ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「キリマンジャロの雪」 A・ヘミングウェイ

2008-09-08 17:00:45 | 
冒険が苦手だ。

夜の繁華街をうろついていた一時期を別にすれば、十代の頃の休日は登山に明け暮れた。元々、野山をほっつき歩くのは好きだが、登山を冒険だと考えたことはほとんどない。

常に下準備を欠かさず、登山計画を練り上げることに力を入れていた。ルートを暗記して、過去の山行記を精読するのは当然だが、エスケープルートの確認や、事故の際の連絡先、搬送先まで調べ上げて登山に望んだ。

やもすると、実際の登山は精細な計画が適切かどうかの確認作業に堕するのではないかと危惧したぐらいだ。でも心配無用。実際の山は、計画通りにはいかないのが当たり前。常に応用力が問われる緊張感があった。

どんなに詳しく想定しても、机上の計画は予定通りには動かない。濡れた山道の滑りやすさは、事前のタイム・スケジュールを無意味なものとしてしまう。疲労からの不注意で体調を崩せば、ハイキング・ルートさえ地獄の特訓に変貌する。

山で遭遇する自然の気まぐれさに惑わされ、「予定は未定」とぼやきながら、ヘロヘロになって下山したことも数多くある。それでも下準備は止めなかった。常に備えることの重要性が痛いほど、身にしみていたからだ。

未知の脅威を可能な限り廃し、予想の想定内でのベストな活動を目指していた私には、未知の世界に挑む冒険という行為は、無謀に思えて仕方なかった。

ただ、傍から見れば私の準備周到な登山も、冒険も大差なかったのだろう。実際、山に入れば事前の知識なんざ、自然の脅威の前に吹き飛ばされたものだった。

では、なんでそんな無駄に思える準備に明け暮れたのか?多分、覚悟の問題だと思う。大自然の強大な力の前では、人間は小さくか弱い存在でしかない。その自然の中で生き抜くには、人間は断固たる意志の力を求められる。その意志を固める作業が、事前の下準備だったと思う。

しかし、どんなに山に夢中になろうと、最後は無事下山することが当然の前提だった。だからこそ、表題の作品を読んだ時は困惑した。

野生の動物は冒険なんかしない。当然にフィクションであることは分る。困惑の原因は共感にある。自然の脅威に際し、生きて戻ることが叶わぬと予感する瞬間がある。恋焦がれた山頂が目の前にあったとしても、そんな時は必ず撤退するのが大原則だ。これは臆病ではない。勇気ある撤退だと思う。

それにもかかわらず、決して戻れぬと分っている道へ足を踏み入れたくなる欲望が湧いて出ることがある。心の底から怯えているのは事実だが、それでも足を踏み出したくなる。行ってはいけない先への憧憬が、心を捉えて放さない。

実際に足を踏み出したことはない。だからこそ、凍りついた豹の姿を思い浮かべると、自らの臆病さを痛感してしまう。勇気ある撤退なんて言葉で、臆病を押し隠しているとの思いが拭いきれない。

もしかしたら、破滅願望があるのだろうか。寒いのが嫌いな私だから、間違っても凍死には憧れませんが、それでも死への誘いに向かっていったキリマンジャロの豹の姿に、無言の敬意を抱くのは避け切れません。
コメント
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