goo blog サービス終了のお知らせ 

ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ニセモノ師たち 中島誠之助

2013-08-22 12:13:00 | 

あまりTVを観ない私だが、実はBGM代わりにしていることがままある。

以前はFM放送であったのだが、これはエアチェックを頻繁にしていた十代の頃の名残で、いわば慣習のようなものだった。今でも車を運転中はFMラジオを聴くことが多いが、家では聴かなくなっている。

別に嫌いになったわけではなく、ただ単にエアチェックをしなくなったので自然に家で聴かなくなっただけだ。代わりにTVを聴くようになった。観るようにではなく、聴くようにと表現するのは、実際TVの画面を観ていることが少ないからだ。

TVはもっぱらニュースと天気予報が主で、天気図だけはTV画面で観るようにしているが、後は聴くだけでも支障はない。でも、さすがにスポーツ中継は真面目に観るし、良く出来たドキュメンタリー番組ならしっかりと観る。

また仕事柄経済に関する番組には一応、チェックするようにしている。そうなるとTV東京の番組が増えてくる。このTV局は日経新聞がバックにいるせいか、いささか偏りがあることもあるが、地道に取材している番組も多く、特に23時からの番組は前半だけは聴くようにしている。

なんで聴くかというと、大概なにか他の家事をしているからだ。ワイシャツにアイロンをかけていたり、流しで洗い物をしていたり、はたまた洗濯していることもある。家事をしながら、TVに耳を傾けて気になったら観る。

私にとってTVとは、その程度のものなのだが、なかには気になってTV画面を注視している時もある。その代表的番組の一つが「開運、なんでも鑑定団」である。美術品や骨とう品の由来などを解説する部分も、分かり易く作られているが、やはり気になるのが鑑定結果が値段で表示される場面である。

洗い物を片手に、その瞬間だけTVを覗いたりしているぐらいだから、私もけっこうミーハーだと思う。

値段表示後、鑑定をした専門家が解説する訳だが、その語りが上手いと思うのが表題の著者だ。誰もが一度は耳にしていると思う、あの科白である。

「いい仕事してますねぇ」

古伊万里では我が国でもトップクラスの目利きだそうだが、私が表題の書を読んで感心したのは嘘のつき方。持ち込まれる古美術品の大半が偽物だそうだが、決して偽物だと断定せず、値付けもせず、当たり障りがなく、言質もとられず、それでいてお客を不快にさせない。

これぞ商人の知恵であり、目利きの世間知でもある。

我が身に顧みて痛いほど良く分かる。税理士である私の下にはいろいろな相談が持ち込まれる。なかでも開業の相談は嬉しい反面、辛いことも少なくない。なぜなら開業する前から失敗が予測できてしまうことがあるからだ。

いや、既に開業してしまっているケースもあり、未来への夢と現実の不安を語る新米経営者に複雑な視線を投じざるを得ないことが、ままある。言いたいことは山ほどある。

閉店のタイミング、梼Yの仕方、その判断基準。全て後ろ向きの助言ばかりだ。だが、今はもうそんな事は云わない。ただ、誠実に相談者の言い分に耳を傾ける。余計な助言はしない。ただ、当面必要と思われる現実的な問題への対処だけをアドバイスするに留める。

本当はもっと言いたいことがある。でも言わない。過去の経験から、夢を語る新米経営者に、暗い助言を聴く耳がないことを知っているからだ。もっとも私の予測が全て当たるわけでもない。実際、危機を乗り越えてお店を続けている逞しい経営者だっている。その苦労を思うと、自然と頭が下がる。

だが、少なからず失敗した経営者もいたことは事実だ。不思議なことに、私が若かりし頃、言わなくてもいい助言をしてしまった方たちとは、それっきりでその後の消息も分からない。

ところが、言いたいことを我慢して、ただ真面目に話を聴くだけに留めた経営者たちとは、そのお店が失敗した後でも付き合いが続くことが少なくない。なかには再起に成功し、新たな人生のステップを踏み出した方もいる。

私が余計なことを言わなかったのは正解だったのだろう。おそらく古美術商を長くやっていた中島氏も、私以上に似たような経験を重ねてきたのだろう。それは贋作ですよと言いたいのを我慢して、「珍しいお品ですね」などと誤魔化してきたが故に彼は信用を築けたのだと思う。

