台風が運んできた、南の暖かい雨は、妙に気持ちを不安にさせる。
まだ、30代初めの頃だ。所用があり東京西部の八王子へ足を運んだ。用を済ませた頃には夜9時を過ぎており、疲れが背中にずっしりとした重みと共に感じ取れたので、駅近くの健康ランドで休むことにした。
大きなお風呂で一汗流し、休憩室で仮眠をとり疲れをとる。ここで当時好きだった足裏マッサージを受けたのだが、これが誤算だった。いざ退館時に精算すると、財布の中身が乏しくなったことに気が付いた。
少し不安に思いつつ、駅に着き、いざ切符を買おうとするとお金が足りない。当時はまだ給与も少なかったし、クレジットカードを持ち歩く習慣はなかった。夜遅くであり、もう銀行のカードも使えない。
しかたなく、手持ち金すべて使って行けるところまで切符を買う。丁度三鷹駅までは行けるから、そこからは歩けばイイさと考えて電車に飛び乗った。
いざ、三鷹に着いたのは深夜1時過ぎだった。おそらく一時間半程度歩けば自宅にたどり着けるはず。玉川上水脇の遊歩道を歩けば、道を間違えることはないので、なにも心配することはない。どうせ、明日は日曜日だ。たっぷり眠れるさ。
とはいえ、遊歩道には街路灯はなく、玉川上水脇の木々が生い茂っていて、かなり薄暗い。ただ、その夜は前日の台風が呼び込んだ秋雨前線の雲が空を覆っており、そのせいで真っ暗な闇夜ではなかった。
意外に思うかもしれないが、夜に雲が空に広がっていると、ほんのりと光が拡散して暗闇にはならない。だから街灯がなくても、遊歩道を安心して歩くことが出来た。
私は視力は弱いが、夜目は案外と効くほうだ。おまけに山登りをやっていたので、夜道を歩くのは案外と慣れている。ただ、今夜は秋雨前線のせいで、小雨がぱらついていた。
傘なしでも歩けるが、濡れて身体を冷やすのも良くないので、折り畳みの傘を広げて、のんびりと歩き出す。吉祥寺を過ぎて、何度も散歩した道に入ると気分も楽だ。自然と歩調も軽くなる。
ただ、このあたりから雨脚が激しくなってきた。幸い台風が運んできた温かい雨なので、寒くはないが、分厚い雨雲のせいで、闇夜に近くなる。夜目が効く私でも、少し足元が危うい。
この玉川上水は、今でこそほそぼそと流れる小川だが、かつては水量も多く、また流れも速いため、水死者が後を絶たない危険な川であった。地元の史書によると、60名近くの命を奪ったらしく別名「人食い川」である。
また作家の太宰治が入水自殺したことでも知られている。その現場に足を運んだことがあるが、今では細い水流がさらさらと流れる穏やかな小川でしかない。しかし、都市化が進む前は、武蔵野の原野の水を集める、水量豊富な荒れ川であったようで、だからこそ太宰が自らの命を絶つ川として選んだようだ。
そんなことを思い出しながら、井之頭公園脇を過ぎて、いよいよ鬱蒼とした森に囲まれた遊歩道が見えてきた。さすがに私も足を止めた。街路灯など一切なく、周囲の家々の窓から漏れる明かりもない。本当に真っ暗なのだ。
だが、生暖かい風が雨雲を流し、雲の切れ間から明るい月が見えてきた。月明かりがあれば、足元もなんとか見える。遠回りするより、最短距離を通り抜けたい気持ちを抑えきれず、私はそのまま森に囲まれた遊歩道へと足を運んだ。
既に夜中の2時過ぎだ。こんな時間にこの遊歩道を歩くのは初めてである。木々の合間からの月明かりを頼りに、さっさと歩きだす。あたりは怖いほどに静かで、ただ玉川上水の水音だけが微かに聞こえてくる。
水音?
