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〈リバイバル・アーカイブス〉水越水論 越口編

2020年10月18日 | 歴史

〈リバイバル・アーカイブス〉2022.1.17~1.31

原本:2020年10月18日

水越水論 越口地区

水論とは水争いのこと。江戸前期、元禄時代に田んぼに引くかんがい用水の配分を巡って、大和と南河内(石川郡)に争いが起こりました。万字ケ滝地区と越口地区の2カ所が争点となりました。

万字ケ滝についてはこちらをご覧ください。

水越水論 万字ケ滝編 2020.10.15.

 

水越川の上流部、現在の大阪府と奈良県の境をすこし70mほど進んだ地点が争点となった場所、「越口」(2番)。

*地図の番号は後で見ていただく写真の場所と一致します。

 

地図②の「越口」の地点 右が奈良県側 南から北側を写しました。

ハイカーの位置から右に谷が開けていて、ここに上流80m(番号③)から井路を経て、比高を利用してこの谷に水越川の水を人工的に落としています。

ここからは、川と道の比高が4.5m位あり、道路が高く直接はこの道を掘りこまないと水を落とせません。

(川:標高588.8m、道路:593.3m 参照:地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

向かいの小山は地図の①に当たります。

 

②の越口から東側の深い谷を望みます。

 

うっすら大和盆地が眺めることができます。

 

全景はこんな感じ。写真右の「大和に流れる井路」が人工に造られた河内に流れる川の水を一部大和に流す水路です。

 

先程とは逆に北から南を撮った写真。

大和 吐田郷(はんだごう)周辺は、すでに中世末期から田んぼの水不足に悩まされていたようで、水源を葛城山・金剛山に求めました。

特に、江戸初期の上田角之進は大和側の水不足を解消するために、河内側に流れていた金剛山の水を一部大和側へ流れるように上流でおおがかりな開削工事を行ないました。

ところが、この工事の約100年後 元禄年間に、河内側の水も新田開発や生産性の向上により足りなくなってきて河内側と水論(水争い)が発生しました。

そのいきさつは前述 水越水論 万字ケ滝編でご紹介しています。

 

②より80m上流の取水地点③。

すぐ下手に井堰を築き高さを調整して、河岸の右脇から井路を築き取水しています。

自然を克服する人智の技術です。

 

取水口 水越峠から金剛山に至るダイヤモンドトレールの下をくぐります。

 

井路の様子

かなりの傾斜で流れています。

井路は金剛山の領家帯花崗岩・片麻岩層の岩盤を開削しています。距離は80mほどと短いですが、一部岩盤を切り開いての工事であったと考えられます。

 

この井路はダイトレ道の横の東側比高2mくらいの高いところを流れていますので、ここを通られるハイカーの方はぜひご覧になってください。

 

写真右端がダイトレ道

 

渓流のような清い流れです。

 

写真奥が滝口。

滝口は木の陰になっていて見ることができませんが、滝の水が落ちる音が山に響きます。

 

すぐ上流50mくらいのところの渓谷

花崗岩の巨石が散在しています。大事な命の水が水越川、千早川、石川を経て、大和川に注ぎます。

江戸時代、新田開発や生産性の向上により、早くは元禄の頃から水争いが川の両岸の村、上下の村で頻繁に起こります。

耕す人にとっては死活問題。半分以上の年貢を納めて、残るお米がその収入、土地を持っていない農民はさらに地主に納めますので、わずかばかりのお米で生活のすべてを賄わなければなりません。

この命の水をめぐって、過去に命を張った争いもありました。そして、今年のようなウンカによる虫害、イノシシなどの食害、稲の病気、旱魃、冷害、天候不順、川の氾濫などで減収、場合によっては全滅になることもありました。

私たちはこのような先祖の方の苦労の元に、現在があることを忘れてはなりません。

 

関連記事:水越水論 万字ケ滝編 2020.10.12.

ウンカ大発生 2020 2020.10.13.

写真撮影:2020年5月13日、14日、9月22日

2020年10月12日 HN:アブラコウモリH

 

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