楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

絶えざる回心…

2014-09-12 09:48:00 | Sisterのねごと


今日のみことばにも耳と心が痛みます。

回心というのは、日々自分の言動が見えていることなのでしょうね。人のことは見えすぎるぐらい観えますが、自分のことというのはなかなか…(汗)

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
(ルカ福音書6章41-42節)

写真は、長崎・外海で目に止まった踏み絵。

内的成長を助けてくれている!?

2014-09-11 12:19:00 | Sisterのねごと


人に面白くないことばを投げかけられたら、すかさず蹴りつける…本田選手のつもり!?
陰口をたたかれたら、同じく叩き返す…錦織選手のつもり!?
いちいち腹が立つと苛立ったら、乗り込んでいって投げ飛ばす…白鵬関のつもり!?

イエスのことばは真逆のような(^_^;)



「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。/.../ 敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい…(ルカ福音書6章26-29節)」と続いていきます。

今日の朗読箇所、最後は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい(36節)」というところに落ち着くのですが…

嬉しくないと感じる言動をとる隣人は、もしかすると“わたし”の内的成長を助けてくれているのかも知れません。

マリアの誕生日

2014-09-08 08:55:00 | Sisterのねごと


5世紀のエルサレムではすでに、聖母マリアの誕生を今日お祝いしていたそうですから、キリスト教の歴史の中ではとても古い祝日です。

「おめでとう!」と言うと、「もうお祝いしてもらって喜べるような歳でもないけど」などと返してくる人がたまにありますが、高齢者の介護施設に行ってもお誕生日はお祝いしてもらえ、ご本人たちは満面笑顔です。いくつになっても、この世に生を受けた記念日というのはついて回ってくるし、年に一度そのことにこころを留められるのはありがたいことです。

誕生、入学、就職、結婚、出産、あるいは司祭叙階や修道誓願、その他、その人の人生にとってのビッグイベントを、自分自身はもちろんのこと、親しい人に思い出してもらい話題にしてもらえるのは、何と言っても嬉しいものです。



同じ時代、同じ国に生きているのに、戸籍がない人がいます。いろいろな事情でそうなったのでしょうが、生まれてきたその人には何の咎もありません。生まれてきたからには親は必ずいるはずなのに、誕生日、出生地、親の顔や名前などを知らないまま育っていく子どもたちもいます。

そんな生を一生懸命生きている人々のことを忘れずに、祈りのうちに今日を過ごしたいものです。


わたしも監視カメラ!?

2014-09-06 10:30:00 | Sisterのねごと


近頃はどこに行っても監視カメラがついていますが、“まじめ”な人ほど、自分も監視カメラになっています。

ルカ福音書にもイエスの弟子たちのすることをいちいち見張っている人たちが登場します。

「ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った。」(6章2節)

誰に頼まれたわけでもないのに、気になる人の言動をこまかくチェックして、もっともらしくコメントする… こんな意味で“まじめ”というのは、周囲を否定してしか自分を主張できないという意味なのかしらと、考えてしまいます。

で、自分に限ってそんなことはない、これは他の人のことなんだと思っていることこそが、ひょっとしたらモンダイなのかも(汗)