アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

つり目パフォーマンスは日本人への親愛の表現?

2013年11月10日 | Weblog
 スペインの子ども達が、私ども日本人とすれ違うときに、「オラ、オラ」と挨拶をしながら、両手で目をつり上げるという話をすでに書きました。そして、子ども達がこの調子だもの、大人達だって日本人は「つり目」というか「きつね目」の人種と思っているだろうと。

 凄いタイミングなのですが、2013年10月27日、オートバイの世界選手権(MotoGPクラス)の第17戦が、栃木県のツインリンク茂木で開催されました。
 優勝候補の筆頭が、な、なんとスペインのマルク・マルケス。今年初参戦だったのですが、スペインの若手天才ライダーといわれております。マルケスは、結局2位に終わりましたがね。

 で、マルケスが着用していたTシャツのイラストのひとつに、「両手で目をつり上げたポーズをした人物が描かれていた」。日本での第17戦用にデザインしたのだという。

 ふざけるなよマルケス!人種差別野郎!とっととスペインへ帰って、しょっぱい食事をしていろ!腹が立つたらありゃしない。

 と、思いきや…大した悪意はなかったみたい。
 マルケスのヘルメットは白地に赤。つまり、日の丸をデザインしていた。日本で走ることに喜びを感じていたことがうかがえるぅかも?Tシャツの「つり目」のイラストについても、日本人に対する親愛の情の表現のつもりだったらしく、「このイラスト気にいってもらえるかなあ」と発言していた。これが、人種差別の意味があると知って、マルケスは「大変申し訳ありませんでした。すべての日本人の仲間やファンのため、感謝の象徴としてつり目の顔をデザインしたのですがぁ…」と。バカにしたつもりはないと証言している。
 まあ、悪意はなかった。ただ、無知だったということ。と、なると…スペインですれ違った小学生達もなんの悪意もない、むしろ親愛の表現だったということか。

ここに地果て、海始まる…ロカ岬

2013年11月09日 | Weblog
 「ここに地果て、海はじまる」このフレーズ、インパクトがあります。「地が果てる」は、平凡な表現ですが、「海がはじまる」これは斬新ですよ。誰の言葉かって?ポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモインスという人の言葉。ユーラシア大陸の西端、ロカ岬に立ってこの言葉を発したらしい。日本では、織田信長の頃です。リスボンから車で1時間ほど西へ走ると海へ出ます。最西端がロカ岬。海抜140メートルほどの断崖絶壁になっております。

 燈台や十字架がついた石碑のような塔があります。この塔に、「ここに地果て、海はじまる」が彫られています。
 岬は、日本にいくらでもある岬と何の違いもありません。しかし、BUT!ユーラシア大陸最西端という圧力がありますので、感動してしまいます。大航海時代、コロンブスが、ヴァスコ・ダ・ガマが、マゼランが、フランシスコ・ザビエルが、この岬を眺めながら大西洋に乗り出していった。岬は彼らを見送ってきた…。彼らは、新大陸・新航路を発見した。大変な岬に立つことが出来て、気分の高揚を感じました。
 「♪ショーシューリッキーィ」と、大西洋に向かって歌いました。雄大な気持ちになりました。

 ロカ岬の事務所みたいな、売店みたいなところで、「ユーラシア大陸最西端到達証明書」を交付していただきました(1,500円ほど)。証明書には名前・日付等が入り、蝋印が捺してあります。現在、我が家の茶の間で額に入って飾られています。来客は、嫌でもロカ岬の話を聞かされるわけで…。

リスボン

2013年11月08日 | Weblog
 ポルトガルの首都リスボンに着いた夜、「ファドディナーショー」へ行きました。フラメンコの時は、「ワンドリンク付き(食事なし)」でした。「ファド」は、「ディナーショー」ですから、「ディナーが付く」。食事には大きな期待をしていなかったのですが、席へ案内されて、すぐさま私は自分が笑顔であることに気づきました。
 レストランでは、飲み物は有料であることが普通。それなのに、ファドディナーショーでは、ミネラルウオーター、赤ワイン、白ワインがボトルごとサイドテ-ブルにおかれてあり、「飲み放題!」。もっとも、はじめから料金に入っているのでしょうがね。

