みなさま、こんばんは(*^_^*)
連日ノイバラ山荘にお運びいただきまして、
ありがとうございます。
調べ物をしていると、
関係ないところに目がとまります。
結社誌大正8年6月にこんな文章がありました。
「歌壇の過去及将来」 佐佐木信綱
明治大正の歌壇は、百年の後の和歌史家にとつて、
思ふに最も興味の多い題目であらう。・・・
あ、と思ったのは、「百年後」という言葉です。
大正8年は1919年。
今から97年前です。
私は「和歌史家」ではないけれど、
この文章から百年後です。
先生~\(´;ω;‘)/
ここ、ここ、ここにいます~。
まるで、自分に届けられた言葉のように感じました。
先生は100年後のことを自然に
視野にいれていらしたのだなぁ。
100年後のことを考えながら
今のことをするっていいなぁ。
もう自分は生きていない
100年後に向かって歌や研究を続けるのって
ステキだなぁと思いました。
へこたれそうな時は100年後を思い、
100年後の人を信じようと思います。
そして、信綱は将来に何を願ってたのか。
現在の和歌は「精神的の深みが足りない」。
「敬虔な宗教的の感情とか、深遠な思想とか
真実な人生の経験とかを歌って、
・・広く人の心を動かすやうな力強い作風」を
望んでいました。
新しい才能の人を待ち望んでいました。
バチェラー八重子のことが頭をよぎりました。
彼女は信綱の待ち望む人の一人であったのですね。
合評会、とのちに信綱は呼んでいますが、
会での盛んな議論は面白かったけれど、
利玄の歌は確実な強さと圧倒的な輝きをもっています。
会の記録を読み終わってみると、
利玄の歌のために会はあったのだろうかと
思えるほどです。
川田順は彼を、結社や門人という「城」を持たない人、
宮本武蔵のような修道者であると評しています。
利玄は信綱門下ではありましたが、
「城」の中だけで充足することはなかったのです。
連日ノイバラ山荘にお運びいただきまして、
ありがとうございます。
調べ物をしていると、
関係ないところに目がとまります。
結社誌大正8年6月にこんな文章がありました。
「歌壇の過去及将来」 佐佐木信綱
明治大正の歌壇は、百年の後の和歌史家にとつて、
思ふに最も興味の多い題目であらう。・・・
あ、と思ったのは、「百年後」という言葉です。
大正8年は1919年。
今から97年前です。
私は「和歌史家」ではないけれど、
この文章から百年後です。
先生~\(´;ω;‘)/
ここ、ここ、ここにいます~。
まるで、自分に届けられた言葉のように感じました。
先生は100年後のことを自然に
視野にいれていらしたのだなぁ。
100年後のことを考えながら
今のことをするっていいなぁ。
もう自分は生きていない
100年後に向かって歌や研究を続けるのって
ステキだなぁと思いました。
へこたれそうな時は100年後を思い、
100年後の人を信じようと思います。
そして、信綱は将来に何を願ってたのか。
現在の和歌は「精神的の深みが足りない」。
「敬虔な宗教的の感情とか、深遠な思想とか
真実な人生の経験とかを歌って、
・・広く人の心を動かすやうな力強い作風」を
望んでいました。
新しい才能の人を待ち望んでいました。
バチェラー八重子のことが頭をよぎりました。
彼女は信綱の待ち望む人の一人であったのですね。
合評会、とのちに信綱は呼んでいますが、
会での盛んな議論は面白かったけれど、
利玄の歌は確実な強さと圧倒的な輝きをもっています。
会の記録を読み終わってみると、
利玄の歌のために会はあったのだろうかと
思えるほどです。
川田順は彼を、結社や門人という「城」を持たない人、
宮本武蔵のような修道者であると評しています。
利玄は信綱門下ではありましたが、
「城」の中だけで充足することはなかったのです。