ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「枯木灘」 中上健次

2008-09-16 13:53:59 | 
心の奥底から湧き上がる不気味な衝動を抑えかねて暴れまわっていた。

訳も無く自転車置き場の自転車をなぎ倒し、塾帰りのクラスメイトを無理やり公園に引きずり込み、プロレスの技の練習台をやらせた。一対一の喧嘩もできない根性なしどもが、数人で群れてかかってくるのを、迎え撃ち怪我だらけで帰宅した。でも、親に愚痴った覚えは無い。

あの頃は、いつも喧嘩用に武器を隠し持っていた。小石を握りこんで殴れば、ただの拳よりはるかに痛い。砂を押し込めた靴下をふりまわせば、ブラックジャックの代わりになる。一人で多人数を相手するときは、武器が絶対必要だった。相手が怪我しようが、悪いと思ったことはない。

ただ、止めに入った友達までも傷つけたのは失敗だった。唇に裂傷を負わせてしまった。優しくて気の弱い奴だけど、数少ない私の遊び友達だった。転校生で孤立しがちだった私に最初に声をかけてくれた奴だった。

頭に血の上った状態の私は、彼が飛び込んで止めに入ったのに気がつかず、その顔面を小石で殴ってしまった。はでに出血したため、女の子たちが悲鳴を上げ大騒ぎになり、担任が飛び込んできた。

私が悪いと決め付けたバカ教師は、私を校長室に連れて行き、校長と教頭のまえで、私を施設に送るべきだとまくし立てた。こんな時、私はしおらしく頭を垂れ、気落ちしてみせる演技ぐらいはお手の物だった。

もともと、この担任とは相性が悪かった。真面目な顔して「世界の人たちが手を取り合えば、世界平和はきっと叶う」などと絵空事を長々と陶酔しながら話す、世間知らずだった。米軍基地の隣町で、白人たちの蔑視と薄汚い喧嘩を繰り返してきた私には、とうてい信じることの出来ない甘ったるい妄想だった。

私がこの担任を嫌ったのも事実だが、この担任も私を嫌っていた。子供って奴は残酷なものだ。私が担任に嫌われていることを察した奴らが、いい気になって私に絡んできた。やられたら、やり返すのが当然の世界で育った私が、大人しくやられるわけがない。1対5では勝てなくとも、帰り道で一人の時にタイマンで挑めば負けはしなかった。

おかげで父兄からも苦情が絶えなかったらしい。あの頃、私は家庭以外のすべての世界が敵に思えた。だから、校長室で、校長先生から「なぜ、そんなに喧嘩をするのかね」と尋ねられた時、言いたいことは沢山あった。なぜ、自分の宿題の作文だけゴミ箱に捨てられ書き直しなのか。なぜ、喧嘩を売った側が叱られず、喧嘩を買った自分だけが叱られるのか。なぜ、なぜ、なぜ!

でも、言えなかった。言おうと思ったら、急に心の底から激情が噴出して、声が出なくなった。穏やかに促す校長先生の声に背中を押され、振り絞って発した言葉はただ一言。

担任を睨みつけながら、「先生はズルイ!」と悲鳴にも似た叫びを放つのが精一杯だった。

上手く発音できたかどうか分らないぐらい、心がかき乱され、気がついたら大粒の涙が出て止まらなかった。教頭先生が私の手を引いて、保健室に連れて行ってくれたことは微かに覚えている。校長室を出る直前、校長先生が担任を睨んでいたように思えたが、よく分らなかった。

結局、施設に送られることはなく、また私も校内で暴れることをしなくなった。悪さをするのは、放課後の公園や繁華街だけにしていた。おかげで警察の世話になる羽目に陥ったが、別に悪いと反省した覚えは無い。ただ、自分の激情を抑えきれぬことに、苦々しい悔恨は感じていた。

数週間後、母の転勤に伴い転校することとなり、私は救われた。転校先では、自分でもビックリするくらいイイ子になれた。お決まりの転校生虐めはあったが、くすぐったいものだった。今だから分るが、母の転勤は周囲の大人たちの相談の結果だろうと想像している。

世の中は平等でも、公平でもなく、理不尽で、無雑作に残酷なものだ。個人の真摯な努力ではどうしようもないことって、たしかにあると思う。

表題の作品の主人公も、自らに与えられた理不尽で猥雑で、どうしようもない環境のなかで、ただ心を無にして生きようと努めたが、自分でも理解しえない激情に飲まれてしまう。海と山と濃密な人間関係に閉ざされた枯木灘を舞台にして描かれたこの作品は、十代の頃一度読むのを挫折した作品でもありました。あの複雑な親族図に圧唐ウれ、読むのを放棄してしまったのです。

この年になり、ようやく読みきれました。もし、転校していなければ、主人公の運命は、私にも重なったかもしれません。逃げたと批難されようと、時には逃げ出すのも必要だと考えています。
コメント (2)
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