それが本物であろうと、偽物であろうと好きで購入してしまったコレクターには、自分にしか分からぬ喜びがある。それに水をさすことなく、また確実に儲かる贋作ビジネスに染まることを避けることで、古美術の目利きとしての信用を勝ち得たのだろう。

真実は必ずしも人を幸せにしない。嘘をつかれて騙されるのは仕方ないが、自ら嘘をつくことはしない。権威や流行におもねることなく、ただ自らの審美眼のみを信じて商売を続ける。そこに誠実な商人としての矜持がある。

贋作があるからこそ真作が輝くのも事実。白とも黒とも見分けがつかぬ灰色があるからこそ、多彩な芸術が楽しめる。

古美術、骨董の世界は、まことに奥が深いと思いますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本代表サッカー 過渡期の苦しみ

2013-08-20 12:04:00 | スポーツ

多分、苛立たしい想いを抱いた方は少なくなかったのではないかと思う。

先週行われたウルグアイとの日本代表の親善試合は、2―4の惨敗であった。これは若手の登用目的の東アジア大会を除けば、コンフェデ以来の失点続きの流れを見事に引き継ぐものであり、失望を感じるのも当然だと思う。

南ア大会よりもレベルが落ちた、チームの実力は低下したとの非難報道が出るのも必然だ。なにより守備の崩壊といって良いほどの失態である。指揮官であるザッケローニ批判が出るのも致し方ないのだろう。

だが私は、それほど悲観してはいない。

南ア大会でベスト16に入れたのは徹底的に守備を固めたからだ。いわば弱者の最上の戦法で勝ち上がったに過ぎない。この方法は、2002年のギシリャがユーロで準優勝をしたように、今も昔もそれほど強くないチームには最適の戦法である。

しかし、この守り勝ちの戦法はベストではない。負けないためのサッカーであり、美しくも楽しくもない無様なサッカーである。

だからこそ、その上のレベルを目指す。幸いにしてそのためのタレントなら、今の日本代表には十分とは云えないまでも、かなりのレベルで揃っている。本田、香川、岡崎のスリートップの攻撃力は、世界の一流レベルにもある程度通用することは、コンフェデでも今回のウルグアイ戦でも分かっている。

ただ、この攻撃が活きるためには、日本のストロング・ポイントである中盤を攻撃に傾けねばならない。すると必然的に守備が弱くなる。アジア・レベルならば、なんとか通用した守備も、中盤の守備が薄くなるとヨーロッパや南米の強豪には通用しない。

その現実が今、日本サッカーに突きつけられているのだ。徹底的に守るならば今のチームでもベスト16は十分狙える。しかし、パスをつないでゴールを目指す日本らしいサッカーで上を目指すなら、攻撃と守備の双方のレベルアップが求められる。そして、今の日本代表にそれだけの実力はない。

私の考えでは、この問題の解決は長く時間がかかる。喩えとして適切かどうか疑問だが、偏差値で云えば60までなら誰でも適切な教育とやる気があれば到達する。しかし、偏差値70以上となると単なる努力では追いつかない。才能プラス努力の積み重ねが必要となる。

日本は強くなったといっても、偏差値でいえば60台前半だろう。ちょっと選手の質を落とすと、たちまち50台に落ちる。それが今の日本の現実だ。

これは日本だけの問題ではない。かつて世界を席巻したナイジェリアやエチオピアらアフリカ勢もそうだし、ベスト4までいったトルコや韓国も同様に苦労している。むしろ偏差値70以上を常時維持しているブラジルやアルゼンチン、ドイツが例外なのだ。

日本が出来る解決法は、まず国内リーグの更なる強化だ。そして常時、ヨーロッパのチームに選手を売れるくらいに国内の選手の強化を図ること。この方法が時間はかかるが、一番理想的な手段となる。もはや優秀な外国人を日本に帰化させたり、代表監督に一任するだけで解決するレベルではないのだ。

まず第一に今すぐ実行して欲しいことは、助っ人外国人のレベルアップだ。これは急務である。JリーグのチームがACL(アジア・チャンピオンズ・リーグ)で苦労している最大の原因は、助っ人外国人の質の低下だ。

今や中東勢の方が圧涛Iに質の高い助っ人外国人を抱えているのは事実であり、悔しいことにその多くは元Jリーガーなのだ。日本で活躍した助っ人外国人が、中東の金満チームに買い取られている。これでは勝てなくても不思議はない。

