カモメの写真をアップしてからちょっと良心の呵責を感じたので、あらためてこちらの写真も載せることにしました。
カモメや他の「かわいい」「きれいな」鳥にばかり目をやっていたら、都の標識のそばから離れないでじっとしているカラスに会いました。カメラを向けても、カメラ目線というか、置物のように動かないというか…
池の畔で止まったり羽ばたいたりしている鳥たちにレンズを向けていると、その前を、ホバリングするようにバタバタ飛び回っているカラスがいました。
「ちょっと、邪魔だから、どいてくれない?」と思いながらカメラを構えていると、そのカラスはついに目の前の柵に止まり、すぐ近い距離で向かい合うことになってしまいました。
困ったなあと思って様子を見ているうちに、どうしてカラスには興味がなく他の鳥ばかり見たいと思うのだろうと、自分でも不思議に思い始めました。カラスではいけないの? 選んで生まれてきたわけでもないだろうに、カラスでは写真も撮ってもらえないの?…と訴えかけられたように感じて、せめて一枚ぐらいと柵の上の子を撮りました。
写真を整理するときに、再びこの「カラスは落選」の価値観がこころに甦ってきて、カモメだけ選んでしまいました。正直なところ、カラスの写真をわざわざ撮りたいとは思っていませんでした。
街を汚くする鳥というイメージが強いせいか、鳴き声などのせいか、カラスが好きという人とはあまりお目にかかりません。だからかわいくも思わないし、いつまでも見ていたいとも思わない、無視される鳥でしかない?
同じような視線を人間同士でも持ってしまいがちなのが人の弱さなのでしょうが、今では、柵の上のカラス君が、「ちょっとでいいから考えてみて!」と言ってくれている気がします。
以上は、今日facebookに投稿した全文と写真です。
カラスと一緒に没にした写真も一緒に掲載します。
ところで、見た目がカワイイあるいはカッコいい、あるいは優れている、性格がいい、頭がいい、健康であるなど、いわゆる「社会の価値観」というのは、無意識のうちにけっこう深いところまで入り込んでいるものです。福音に照らして価値観をあらためて選び取る勇気がほしいところです。
今日のローマ教皇のミサ中のメッセージに、教会は貧しい人々を守るために…ということばがありました。勝ち組がいいという風潮が強いこの世の価値観から、教会の一員としてどのように回心していけばよいのか、祈りつつ。
カモメや他の「かわいい」「きれいな」鳥にばかり目をやっていたら、都の標識のそばから離れないでじっとしているカラスに会いました。カメラを向けても、カメラ目線というか、置物のように動かないというか…
池の畔で止まったり羽ばたいたりしている鳥たちにレンズを向けていると、その前を、ホバリングするようにバタバタ飛び回っているカラスがいました。
「ちょっと、邪魔だから、どいてくれない?」と思いながらカメラを構えていると、そのカラスはついに目の前の柵に止まり、すぐ近い距離で向かい合うことになってしまいました。
困ったなあと思って様子を見ているうちに、どうしてカラスには興味がなく他の鳥ばかり見たいと思うのだろうと、自分でも不思議に思い始めました。カラスではいけないの? 選んで生まれてきたわけでもないだろうに、カラスでは写真も撮ってもらえないの?…と訴えかけられたように感じて、せめて一枚ぐらいと柵の上の子を撮りました。
写真を整理するときに、再びこの「カラスは落選」の価値観がこころに甦ってきて、カモメだけ選んでしまいました。正直なところ、カラスの写真をわざわざ撮りたいとは思っていませんでした。
街を汚くする鳥というイメージが強いせいか、鳴き声などのせいか、カラスが好きという人とはあまりお目にかかりません。だからかわいくも思わないし、いつまでも見ていたいとも思わない、無視される鳥でしかない?
同じような視線を人間同士でも持ってしまいがちなのが人の弱さなのでしょうが、今では、柵の上のカラス君が、「ちょっとでいいから考えてみて!」と言ってくれている気がします。
以上は、今日facebookに投稿した全文と写真です。
カラスと一緒に没にした写真も一緒に掲載します。
ところで、見た目がカワイイあるいはカッコいい、あるいは優れている、性格がいい、頭がいい、健康であるなど、いわゆる「社会の価値観」というのは、無意識のうちにけっこう深いところまで入り込んでいるものです。福音に照らして価値観をあらためて選び取る勇気がほしいところです。
今日のローマ教皇のミサ中のメッセージに、教会は貧しい人々を守るために…ということばがありました。勝ち組がいいという風潮が強いこの世の価値観から、教会の一員としてどのように回心していけばよいのか、祈りつつ。