 ワイン飲み放題ですっかり気を良くした私は、ショーの開始前から「大のファドファン」と、化しておりました。ファンとしてどんな行動をとったか?
 それは、「シーッ!の役」を率先して行ったことですねえ。

 ファドの語源は、ラテン語の「宿命」。「失ったものへの哀惜の念を切々と歌う曲が多い」のだそう。ですから、歌手が歌おうとしているときに、私語があったのでは失礼千万。そこで、観衆へ、「シーッ!」と、言って静かにするよう促すのです。えっ?私の、「シーッ!」の方がうるさいんじゃないかって?た、たしかにそれは言えてるかも…。

 ギター弾きが2人おりました。1人は普通のギター。もう一人は、「ポルトガルギター」を演奏しておりました。胴が丸く底が平ら。はじめは、「バンジョーの親玉か?」と思いました。ドイツから来た、ドレスアップしたオバサンが、「バンジョーじゃないのよ。バンジョーは、4弦か5弦でしょ。あれは、ギターラ・ポルトゲーザ(ポルトガルギター)といって、12弦のギターだよ。ファドの伴奏に欠かせないものよ」と、ウンチクを。私はドイツ人が大好きですが、ドイツ人も日本人が好きらしい。同盟国同士なかよくしなきゃね。彼女のグループは、皆さんドレスアップしておりました。「ディナーショー」ですから、ドレスアップは当然という考え方なのでしょう。私は、ファドを「民衆の音楽」と考えておりましたので、ディナーショーといえども、平服でいいかなと…。平服でなんの問題も無かったですがね。
 
 哀愁を帯びた女性の歌…これがメインだったかと。一曲一曲が短いのでとても聴きやすかったです。歌あり、踊りあり…。飽きないうちに、「魂の叫び」のショーは終了。テーブルには、デザートが出ておりました。
 つかつかっと、男が近づいてきました。「シーッ!と、言ってくれてありがとう。あなたのお陰でショーは大成功だったよ」と、お礼を言われるのかと思ったら、「ファドのCDを買ってよ!」と…。

 ディナーはどうだったかって?それが、料理の内容を全く覚えていない。「シーッ!」に夢中になっていたことと、ワインを2本空けることに情熱を傾けていたもので。

エヴォラで暮らす日本人の若者

2013年11月07日 | Weblog
 エヴォラでは、天正遣欧少年使節ゆかりのカテドラルをはじめとする、世界遺産の歴史地区を散策しました。
 パルテノン神殿のようなエンタシス形式の柱を持つ崩れかけた遺跡を発見。私が驚いているのに、現地ガイドは、「何が珍しいんだ?そんな崩れかけたもの?」と、あっけない。まあ、古いものには事欠かないということか。

 で…エヴォラ歴史地区のはずれに、日本人が経営するみやげもの店がありました。華僑ほどではないにしろ、日本人は全世界へ行って暮らしている。ポルトガルのエヴォラでみやげ物店をやっていて何の不思議もない。ただ、店主が20歳代。これって、なかなか珍しい。アルバイト店員じゃなかったのかって?イエイエ、しっかりインタビューしましたから、間違いなく経営者です。

 札幌市の出身。高校時代にエヴォラにあこがれ、卒業と同時にエヴォラへやって来た。そして、10年ほど頑張って、とうとう自分の店を持った。店の客は90%が日本人観光客。「気前よく買ってくださるので、ホントありがたいです」と。腰が低い若者なので、ついつい買ってしまいます。
 穏やかな笑顔を絶やさないなのですが、開店までの10年間大変な苦労の連続だったと思います。
 ガイドが言ってました。
 「もう一人、小太りの若者との共同経営のはずなのですがねえ。このところ小太り君がいないのです…。ケンカ別れしたかな…」

 店の外まで見送りに出てくれた店主の若者…私たちの姿が見えなくなるまで、ズーット見送ってくれていました…。郷愁の念か、はたまた小太り君とのトラブルで落胆していたのか…
 ポルトガルの田舎町で生きる日本人の若者…「幸せだった」と、思える生涯を送ってほしい。

エヴォラ

2013年11月06日 | Weblog
 「エヴォラ」と聞いて、ポルトガルの町を連想する人は…多くないかと。私など、真っ先に、「エヴォラ出血熱」を思い出しましたよ。「それなら、ゴルゴ13の読み過ぎだろう!」って?残念でした。リチャード・プレストンの、「ホット・ゾーン」からの知識でした。もちろん、ゴルゴ13も読みましたけどね。

 ポルトガルのエヴォラへも行ってきました。ローマ帝国時代からアレンテージョ地方(ポルトガル南東部)の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。何をしにその町へ寄ったかって?全くミーハーなもので、「エヴォラ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されていることと、天正遣欧少年使節が立ち寄った所ということで…。そこで、恐ろしい「出血熱」が発生したのかって?出血熱のほうは、ポルトガルのエヴォラとは全く関係なく、病気が流行した地域の川の名前(アフリカ中央部~西アフリカ)。

 「天正遣欧少年使節」懐かしいでしょう!私は出発前に資料を読んで復習しましたよ。高校の頃日本史で習ったわけで、その時は大した感慨はありませんでした。今となって、あらためて「感嘆」しました。1582年ですよ!「山崎の戦い」つまり、秀吉が明智光秀を討った戦いの年に、13~14歳の少年達4人がヨーロッパへ出発した!キリスト教徒、進んでいたのですねえ!

 名前が凄い!もっとも、クリスチャンネイムですがね。
 1 伊東マンショ
 2 千々石ミゲル
 3 中浦ジュリアン
 4 原マルチノ

 4人で行ったのではなく、随員が8人いた。うち1人はインドのゴアに留まった。結局、ポルトガルに上陸した天正遣欧少年使節団は、11人だった。
 使節団の目的は、…
 1 ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼する
 2 日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てる

 天正遣欧少年使節は、1582年に出発して、1590年に帰国。支倉常長がヨーロッパへ行ったのが、1613年~1620年。支倉常長と天正遣欧少年使節は、とかくごっちゃに考えられることが多いですが、実際は時代が違います。
 えっ?誰もごっちゃに考えないって?だけど…支倉常長が、天正遣欧少年使節団の団長だったという人さえいるんですけどねぇ…。

 天正遣欧少年使節が見た大聖堂を、428年後に私が見た…それがどうした?ってところですが…感慨があるのです。時間と空間を超越した…こういう感慨を、「夢とロマン」っていうのでしょうねえ。生きてて良かったぁ。

 4人の使節団の帰国後がそれぞれ不幸。もっともキリスト教禁止令(1587年豊臣秀吉)が続いていた時代でしたから。特に、中浦ジュリアンさんなどは、「穴づり」で殉教でした(1633年)。「穴づり」は、テトラの間から釣り糸を垂らしてソイやガヤを釣る…その穴づりとは違うのです。

 穴づりは、江戸初期にキリスト教信者を棄教させるための最も過酷な拷問でした。…いや、処刑ですね。
 深さ1メートルほどの穴の中に逆さに吊すわけですが、穴には糞尿を入れてある。そこへ、手足胴をグルグル巻に縛った人を逆さまに吊す。体の半分が穴に入る感じ。なぜグルグル巻にしたか?逆さまにすると、内臓が下がって早く死んでしまいます。苦しませるためには、内臓が下がらないようにきつく巻く必要があったのです。
 これだけじゃないのです。逆さまに吊すのですから、血が頭に集まります。そうなると、頭の血管がブチブチと切れて早く死にます。苦しませるために、こめかみに穴を開けて、血が抜けるようにしたのです。血が抜ける前に、死んでしまうと思うのですがね…。

 私なら、吊される前に、「キリスト教をやめまーす!」と、言いますがね。冗談じゃないですよ!ところが、中浦ジュリアンさんは…殉教。もっとも、還暦を過ぎていたわけですから、吊された瞬間に意識を失ったとも考えられます。

セビージャ

2013年11月05日 | Weblog
 「歩く」の使い方(活用?)…「1kmの距離ならぁ、10分ほど歩かさる」えっ?そんな使い方はしない?「犬にひっぱられたので、ずいぶん歩かさったわあ!」…言いませんか?私は、「歩く」にかかわって、このような使い方をしますがねぇ。

 まっ、それはともかく、「アルカサル」。セビージャにあるスペイン王室の宮殿。14世紀に、アルハンブラ宮殿を意識してムデハル様式で建てられた…。15~16世紀にかけて増築された…つまり、ゴシックやルネサンスなどの様式も混じっているわけ。建築の素人(私)にとっては、アルハンブラ宮殿を歩いているような…内部も広いので、アルカサル(歩かさる)。

 セビージャでは、「床屋へ行こう」と考えていました。理由ですか?もちろん、「セビリアの理髪師」から。日本では「セビリア」で通っておりますが、現地では、「セビージャ」でした。

 「セビージャと床屋はどんな関係があるのか?」という質問はないと思いますが…ボーマルシェ(フランスの劇作家)の風刺的な戯曲の題名が、「セビリャの理髪師」。同じ題名の曲もあります。

 床屋を探したのですが、見つけられず、だいぶ歩かさったです。諦めてホテルへ戻ったら、なんとホテル内に美容院が。「セビリアの美容師」じゃあシャレにもならないので、ヘアカット案を廃案としました。

ミハス ピカソも見た白い村

2013年11月04日 | Weblog
 ミハスは、押しも押されもせぬスペイン有数の観光地。何を観光するか?白壁とレンガ色の屋根という典型的なアンダルシアの家々を観る…。古代ギリシャ時代の建造物も…あるにはあるが、観光すべきほどのものはない。(当時の砦跡が、現在の建物の壁の一部となっているところがあるという程度)
 ミハスはジブラルタル海峡まで十数キコメートル、地中海を見下ろす山の中腹斜面にへばりついている白い村です。天候によっては、モロッコを見ることが出来る。幸いにも私どもはモロッコを見ることが出来ました。青森から、北海道を眺めるよりは遥かに遠かったです。

白い壁の家並みは、ミハスだけの特徴ではなく、スペインの南部地方のアンダルシのもの。壁が真っ白に塗られた白い家と、迷路のような路地がある。
 壁を白く塗るのは景観のためではなく、強烈な太陽の日差しを反射させて暑さをしのぐ工夫。副産物として、白く(石灰)塗ると壁に虫がわきにくいのだそう。どの家も、ほぼ毎年塗り直すということでぇ…どの家も光り輝くような白。
 路地を狭く造っているのも日差しが差し込むのを避けるため。家では日差しを嫌うのに、バルではテラスが人気なのは矛盾しているんじゃないかって?バルのテラスと、住居は違います。家の中では涼しく過ごしたいわけで…。夏の外気は40℃を超えるそうですから。

 ミハスの家々は、ほとんどがヨーロッパ各地の金持ち層の別荘。バス停付近には、観光客用の「馬車」がくつわを並べています。馬のほかにロバに引かせるものも。1時間程度でミハス村を一周するという。
 通りに面して、アロマグッズ、陶器、オリーブオイルなどを売る土産店が軒を連ねています。レストランやカフェも。
 (10月30日に書きましたが)露店で大鍋にアーモンドとキャラメルを入れてかき混ぜた(コーティングした)菓子を作っておりました。出来たてを試食出来ます。もちろん買える。固いので歯を折らないようにしなければなりません。なお、ピーナッツをキャラメルコーティングしたものもあり、こちらのほうはアーモンドよりやわらかい。

 山の斜面のミハスを下りると、「マラガ」という町があります。マラガは、ピカソの出身地として有名です。マラガ一帯の地中海沿岸は、「太陽海岸(コスタ・デル・ソル Costa del Sol)と呼ばれるリゾート地。年間を通して客が絶えない。
 ピカソも、ミハス、地中海、モロッコを見て過ごした時代があった。ピカソは、アーモンドで歯を折らなかったかなあ。

コルドバ

2013年11月03日 | Weblog
 古いプロレスファンなら覚えがあると思うのですが…「コルドバの悪魔」。リングネームは忘れましたが、「コルドバの悪魔」…すごいインパクトでした。もちろんヒール。「コルドバってどこにあるのかなあ?」子ども心に興味がありました。

 で、スペインにありましたよ!コルドバがっ!ここがまた…古代ローマ時代のローマ寺院やローマ橋などの遺跡が遺されている。イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。「コルドバの悪魔」が、ここの出身なのか、アルゼンチンのコルドバの出身なのかは不明ですがね。
 メスキータやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。

 メスキータとは、なんぞや?「女性が来た(雌来た)」と、いう意味ではなさそう。簡単に言うと、「モスク」です。なぜモスクがコルドバ一番の観光スポットなのか?
 イスラム建築の粋メスキータ(モスク)とキリスト教の聖堂が同居するもの。これは珍しいです。神殿と寺院が同居するようなもの。伊勢神宮と東大寺が融合する建築を想像すれば、なぜメスキータが人気があるかがうかがえる。

 規模が半端じゃない。通称、「円柱の森」は、現在約850本の柱が立っている。壮観です。天井にかけて、大理石とくさび形の赤レンガを交互に組み合わせたアーチが特徴的。13世紀にコルドバを奪還したキリスト教徒でさえ、「この建築は我々にはできない」と、感嘆したという。そしてキリスト教徒は、16世紀に、ゴシック様式の祭壇やパイプオルガンを設えた絢爛豪華な礼拝堂を造った。正に、イスラムとキリストの同居?融合?
 オスキータ(雄来た)というモスクは、なかったです。念のため。

コルドバの見所のもう一つは、「花咲きみだれる白壁の小径が続く旧ユダヤ人街」。
 その昔、ユダヤ人が住んでいた。ユダヤ人は、「動物の皮をなめす(鞣す)仕事」をしていたという。皮をなめすには、「アンモニア」が必要。アンモニアをどうやって入手するか?そうです。オシッコです。家々でオシッコを溜めてアンモニアを造っていた。つまり、旧ユダヤ人街は、オシッコとアンモニアの臭いが充満していた。現在ですか?現在は、臭いはありませんでした。あたりまえ。
 旧ユダヤ人街は、白い家々が並び、迷路のように道が入り組んでいて、いい感じでした。「花の小道」と呼ばれる狭い道の両側の家々は、花を飾っていました。この道の終点は円い広場になっていました。来た道をふり返るとぉ…メスキータのミナレットが見える!実は、ただこれだけのために50メートルほどの花の小道を歩く…チョット物足りないけどまっいいかぁ。5キロメートルぐらい歩きたかったなあ…。

アルハンブラ宮殿

2013年11月02日 | Weblog
 グラナダは石榴(ザクロ)という意味なのだそう。実際、道端にもザクロがあり、実をつけていました。ザクロが多いから「グラナダ」という地名になった。
 グラナダといえば、世界遺産「アルハンブラ宮殿、ヘネラリーフェ(王族の避暑地)、アルバイシン地区(グラナダ最古の居住地)」でしょう!フラメンコショーを観なくても、この世界遺産を観なければなりません。

 アルハンブラ宮殿…スペイン・イスラム芸術の粋を集めた最高傑作のひとつといわれています。華麗で広大…ただただ凄い。8世紀から約800年間、イベリア半島を支配したイスラム教徒の王たちの栄華を今に伝えてくれています。外見は華麗ではないのですが、宮殿内部は、「アラベスク模様」「透かし彫りの窓」「ムカルナスの天井装飾(鍾乳洞のように上から垂れてくるような装飾)…まさに荘厳。数々の中庭・外庭も…ベルサイユ宮殿の庭より手がかかっているのではないか?1日たっぷりと見て歩かなければならない宮殿です。もの凄い混雑なので入場者数制限をしています。予約無しで行っては、内部に入ることはできません。

 アルハンブラで思い起こすのは、「アルハンブラの思い出」ですね。ナルシソ・イエペスのギター。よく指が動くものです。おっと、そーゆうことではなく、あの曲は、アルハンブラ宮殿の中庭の噴水から生まれたものなのだと。「リズミカルな雨だれのような噴水」確かに!「禁じられた遊び」とも似ているような。

 「ライオンの中庭」というところがあるのですが…ハレムだった所。ここで300~400人の女性が暮らしていたという。ここは、血なまぐさい曰く付きの場所。

 イスラム王朝末期、王妃が王を殺害して息子を王位に就けようと陰謀を企てていると聞かされた王様が、陰謀に荷担したといわれる騎士を中庭で斬首。その首を噴水の周りに並べた。噴水から流れ出た水と共に血が各部屋に流れ続けた。

 また、別の話として…王様が王妃の浮気相手を見つけようと、36人の男達を調べたが特定できなかった。しからばと、36人全員を斬首した。その首も、噴水の周囲に並べた。イスラムの歴代王様は、噴水の周囲に首を並べるのが好きだった?なお、ライオンは12頭。生首を見てきたライオンたちですが、なんとも可愛らしい顔をしています。

 丘の上の宮殿に潤沢な水がある。どこから水を持ってきているのか?井戸を掘ったぐらいではまかないきれません。シェラネバダ山脈から水を引いている。これは宮殿の荘厳さ以上に凄いことかも。8世紀に、何百キロメートルあるか分かりませんが、シェラネバダからグラナダへ水を引いた! 