なんか違う。はっきりとは聞こえないが、誰かが話し合っているように思えた。声こそ聞こえないが、男女が思い詰めたよな口ぶりであった。他人の会話を盗み聞きする趣味はないし、第一早く帰宅して眠りたい。
そう思いつつも不思議に思っていた。声がどこから聞こえるのか、さっぱり分からなかったからだ。方向さえ分からないって、少しヘンだ。でも、多分少し先の休憩所じゃないかと思っていた。ベンチもあるし、昼間はお年寄りの集まる場であり、夕暮れ時は帰宅する高校生カップルが仲睦まじく寄り添う場面を散見したことがある。
玉川上水沿いの森の広場の横を通りかかるが、ベンチには誰もおらず、人影もない。あの訳ありな感じの会話は、なぜか今度は私の後ろあたりから聞こえていた。はて、いつ追い越したのだ?
さすがに薄気味悪く感じて、足を止めて周囲を見渡す。しかし、何も見えず、何も感じない。妙に生暖かい風が、木々の梢を揺らす音だけだ。それなのに、どこかで誰かが話し合っている気がする。
ふと、森の広場を見渡すと、その暗がりに祠が見えた。そういえば、幟の旗が両脇に立てらえた、小さな社があったことを思い出した。以前、難病の療養中、体力をつけるために、この道を毎日散歩していた当時は、ベンチで休憩し、社に病気回復の祈願をしていたものだ。
そういえば、最近はご無沙汰だ。財布には、乗車券券売機では使えない小銭が数円残っていたので、それをお賽銭として社に感謝の祈りを奉げて、遊歩道に戻った。私は決して迷信深いほうではないが、神社やお寺への筋は通すことにしている。そう、おばあちゃんに教わったからだ。
気が付くと、今まで聞こえていた男女の話し声は聞こえなくなっていた。あれは錯覚だったのだろうか。いやいや、きっと社にお祈りしたからだ。そう勝手に理由づけて、再び歩き出した。
ところがだ、今度は誰か、いや、なにかが私の後をつけている気がしてきた。微かだが、草を掻き分ける音というか、なにかの気配を感じるのだ。この感覚は覚えのあるものだ。
私が山登りをやっていた頃、里山などの低山ハイクをしている時、時折この気配を感じることがあった。私の経験だと、ほとんどは野犬だ。縄張り意識の強い野犬は、自分たちのテリトリーに侵入者があると監視を怠らない。
もっとも、古い伝承だと、これを「送り狼」といい物の怪の一種だと伝えている。かつて日本にいたニホンオオカミの習性がモデルになっているのだろうと思うが、オオカミが絶滅して以降は、野犬がこの役を担っていると私は解釈している。
しかし、玉川上水の斜面は急で、犬が歩けるような角度ではない。猫ならともかく、犬ではまず無理だろう。すると何なのだろう。そんなことを考えていたら、人見街道にぶつかり、車が通り過ぎていくのが見えた。
途端に、気配は消えて、静かな遊歩道の雰囲気に戻った。もう安全な場所なのだろうと勝手に解釈して、その後はなにごともなく自宅にたどり着いた。
今にして思えば、あの思わせぶりな男女の囁き声は、きっと広場の暗がりに潜んだカップルの睦言だろう。社にお参りした私に気づいて沈黙しただけだと思う。また私の後を付けてきた気配は、深夜の静けさに怯えた私の幻覚なのだと思う。
ここ最近、東日本を台風が接近して大雨を降らしている。たいがいが、生暖かい南方の大気が雨を運んでくる。そんな夜は、あの日の玉川上水を思い出す。昼間は木漏れ日が楽しい快適な散歩道なのですが、夜遅い時間は別の顔を覗かせるのかもしれません。
少し前だが、サッカー日本代表のアジア予選で、カンボジアに3-Oで辛勝したと報じられていた。
負けたのなら興味をもって観るが、勝ったのならいいやと思い、特段関心を持たなかった。例によって、日本のマスコミ様やら、サッカー評論家様たちが、日本が3点しか取れないことを取り上げて、さかんにご高説をまくし立てていた。
バカじゃないかと思う。たしかにカンボジアはかつての日本(ほんの30年前)のように、サッカー弱小国だ。だからといって、カンボジアの選手たちが必死であったことに変わりなく、弱いなりに必死なのだから、3点でもそれなりの成果である。
それを得点不足だ、監督の指導力不足だと、マスコミ様は非難轟々である。まったく碌な記事がない。そんななか、一つだけ記憶に残った記事があった。カンボジアの代表監督(韓国人)にインタビューしたものあった。