実のところ、Jリーグの質は高い。チーム運営やスタジアム、下部チーム、選手寮や福利厚生面などの環境面でも評価は高い。東アジア選手権での優勝をみても分かるように、国内の選手だけでもアジアのトップになれる実力は育っている。

しかし、それ以上の結果を望むなら現状に満足していてはダメだ。よりレベルの高い外国人助っ人選手を招聘して、今以上の実力を育成しなければ日本代表は強くなれない。繰り返しますが、日本サッカーの強化の基本は、まず国内リーグであるJリーグの強化なのです。

ミスを重ねた吉田や、監督であるザッケローニの問題ではない。問題を個人に転嫁して解決することではないのです。長い目でみて、何をすべきかを考える時期に入ったと理解するべきでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

護衛艦いずもに思うこと

2013-08-19 13:26:00 | 社会・政治・一般

やはり空母とはいえないと思う。

今年、海上自衛隊は最新型護衛艦いずもを完成させた。戦後建造された自衛隊所属の艦船では最大であり、排水量1万9千トンは太平洋中の重巡、もしくは軽空母に匹敵するサイズである。

もっとも防衛省は、いずもをヘリ搭載型護衛艦だと言い張っているが、海外(特にシナとコリア)では空母同様だと言い張り、日本が再び帝国主義の道へと踏み出しつつある証拠だと喧しい。

まァ、写真を見てもらえば分かるように、その形状は太平洋戦争当時の空母そのものにみえてしまう。もっとも多少、軍事知識のある人ならカタパルトがない以上、艦載機の離発着は不可能なのは明白。つまり防衛省の発表通りのヘリ空母なのだと思う。

ただし、ハリアーのような垂直離発着機なら運用可能に見えるし、現在開発が遅れに遅れているアメリカのF35―B(垂直離発着機)ならば運用できるように思える。だから事実上、日本は空母を持つつもりだと言う人もいるようだ。

私も詳細は知らないが、おそらくハリアーのような垂直離発着機が一時的に離発着は可能だろうが、空母の艦載機としての運用は無理だと思う。そもそもヘリ空母として設計してあり、いくら垂直離発着が可能でも固定翼機の運用と、ヘリコプターの運用では装備が違い過ぎる。

現代のジェット航空機は整備が命である。当然、その整備のための装備は専用であり、燃料、交換消耗品器具、整備要員もジェット航空機とヘリコプターでは天地ほども違う。もちろん管制システムも別物である。

だから空母を海軍の主力と位置付けるアメリカでさえ、航空機を運用する空母と、ヘリコプターを運用するヘリ空母は使い分ける。より正確に云えばアメリカ軍にはヘリ空母は存在しない。強襲揚陸艦がヘリ空母の役割を担っている。

実のところ、空母という艦船は希少種といっていい。アメリカ軍を除けば、固定翼機の離発着が可能な戦闘能力を要する艦船、すなわち空母は事実上存在しない。イギリスとフランスがF35Bの搭載を予定している空母を建造しているが、肝心のF35の開発が大幅に遅れているため、しかたなくヘリ空母と化しているぐらいだ。

1980年代までは、ヘリ空母はもっぱら対潜作戦で使われることを前提に作られた。しかし今日では揚陸作戦のためにヘリ空母、すなわち揚陸艦として設計されている。これは流行ともいってよく、とりわけシナの海軍はこのヘリコプター搭載型の揚陸艦の建造に熱心だ。

何度も書いているが、日本の自衛隊はアメリカ軍極東部隊の護衛部隊であり、海上自衛隊はアメリカ海軍第七艦隊の護衛部隊であり、もっぱら対潜作戦に特化した軍隊である。

しかし、事情は変わりつつある。輸送艦おおすみ以降、海上自衛隊は実質、強襲揚陸艦に軸足を移しつつある。これは当然、アメリカ軍の意向を受けたものと考えて間違いない。実際、今年の7月にアメリカのサンディエゴ(アメリカ海軍の基地がある)のおいて、ヘリ搭載型護衛艦である「ひゅうが」にアメリカ軍と共同訓練を行っている。

その際、メインとなったのが新型ヘリコプターであるオスプレイを「ひゅうが」で運用する訓練であったとされている。航空機なみの航続距離を持ち、なおかつ垂直離発着が可能なオスプレイを、日本の護衛艦に搭載できれば揚陸作戦の質は相当上がる。

