梅雨の雨がくすぶるなかで輝く花といえば、やはり紫陽花だと思う。
梅雨の雨は、雨粒が小さくて、靄がかかるような景色を作り出す。全てがくすんだ暗い色に染まった中で、街路樹の一角を占める紫陽花の花だけが輝いてみえる。
高校には自転車で通っていたが、さすがに雨降りの時はバスか電車に切り替えていた。どちらかといえばバスのほうが多かったが、その日は道路がかなり渋滞しているようだったので、久しぶりに電車を使った。
まだ高校生活は始まったばかり。何事もない平穏な授業を受けて、寄り道もせずに真直ぐ帰宅するつもりであった。豪徳寺の駅で、当時珍しかった路面電車である、世田谷線に乗り換えた。
席はほぼ埋まっていたが、その中に珍しい顔を見かけた。薄暗い車内のなかで、彼女だけがぼんやりと青白く輝いて見えたので、すぐに分った。
輝いてみえたのは、彼女が身につけていたレインコートが上品な青色であったからだ。その輝きに惹かれるように私は彼女に近づいて声をかけた。
考え事をしていたようで、再度声をかけると、ようやく私に気が付いた。この電車、使うなんて珍しいねと訊ねると、「ええ、ちょっと用事があったから」と寂しげに微笑む。
彼女は中一の時のクラスメイトで、同じ班でもあった。私が問題児であったため、彼女にはけっこう迷惑かけている。班長をやっていた彼女は、私が不始末を仕出かすたびに、一緒に職員室に出向いてもらって頭を下げてもらった。
随分と迷惑なクラスメイトであったと思うが、彼女から厭味を言われたり、怒られた経験はない。それゆえ、私は彼女には頭が上がらない。いや、出来すぎた人なので、むしろ敬して遠ざけていた。
実際、美人の部類に入ると思うが、万事控えめで目立つことを厭う人だったと思う。私は内心、彼女が長身であることを気に病んでいるのではと憶測していた。中一の頃は、クラスでも背の高さでは上位であったと思うが、彼女は身長が話題になるととを嫌がっているように思えたからだ。
さすがに、あれから3年も経つと身長も目立たないが、それでも控えめな印象は変わりなかった。ブレザーであった中学時代と異なり、詰襟の学ランを着ている私をしみじみ見つめながら「ヌマンタ君、普通科の都立に合格したんだよね、凄いねぇ」と微笑んだ。
いや、まったく。落ちこぼれの筆頭だったあの頃を思えばねぇと私も照れ笑い。あん時は迷惑かけっぱなしだったね、ホントすまなかった、と言うと、彼女背筋を伸ばして「そんなことないよ。気にしないで」と強く断言する。
当時、まったく勉強をしなかった私は、いつも同じ班の彼女たちのノートを写させてもらい、かろうじて補習をクリアしていた。「いや、分っているんだ。俺がお荷物だったことは」と言うと、真面目な顔で反論された。
「違うの。あれだけ本を読んでいたヌマンタ君は、やれば勉強できる子だって分ってた。でも、やる気にさせて上げられなかったのは私たちなの。もっと早くに勉強をはじめていれば、もっといい高校にもいけたはずよ、あなたは」
びっくりした。そんな風に思われているとは知らなかった。てっきり迷惑かけっぱなしの私を敬遠しているのだと思っていた。その時、丁度終点である三軒茶屋の駅に着いた。
「勉強頑張ってね」と言われて別れたが、私はしばし呆然としていた。俺、勉強できる子なのか?
私はそんなに頭は良くない。勉強だって、人と同じことを二倍やれば、人並み以上の成績がとれる程度の脳みそでしかない。地味で、退屈な反復を繰り返すことでしか、人よりいい点は取れない程度の頭だと思っていた。
本当に俺、勉強できるのかな?そう呟きながら家へと歩き出した。長年落ちこぼれをやっていたので、イマイチぴんとこない。だが、そう期待されているのなら、その期待に応える義務はあるかもしれない。
よし、本気で勉強してみよう。高校では一番になってやろう。そう、はっきりと覚悟を決めたのは、あの時の雨の帰り道であった。
雨でくすぶる街中で、紫陽花の花がやわらかく輝くのを見かけると、私は彼女のことを思い出す。たぶん、彼女はあの時のことなんて覚えているまい。
でも、私にとっては忘れ難い会話だった。私が知らなかった私の可能性を指摘してくれた彼女の言葉があったからこそ、私は頑張ることが出来た。彼女の言葉が私の背中を押してくれたからこそ、私は未知なる世界に足を踏み込めた。
今夜もシトシトと梅雨の雨が降る。帰り道には紫陽花の花が、ひっそりと輝いて咲いている。紫陽花をみると、私は彼女を、彼女の言葉を思い出す。
いつか再会することがあったら、しっかりとお礼の言葉を伝えたいなァ。
あのとき、あの人から言われたひと言。行った本人は憶えていない事でも、救われたり、がんばれたり。
人生はだからドラマなんですよね。