その記事によると、対日本戦にあたり監督が指導したのは、安全なクリアーを徹底することであった。勝つためではなく、負けないために失点しないことを目標に、それを徹底したそうだ。
これでは、日本の攻撃陣が3点しか取れなくても不思議ではない。それだけの覚悟をもって戦う相手に対し、大量得点を期待する日本のマスコミの軽薄さがよく分かる。誰だって負けたくない。そのために、敢えて勝ちを捨てて、守備を徹底する覚悟がカンボジアにはあった。
アジア予選は、決して楽な戦いにはならないことが、このカンボジア戦からも分かると思う。
一方、アフガニスタン戦では、日本は6点取っての圧勝であった。日本のマスコミ様は、手のひら返して絶賛していたが、これもどうかと思う。アフガニスタンは、3つの民族から構成され、しかも国内にタリバンなどの反政府勢力が根強く残り、しかもパキスタンなどからの干渉も多い。
未だに統一国家として安定しているとは言い難く、当然代表チームもまとまりがない。身体能力的には伝統的に頑健で強壮な人たちではあるが、国内の混乱がチームを一つにまとめない。ある意味、6失点は必然ですらある。
次は難敵といっていいシリアである。過去の対戦を振り返っても、楽な試合はなく、いつも辛勝している相手である。ただし、今回は国内事情が悪すぎる。まずベストメンバーを組むのは難しい。それでも、現在グループ内でトップなのだから侮れない。
私は案外と日本代表は苦戦するだろうと予測している。中東のチームは、カウンター攻撃が得意であることが多く、ホームの観客を意識して攻撃に偏り過ぎた日本の間隙をついてのカウンターアタックに活路を見出すだろうと思う。
その時、日本のマスコミはいかなる報道をするかで、その見識が測れると思います。
これだけ馬鹿げていると、しかも、それを大真面目にやられると感心してしまう。
1970年代だと思うが、徐々に街角のゲームセンターにコンピューターゲームが増えてきた。当初は、線と点で表現している宇宙船の攻撃ゲームなど、アメリカからの輸入ものが中心であった。
その当時のゲームセンターといえば、メインはコインゲームであり、競馬やスロットなどが中心であり、通称ゲーセンはあまり真面目とは言えない10代の若者たちがたむろする場であった。はっきり言えば、不良のたまり場であった。当然というか、ブロック崩しなどのコンピューターゲームは、あまり受けが良くなかった。
私の記憶では当時のゲームセンターには、ピンボール、卓球、ダーツ、ビリアードなどが主役であった。ボーリング場にゲームコーナーが併設されていることも多かったように思う。その当時は、まだまだコンピューターゲームは、珍しいだけで、たいして人気はなかったと記憶している。
しかし、日本のメーカーがそこに大きな変革を持ち込んだ。1978年のことだが、玩具メーカーであるタイトーが「スペースインベイダー」というアーケイドゲームを開発し、ゲームセンターに卸した。これが学生や若いサラリーマンに爆発的な人気を得た。通称ゲーセンは、インベイダーゲーム一色に塗りつぶされた。
その後、多くのメイカーが参入し、ギャラクシアンやドンキーコング、パックマンという名作が登場し、ゲーセンといえば、コンピューターゲームをやる場所として認知されるほどであった。
ちなみに、当時アメリカの大学に留学中であった孫正義が、このインベイダーゲームをアメリカに持ち込み、大儲けしたことは有名だ。1980年代以降になると、ゲームセンターには、このアーケードゲームをする若者たちが集まり、その腕を競うことは珍しいものではなかった。
この映画の主人公たちは、そんなアーケードゲームに夢中になっていたオタクたち。そのうち、一人はなぜかアメリカ大統領になっているが、あとはさえない人生を送っている。
そんな時、かつてNASAが宇宙へ友好親善のつもりでアーケードゲームのデーターを積んだロケットを入手し、それを挑戦だと勘違いした宇宙人が地球に来襲。三回負けたら地球を滅ぼすと宣告してきたから、さあ大変。
襲い鰍ゥかるギャラクシアンの宇宙船や、ドンキーコング、パックマンを迎え撃つは、かつてアーケードゲームの名人であったオタク戦士たち。さあ、どうなる、地球の運命は?!
