで一顧だにしなかったクラスメイトの身体を批評しだすのだった。運動会が雨で中止になればと毎年祈っていたくちの一人の願いが届いたことはない。雨が降ったことはある。しかしそれはせいぜい終わりの騎馬戦の始まる頃申し訳に数滴滴ってみせたり、演台の校長先生の挨拶が済み着替えてバス停へ急ぐ帰り道で思い出したかのように降って見せた。

 型に従いながら勝手に身体がその型やルールを汲み取って、あるいは誤解して動きを作ってゆく――バレーボールではコートの外に出たボールまで犬のように追いかけずともよいこと、バスケットボールではボールを持ったまま走ってはいけないこと、等々――あずかり知らない頭以外の部位が慌ただしく支度を整えたころには運動の時間は過ぎている。その繰り返しに憑りつかれるか否か、憑りつかれなかった方の人間は遊びに走り、憑りつかれた人は勝負に走るのだろう。

 身体を動かすことは嫌いではない。が、身体を動かす勝負や試験や目標のある何かのための動きは好かない。だから時折、週のどこかで必ず身体を強制的に動かす時間が定められていた日を思い出して、交差点やアスファルトの歩道を突然蹴って走り出す。

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