今回、進水した新型護衛艦いずもは、同時に5機のヘリコプターを運用でき、14機搭載できる本格的ヘリ空母である。おそらくその目的は従来の対潜作戦ではなく、揚陸作戦を睨んだものだと私は推測している。

もう気が付いている人もあろうかと思うが、これは対シナ向けの作戦である。すなわち太平洋への進出を目的として堂々掲げているシナ海軍に対抗するための戦略の一環としてのヘリ空母である。

日本政府及び防衛省は断固、認めないと思う。でも対シナ戦略を考えるアメリカ軍にとって、日本海軍を手駒として使うことは既定の路線に過ぎない。

未だ憲法改正はもちろん、集団的自衛権すら明確な合意がない日本だが、この新型護衛艦いづもの完成にみられるように、着々とアメリカ軍の一部隊として日本の軍隊は使われることを前提に動いている。

麻生氏の失言やその後の政府の否定にも関わらず、日本政府は着々と平和憲法を骨抜きにすることを進めているのです。

改めて考えて欲しいですね、憲法改正しますか?それとも憲法なんて無視して戦争(集団的自衛権の行使)しますか? もし、後者を選ぶのなら、法治国家の看板は下ろすべきでしょうね。

まァ、アメリカの属国なんだから仕方ないと諦める手もありますがね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄石公の犬 夢枕獏

2013-08-16 13:39:00 | 

闇が濃い夜の森で、なにかに追われているような感覚に陥ったことがある。

足音は自分だけだし、ライトを周囲に巡らしてもただ濃い森の影が映るだけ。再び歩き出すと、やはり何かが付いてくる気がしてならない。

こんな場合、まず第一にやるべきことは落ち着くことだ。まず足場が安定し、見渡しが良く、落ち着ける場所を探す。そして冷静に身の回りから確かめる。

原因が判明した。サブザックを降ろしてみると、チャックが半開きでそこからビニールロープが垂れ下がっていた。これが地面に擦れて微かな物音を立てていたのだろう。

ちなみにこのビニールロープは幕営地で濡れた衣類を干す時に使っていたやつだ。とても軽いので、引き摺っていることにさえ気が付かなかった。

怪しい気配なんて、せいぜいこの程度のものだ。ただ、怯えた心が怪しい幻想を抱かせただけなのだろう。

私は世に数多溢れる怪談、奇談の類は、このような他愛無い誤解、勘違いから生まれたのだろうと思う。

だが、誰もが、同じ場所で同じような誤解、勘違いをすれば、それは立派な怪奇現象となりうる。人々の想いが幻想に実体を与えることもあるのではないかと思うこともある。つまり共有された幻想は現実に転化する。

一例を挙げれば、菅原道真の祟りなんかはその典型だと思う。今も昔も人々に害をなす病害、天災、不慮の死はなくなることはない。偶々、道真を追いやった藤原一族が相次いで病死、事故死などの不幸に見舞われれば、それは道真の祟りとして共有幻想から現実へと容易に転化する。

言い換えれば、人々の思い込みが道真公の祟りを作り上げた。雷の稲光は道真公の怒りだし、不慮の事故死だって道真公の祟りの証しになる。大切なのは、人々がそのように思い込むことだ。すなわち思い込みは証明されて迫真の事実となる。

おそらく世に云う怪奇現象の多くは、このような人の無意識の思い込みが作り出した共同幻想なのだと思う。すなわち一人の嘘は幻だが、1000人の嘘なら真実となりうる。

だとしてもだ、私が夜の闇のなかで怯えたのは事実だ。正体が分かった時は、思わず脱力し自らの怯懦に赤面するほどであったが、あの怯え自体に嘘はない。正体が分かるまでは、間違いなく私は物の怪を疑っていた。

その怯えは私自身の心が産みだしたもの。その時は私一人であったが、同じ怯えを共有する人たちがいれば、あの森には新たな怪奇譚の舞台となっていたかもしれない。

だからこそ怪談や伝奇は面白い。私が二十代の頃、突如文壇に現れて怪奇譚の語り部として人気を博したのが夢枕獏だ。なかでも陰陽師という平安時代の呪術師を題材に幾つもの作品を書き、TVドラマや映画化させたのでご存知の方も多いと思う。この夢枕獏氏の作品あってこそ、今日の安陪晴明人気があると断言できるぐらいだ。