あァ、馬鹿らしい。その馬鹿らしいシナリオを、最新のCG技術を駆使して大真面目に製作された映画がこれだ。人間ドラマがイマイチとか、演技に難があるとか、ケチはいくらでもつけられる。
でも、巨大パックマンの映像に馬鹿笑いできる人なら問題ない。思いっ切り馬鹿を楽しむには、最適の映画ではないか。余談だが、パックマンは日本生まれのキャラであり、当然に日本人も出演している。ただし、格好悪いけど、それはそれで楽しめる。
こういったおバカな映画を真面目に作らせると、やはりハリウッドは上手いと思う。この馬鹿らしさを楽しめる人、限定ではあるが、あたしゃ楽しかったです。で、こういう馬鹿な映画は、映画館の巨大スクリーンで、しかも3Dで観るとより効果的。
どうせ楽しむなら、徹底的にね。
おそらく、如何なる処方をもってしても、イジメは無くならない。
マスコミの報道によると、夏休みを終えて新学期が始まる9月は、イジメ問題がよく起こるらしい。だから、子供をお持ちの親御さんたちは、子供たちの様子に気を配れとの警告する報道なのだろう。
だがなァ~、私の経験上、親がイジメ問題で大きな役割を果たすことは滅多にないと思う。虐められた子供は、そのことを親に相談することは稀で、むしろ隠したがる。
もし、親が我が子がイジメの対象になっていることに気が付いたら、出来ることは学校へ注意を促すか、いじめる子の親と交渉するぐらいだろう。そして、学校は問題を隠したがたるし、相手の親は自分の子には非がないと開き直る。
親が前面に出て、子供のイジメ問題が解決に向かう可能性は極めて低い。だが、なにも出来にない訳ではない。少なくとも、イジメから逃げることを手伝うことは出来る。
何度か書いているが、私が一番ひどいイジメを受けたのは転校先の小学校だ。今だから分かるが、あれは先生もグルだった。だから学校に逃げ場がなかった。さりとて、これは子供の問題であり、親や祖父母の力を借りる気は一切なかった。
でも、校内では無力だった。だから私は学校をさぼり、昼間は大人の目につかない林や廃墟に隠れ、夕方になると繁華街をうろつき悪さをし、帰り道でイジメっ子を見つけると、一人になるのを見計らって襲ったりしていた。
おかげで先生だけでなく、警察からも目をつけられて、何度となく補導された。その状況が変わったのは、引っ越したからだ。一応、もっともらしい理由を云われたが、引越しの本当の理由は私を逃がすためであったと、今なら分かる。
事実、次の転校先で、私は人が変わったように大人しくなり、イジメから解放された。中学に上がる頃には、むしろイジメる側に回ることさえあった。ただ、小学校の時の嫌な思い出ゆえに、私は群れてイジメるのは嫌で、やる時は対マンを好んだ。
あれから数十年、いろいろ気になるので調べてみたが、イジメとは人間だけでなく、動物にもあると分かった。特に集団生活を営む猿、ライオン、イルカなどは、相手が死に至るほど過酷なイジメをやっている。
驚いたことに、子供同士のイジメに親が関わることは少ない。外敵に対しては、親どころかグループの大人たちは子供を守るために身体を張る。しかし、子供同士の諍いには、無関心であることが多い。
おそらく、イジメという行為は、種の保存本能に仕込まれているように思う。つまり同族間の争いに生き残れない弱い個体を選別する行為としての役割を、イジメは担っているのかもしれない。
こんなことを書くと、不愉快に感じる方は多いと思う。だが、イジメは人間社会の至る所にあり、問題視されながらも根絶されたことはない。理屈や道理ではなく、本能に刻まれた行為なのだと結論せざるを得ないのだ。
