ノイバラ山荘

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百年後のあなたへ

2016-04-07 20:04:22 | 短歌
みなさま、こんばんは(*^_^*)

連日ノイバラ山荘にお運びいただきまして、
ありがとうございます。


調べ物をしていると、
関係ないところに目がとまります。

結社誌大正8年6月にこんな文章がありました。


    「歌壇の過去及将来」 佐佐木信綱

  明治大正の歌壇は、百年の後の和歌史家にとつて、
 思ふに最も興味の多い題目であらう。・・・


あ、と思ったのは、「百年後」という言葉です。
大正8年は1919年。
今から97年前です。

私は「和歌史家」ではないけれど、
この文章から百年後です。

先生~\(´;ω;‘)/

ここ、ここ、ここにいます~。

まるで、自分に届けられた言葉のように感じました。

先生は100年後のことを自然に
視野にいれていらしたのだなぁ。

100年後のことを考えながら
今のことをするっていいなぁ。

もう自分は生きていない
100年後に向かって歌や研究を続けるのって
ステキだなぁと思いました。

へこたれそうな時は100年後を思い、
100年後の人を信じようと思います。

そして、信綱は将来に何を願ってたのか。

現在の和歌は「精神的の深みが足りない」。
「敬虔な宗教的の感情とか、深遠な思想とか
真実な人生の経験とかを歌って、
・・広く人の心を動かすやうな力強い作風」を
望んでいました。
新しい才能の人を待ち望んでいました。

バチェラー八重子のことが頭をよぎりました。
彼女は信綱の待ち望む人の一人であったのですね。


合評会、とのちに信綱は呼んでいますが、
会での盛んな議論は面白かったけれど、
利玄の歌は確実な強さと圧倒的な輝きをもっています。

会の記録を読み終わってみると、
利玄の歌のために会はあったのだろうかと
思えるほどです。

川田順は彼を、結社や門人という「城」を持たない人、
宮本武蔵のような修道者であると評しています。

利玄は信綱門下ではありましたが、
「城」の中だけで充足することはなかったのです。