だが、陰陽師が登場する以前、闇狩り師(祟られ屋)として登場した九十九乱蔵こそが、この手の伝奇ものの先駆者であり、今日の陰陽師ブームの先駆けであった。身長2メートル、体重145キロの巨体で、筋肉質というよりも肉厚の巨体で、仙道と拳法をつかう謎の大男。足、腕、首とすべてがぶっとく、強面ながら妙に愛嬌がある巨人。そして肩に猫又を乗せて怪奇事件に乗り出す現代版陰陽師、それが九十九乱蔵であった。

実に魅力的なキャラクターで、当時長きにわたり病気療養中であった私の無聊を慰めてくれた作品でもある。ところがだ、この夢枕氏、いささか風呂敷を広げ過ぎた。キマイラ・シリーズや飢狼伝、サイコダイバー・シリーズなどの長編を幾つも抱え過ぎ、なかなか続編が出ない困った作家でもある。

ジャンルは違うが田中芳樹と同じで、読者をやきもきさせる問題作家の両横綱でもある。新しい作品を書くのは良いが、まずは現在書いているシリーズを完結させるのが、作家としての責務であろうと憤慨した読者は少なくないはずだ。

この闇狩り師シリーズも長い事、ほったらかしにされていたのだが、久々に単行本が刊行された。もちろん飛び喜んで買い込み、帰りの電車内であっというまに読み切ってしまった。懐かしくもあり、また30年前と同じく面白くもあり、大満足である。

た・だ・し、問題はある。果たして続編は何時書かれるのか?あれから3年以上たったが、未だ刊行されていない。伝奇もので知られた夢枕獏だが、格闘もの、将棋もの、釣りものと新たに手を出した分野は増えるばかり。

腹がたつことに、どれも結構面白いのだ。しかも読むと、続編が読みたくなるものばかり。これじゃ、まるで性質の悪いホステスにひっかかったアホな客と同じではないか。

騙されたほうが悪いと思いつつ、もっと面白く、もっと楽しく騙されるなら本望と思ている自分がいる。これじゃ、鴨がネギ背負って、タレまで抱えているようなものではないか。

多少の自己嫌悪を抱えつつ、早く続編出ろと願っています。哀れな本読みの性だと諦めてもいるのですがね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストリート・キッズ ドン・ウィンズロウ

2013-08-15 12:02:00 | 

奇抜にして爽快。

こんな快作に出会える喜びがあるから読書は止められない。父も知れず、麻薬中毒で街娼の母からは育児を放棄されて路上で育った悪ガキが、その才能を認められて金満クラブの揉め事解決人として育てられる。

ありそうで、あり得ない路上の悪ガキ上がりの名探偵の誕生である。

実はこの路上の悪ガキ上がりの名探偵ニールは、欧米ではかなり人気がありシリーズ化している。なぜか私は三作目を先に買っていた。これはタイトルが良かったからだが、すぐに一作目があることに気が付いた。私は一作目から読みたい派なので、読むのを途中で止めてしまった。

ミステリー好きの知人から極めて評価の高い作品なので、まずは一作目を読んでから、二作目以降を楽しもうと考えた。だから馴染みの古本屋で表題の作品を見つけた時はやったと思い、買い込みすぐにでも読むつもりであった。

それなのに、今年はやれ入院だ、確定申告だ、税務調査だ、相続の相談だとやたらと忙しかった。私はお楽しみは最後にとっておく主義なので、この作品も仕事がひと段落するまで依怙地になって我慢していた。

そして今月に入って、金の余裕はないが時間の余裕が出来たので、ようやく読みだしたのだ。その印象は冒頭に書いたように、奇抜にして爽快。嗚呼、とっても幸せ。

ところが、ここにきて問題が生じた。既に買い込んであり、本箱のどこかに仕舞い込んであるはずの2作目3作目が見つからないのだ。多分、年末の大掃除の際に動かしてしまったらしい。そうなると未読の本の山々のどこかに埋もれているはずだ。

実に苛立たしいではないか。早く二作目が読みたくて仕方がない。まァ、自分のだらしなさが原因だから仕方ない。ニールの育ての親に怒鳴られそうだ。どうも、私は名探偵にはなれないようだ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする