これノン・フィクションではないの?
思わず、そう疑いたくなるのが表題の作品だ。読めば分かるが、連続殺人鬼の手記の形をとっている。その内容があまりに異常すぎて、実在の殺人鬼が自ら書いた、語ったとしか言いようがない迫真の殺人記録なのだ。
著者はアメリカ・ミステリー界の狂犬とも云われるエルロイである。エルロイを知らなければ、刑務所に収監された連続殺人鬼の回顧録として読めてしまうほどに完成度は高い。
いや、まさか・・・実話ではないよね?
そう確認したくなるほどに、話が真に迫っている。この作品は、エルロイの代表作である「LA暗黒史4部作」と「アンダーワールドUSA3部作」との間の時期に書かれている。
私はエルロイは一度読むと心に強いダメージを負うので、半年は空けて読むようにしている。なのだが、今までで一番読みやすかったのが表題の作品であった。それが不思議でならない。私は決して理解も共感も出来ないが、もしかしたら私の心の奥底で眠っていたどす黒い悪意が目を覚ましたのか。この読み易さが怖かった。
いやはやなんとも、やっぱりエルロイは恐ろしい。まさかと思うが、エルロイの実話だからこそ読みやすかったのか?いや、そんなはずはない。そんな訳がない。そう思いつつも、やはり疑ってしまう恐ろしい作品です。
連続殺人鬼の心の内側を覗いてみたいと思ったら、この作品は最適であると思います。
拙速は稚拙に通じる。
菅内閣の目玉になりつつあるのが、各省庁における印鑑の廃止であろう。私も基本的には賛成である。
しかし、このままでは失敗というか、上手くいかないことも目に見えている。それが残念でならない。
私自身、仕事で印鑑を頂くために結構苦労している。だから印鑑以外の方法があっても良いと考えている。第一、今や印鑑の印影なんて、スキャナーで簡単に読み取ることが出来る時代である。
もはや印鑑の証憑能力は低下しているのは明らかだ。また国際化時代を迎えて、印鑑証明(住民登録が必須だ)とワンセットである印鑑制度自体に無理がある。
相続での仕事だが、相続人が海外に居住している場合だと印鑑証明が取れない。そこで税務の世界では、領事館で領事立会いの下でのサイン証明を交付してもらって対応している。
そう、既に一部の分野ではサイン証明が公的なものとして利用されているのだ。ただ、過去は正しい、伝統は守られるべきと固執する日本の慣習がサイン証明を厭うだけだ。
この現状を打破するためにも、永田町が先頭に立って印鑑廃止を進めるその意気やよし。でも些か拙速に過ぎる。行政の末端では、未だ判子万能であり、サイン証明はおろか電子認証も対応できていない。
これは頭の良い人、特にお勉強のよくお出来になる人に合共通することなのだが、現場の情報に疎い。現在の日本の官庁は、下級官庁が上級官僚に情報を上げる際、なるべく不興を被らないように作文することが慣例になってしまっている。
少し前までは、官官接待という本音で語れる場があったので、行政の末端の本音が伝わっていた。しかし愚かな国民の嫉妬から官官接待がなくなった結果、行政の末端での実態の情報が上部に伝わりにくくなっている。
明るい会議室で、堂々意見交換をすればいいと思い込んでいる頭の良い馬鹿には分からないのだろう。
上司の作成した企画を、会議室で部下が堂々ダメだしするアホが居る訳ない。だからこそ、無礼講を看板に、酒を交えての官官接待という知恵があった。酒を言い訳に本音で話し合い、酔いざめした翌日以降に部下の意見を取り入れた修正がなされる。これが日本の特徴であった。
でも今はこれが出来ない。だから意図は良くても、実行が難しい改革がまかり通る。多分、この印鑑廃止も二転三転すると思いますよ。
何時の時代にも、私の耳に一番馴染んだのは歌謡曲であった。
その歌謡曲のなかでも昭和に流行ったものを昭和歌謡と呼ぶ。なかでも1960年代後半に現れて、1990年代までに膨大な数のヒット曲を作曲したのが、筒美京平であった。
その筒美氏が今月7日に亡くなったとの報があった。
ほとんど人前に出ない方ではあるが、日本人でこの人の作曲した歌を聴いたことがない人は、まずいないと思う。古くはアニメ「さざえさん」のOP曲であり、筒美氏初のヒット作である「ブルーライト・ヨコハマ」「ロマンス」とヒット曲が並び、日本の作曲家では断トツの売れっ子であった。
男性歌手からアイドル歌手はもちろん、CCB「ロマンチックは止まらない」さだまさし「関白宣言」とその才能のすそ野の広さには驚嘆するしかない。子供から大人まで広い層に受け入れられる曲作りの才能は、今日ではありえないほどだ。
フォークの流行や、ニューミュージックの台頭にも負けることなく、Jポップの隆盛に至りようやく下火になったが、その歌いやすく明るいメロディは、今の若い人にも受け入れられるものである。
そんな希代のヒットメイカーであったが、不思議に思っていたことがある。昭和歌謡を代表する名歌手である松田聖子と中森明菜には楽曲を提供していないのだ。もしかしたら、私の看落としがあるかもしれないが、調べた限りでは、やはりこの二人とは組んだことがないようだ。
かなり気になったので、あれこれと検索してみると、レコード会社の重役のインタビューで、確立されたヒットメイカーである筒美氏よりも若手の起用を図った結果であるらしい。
芸能の世界は、表には出せない事情があることは承知しているが、特段トラブルの噂もないし、確執の風評もない。おそらく若手作曲家の起用を優先し、しかもそれが成功したので、逆に筒美氏の起用をしずらくなったのが実態ではないだろうか。
とはいえ、私としては筒美氏の作曲した歌を松田聖子と中森明菜に歌って欲しかった気持ちはある。それがちょっと残念だ。
あまり音楽を聞かなくなった今の私には、Jポップよりも昭和歌謡のほうが耳に馴染む。
謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。今まで素敵な曲をありがとうございました。
戦う冷蔵庫、そんな印象がある。
TV朝日の実況中継をしていた古館アナは、ノートンを称して「超竜」だと言っていたが、私は戦う冷蔵庫だと思っていた。頭はクール、でも体つきは頑丈な箱もの家電。
もともとは腕相撲世界一で世に知られた人である。あの逞しい上腕をみれば、それが嘘偽りでないことが一目瞭然であった。そして、あの体躯は黄色人種ではありえない四角い体つき。
ついでに言えば、白人としては短足。ただし、その足は筋肉太りで異様にぶっとい。必然、身体は堅く、格闘技者としてはいささか問題ありだと、解説の山本小鉄さんは渋い評価であった。
私なんぞ最初は客寄せパンダかと思ったぐらいにプロレスは下手だった。いや、不器用すぎたと思う。それでも見映えする体つきであり、あの迫力ある体躯で力自慢を見せられるのは、そう悪いものではなかった。なにせ迫力が半端ない。
ヘビー級のプロレスラーを軽々とリフトアップして、放り投げるだけだが、マットの上で複数回バウンドする光景は、それだけで金払う価値があったと思う。まァ受け身の上手い相手、あってこその場面ではある。
だが、このお兄さん、えらく真面目な御仁であった。自分が単なる腕相撲世界一の力持ちしか売りがないことを密かに悩んでいたらしい。オリンピックのメダリストであるブラッド・レイガンスの道場に足繁く通い、プロレスの技術を磨き、やがてトップレスラーに相応しい技量を身に着けた。
しかし、彼はアメリカのプロレスで必須であるマイク・パフォーマンスが苦手であったらしい。そのせいか、アメリカよりも日本で好んで戦っていた。パフォーマンスよりも、力と技の攻防を好む日本のプロレスが好きだったようだ。
その頃には、四角い冷蔵庫のような体つきは、次第に引き締まり、実戦向けに動きが格段と良くなっていた。元々パワーは十分すぎるほどあったので、技を覚えると始末に負えない強さである。
小柄ながら受け身の上手い日本人レスラーを高く評価していたらしく、気が付いたらノートン本人も受け身が上手くなっていた。おかげでプロレスラーとして長く活躍できた。
特に1990年代から2000年代前半までは、新日本プロレスのエース格であったと思う。ヘルナンデスと組んでのジェラシック・パワーズも印象に深い。
でも私的にベスト・バウトは、なんといってもビックバン・ベイダーとの一戦だ。巨体の二人が殴り合い、ぶつかり合い、投げ飛ばす迫力は日本人同士の試合ではどうしても不可能なド迫力。
怪獣で云えば、レッドキング対ゴモラである。あのぶっとい腕、分厚い胸、頑丈そうな首、そしてリングをきしませる巨体同士が激しくスイングする試合を観ている私は、とてもじゃないが坐ってなんていられなかった。立ち上がり、腕を振り回して応援した。
これこそ、キング・オブ・エンターテイメントであるプロレスであった。
ちなみにノートンは映画「オーバー・ザ・トップ」でS・スタローンと共演したこともある。演技者としての素質はあったのだろう。でも断言しますけど、やはりプロレスの試合こそが、彼の最も相応しい舞台であったと思いますよ。
食後のデザートにドーナッツは如何。
私はデザート大好き。食後には必ず甘味を用意しておく。ドーナッツも好きなのだが、実はあまり食べることは少ない。少し前までは、駅のそばにミスタードーナッツ(通称ミスド)があり、そこで買っていた。
しかし一昨年に閉店になってしまい、近くにミスドがないため、なんとなくドーナッツを食べる機会が無くなってしまったのだ。おかげで、オールドファッションもポンテリングもフレンチクルーラーも最近はほとんど食べていない。
最近読んだ記事によると、ミスドはこの3年あまりで300店舗近くを閉店させていたそうだ。要するに不採算店を閉めて経営の改善を図ったのだろう。これは新型コロナとは無関係に、ミスドの経営が悪化していたことでもある。
記事を読みながら、私は無理もないよなァと慨嘆していた。
近年、ミスドでは店内用に飲茶や中華めんなどのメニューを導入していた。何回か食べたことがあるが、安いわりに味はそう悪くない。ただ、そこはかとなく疑問であった。
飲茶の後でドーナッツって食べたくなるものなのか?
そうこうしているうちに、コンビニでドーナッツが売り出された。珈琲にも力を入れていたし、他の茶菓子類と一緒にドーナッツを買う楽しみもあった。これはミスドには強敵だなと思っていた。
だからミスドの大量閉店も、なんとなくさもありなんと思ってしまう。店内飲食を増やしたい意向は分かるけど、飲茶とドーナッツの組み合わせは無理がある。しかも飲茶は持ち帰りが出来ない。
経営の多角化を図りたい経営者の意向は分からなくもない。でも経営は、足し算ではダメ。鰍ッ算による相乗効果が出るくらいでないと、なかなか利益は出ない。
私としては飲茶に手間暇かけるなら、むしろドーナッツを食後に食べたくなるような食事を出して欲しいですね。ミスドのドーナッツは好きなので、潰れてもらっては困ります。だから敢えて厳しく言います。
メニューを増やすならば、ドーナッツが食べたくなる献立を考えるべきだと。