だとしても、それはやはり不愉快なものであり、イジメを悪いこととして認識するのが常識と考えるべきであろう。事実、イジメられた子を助けることが出来る教師や、同級生は周囲から尊敬される。これもまた、イジメ問題の一面でもある。
ところで表題の漫画だが、「この恨み、はらさずにおくべきか」の不気味な科白と共に一躍人気漫画となった。私もよく覚えているのだが、この漫画に登場するイジメっ子たちは、私の周囲にも似たような奴らがいくらでもいた。
不快に思う一方で、トラブルを厭い、付き合わざるをえない、困った奴らでもある。そんなイジメっ子を、魔術を駆使してやりかえす魔太郎に、密かに喝采を叫ぶイジメられっ子は多かったと思う。
ただ、この漫画は悪い意味で、真似をする事例が続発したため、アニメ化はされず、また続編も描かれなかった。というか、イジメっこを懲らしめるのは前半までで、後半は魔太郎の親戚である幼児「切人」との絡みと、それに伴い明らかにされた魔太郎の出自の謎がメインの話となっている。
そのせいか、後半になると徐々に人気は落ちたように思う。やはり面白いのは、前半のイジメっ子への復讐話だろう。復刻版も出ているので、機会がありましたら是非どうぞ。
安倍政権、少し危ういかもしれない。
先日、野田女史の総裁選不出馬により、無投票での自民党総裁の座が定まった安倍総理。希望的観測で、安倍政権への不支持を広めようと頑張るマスコミの思惑とは裏腹に、絶対的な支持を固めたと評していい。
だが、ここにきて怪しい動きが出てきた。その黒幕は財務省だ。かねてから食料品などへの軽減税率の導入を主張していた公明党に配慮して、自民党も軽減税率の導入に前向きの姿勢をみせていた。
しかし、今週に入り突如として出てきたのが、一定額還付方式の導入である。しかもマイナンバーの普及を目的としたかのような姑息なアイディアでもある。これは、財務省お得意のアドバルーン戦術であろう。
観測気球を打ち上げて、自分たちが望む政策に大衆が賛意を示すように道筋をつける。霞が関のお偉いお役人様が、しばしば行う誘導広報でもある。つまり、財務省としては、軽減税率の導入には否定的だと永田町にアピールしているわけでもある。
ただ、今回の一定額還付方式は、あまりに問題が多く、財務省にすり寄りたがる野田氏が、これをベースに今後を考えたいなどと媚び売っていたが、伊吹氏が反論したように、あまりに拙速であり、問題が多すぎる。
財務省としては、この観測気球に注目が集まっただけで十分で、今後は如何に安倍政権を絡め取るかであろう。もっとも自公連立政権が、この方式に歩み寄るとも思えない。
むしろ注目すべきは、財務省が堂々と、安倍政権に対して反抗を露わにしたことだろう。財務省べったりの民主党政権と異なり、党人政治家が中心である自民党には、霞が関との長い対立と妥協の歴史を持っている。
安倍氏の自民党総裁の続投が決まったことで、財務省としては、ここで軽いジャブを放っておく必要があると認識したうえでの、今回の消費税一定額還付方式の公表ではないかと思う。
この財務省の動きは、安倍の対抗馬がいないことへの焦りだともいえるが、裏に回って安倍内閣のスキャンダルを流すことで、安倍潰しにかかる可能性も否定出来ない。
野党があまりにだらしないと、霞が関の官僚たちは主導権を握ろうとして、政治家潰しにかかるのは戦後政治をみてみれば分かること。厄介なのは、それを知ってか知らずかマスコミがそれに積極的にかかわろうとすることだ。
おそらく年末までに、再び安倍政権(改造後だと思うが)の閣僚スキャンダルが飛び出すと私は予測しています。