グラナダの夜

2013年11月01日 | Weblog
 「グレナダ侵攻(1983年)」を記憶しておられる方は多いでしょう。
 あの頃は、フォークランド紛争(1982年)→グレナダ侵攻→パナマ侵攻(1989年)→湾岸戦争(1991年)と、続きましたから。きな臭い時期でした。
 カリブ海に浮かぶ島国グレナダへ、米軍とカリブ平和軍が侵攻しました。この時、某国が、「グラナダを攻める」と、聞き間違えて、カリブ海の国「グレナダ」ではなく、スペインの都市「グラナダ」を攻めると…ホントホント!あまり知られていませんが、本当の話ですよ。
 スペインのグラナダを攻めようとした司令官は処分されました。未遂に終わったからいいようなもので、実際にグラナダを攻めていたら、アルハンブラ宮殿はなくなっていましたね。

 と、いうわけで、スペインに現存する町、グラナダへも行きました。
 グラナダといえばアルハンブラ宮殿です。宮殿見学の前夜、フラメンコショーを観にいきました。グラナダのフラメンコは、「洞窟フラメンコ」といって、洞窟仕立てにした会場でフラメンコを観せてくれる。なんでも、フラメンコ発祥の地がグラナダなのだそう。
 予約をすると、夜9時にホテルまで迎えに来てくれます。マイクロバスで。価格は、飲み物が一品ついて、ショーを観て、およそ20~30ユーロ(2,400~4,200円)。日本の旅行代理店のオプショナルツァーでは、1万円以上取られます。
 ショーを観せてくれる洞窟は、グラナダ市内のサクロモンテの丘に数カ所あり、踊り子さん一座(踊り子が3~4人。歌い手が1人、ギターが1人、かけ声係が1~2人)があちこちの洞窟を掛け持ちしている様子。
 洞窟は、普通の家屋の内部をコンクリートで洞窟風に改造したもの。白ペンキで塗られていました。客席はコの字型に椅子が並べられており20~30席ほど。踊り子さんとの距離は1メートルあるかないか。文字通り、間近でショーを楽しめるという寸法。

 感想ですかぁ?…踊り子さんが、気持ちを集中させるというか昂ぶらせることを大事にしているので、観客の物音(話し声、拍手)を極端に嫌っていました。ただ、その割りには、踊りと踊りの数分の合間に、踊り子、伴奏者、歌い手が雑談するんです。観客をナメています。なんと、携帯電話の着信音をマナーモードにしておらず、演奏中に、電話が鳴り、それに出たり…!その時の経緯として、踊り子が自分の携帯電話を上着のポケットへ入れていたのですが、その上着を脱いで私の後ろに置いたのです。電話が鳴ったとき、一座も観客も一斉に私を観たのです。
 そのおよそ80個の目玉は、…
 「こら!貧相な日本人!フラメンコ発祥の地のフラメンコショーを観に来ていながら、携帯電話をマナーモードにしておかないとは何事だ!この恥知らず!」
 と、言っていました。そのあと、踊り子の一人が自分の携帯電話と気づいたので、私の潔白が証明されたわけですがね。
 踊りに対して、感動はなかったです。あの程度なら私でも踊れます。男の踊りなど、単に床を踏みならして疲れたら終わる…。事前にかなり激しく腿(もも)を叩く情熱的な踊りと聞いていましたが、この日は腿が痛かったのか全く叩かなかったです。なんなんだ!
 女の踊り子は20歳代~70歳代まで…年齢幅が広いラインナップ。踊りが上手かどうかは…分かりませんでした…。真剣さは伝わってきましたがね。高齢者を踊らせるのには多少の抵抗がありました。虐待じゃないか?

 夜、9時半からショーが始まり、およそ1時間半。11時ころショーが終わり、またマイクロバスでホテルまで送ってくれました。
 このフラメンコショーからの帰り道、対岸の丘にライトアップされたアルハンブラ宮殿を見ることが出来ました。マイクロバスを停めてもらって写真を撮る。これ、常識。