皆様はバスに乗るとき、例えば1番乗りでどこにでも座れるとしたら、どこに座りますか?私は基本的に1番後ろの進行方向に向かって左側。道路側の席に座る。誰かがそこに座っていたら右側。いずれにせよ一番後ろに座る。ひとつは私が降りるバス停が終点間近で、残っている乗客はいつも数人。後ろの席の方が、途中で降りる人の動向日本代表での煩わされない利点があること。車内の見晴らしが良いことが大きな理由だ。となりに座る人との距離が遠くに出来ること、あるいは途中で隣がいなくなる確率が高いことも大きな理由である。皆様はいかがか?
先日、お茶を良く飲むと言うお話をした。
そのときのブログです。 静岡県民はお茶が命
そして、お茶と言うとこのお話を思い出す。
石田三成のエピソードと言われている。
三成の逸話の中では最も有名?
実は私はこのエピソードしか知らないが。
滋賀県・長浜駅前には、
この三献茶に因んだ三成と秀吉の像もあるそうです。
「砕玉話(武将感状記)」等に記されている?
この逸話は、
長浜城主となった秀吉が、領内で鷹狩をしていた時、
その帰途、喉の乾きを覚えて、
ある寺に立ち寄って茶を所望した。
対応した寺の小姓は、
まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。
喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干した後、
もう一杯所望した。
次に小姓は、やや小さめの碗に、
やや熱めにした茶を出した。
秀吉が試みにもう一杯所望したところ、
今度は小ぶりの碗に熱くした茶を出した。
相手の様子を見て、その欲するものを出す、
この心働きに感じいった秀吉は、
その小姓を城に連れて帰り家来とした。
この小姓が、その後累進し、
五奉行の一人、石田三成となったのである。
と言う有名なお話である。
一般的に気遣い?心遣い?気配り?
その大切さを訴えるエピソードである。
さて、ここからが本題なのだが、
私自体ががさつな人間なので、
気づかないうちに相当迷惑をかけているので!
気配りのお話をすれば、
皆様に笑われるのが必死?必至?
多分一番笑うのは奥様だろう。
偉そうなことを言えないのだが▪▪▪▪
細かい気配りが出来ない人が本当に多い。
正確に言えば、気配りする必要を感じていないのだから、
それが行われるはずもないのである。
色々その場その場で、気配りの無いことに腹を立てたのに、
今、思い出そうとしても思い出せない。
悲しい老人性の悲哀である。
まあ、石田三成だったらやらないだろうなあと、
思いながら、その自体を甘んじて受け入れている?
まあ、そこまで大袈裟な話ではないが。
書きたい内容は、本人が読む可能性があるので、
書くことは出来ない。
ただし、
私のブログを読んでくださっていると、
私が認識している方のお話ではないことは断言できる。
ご心配なく。
他山の石と考えていただければ。
他山の石
もともとは中国の古典『詩経』からのことばで、よその山から出た粗悪な石も、自分の玉を磨くのに利用できるという意味であり、そこから、他人のつまらない言行も、自分の人格を作るための反省材料とすることができるという比喩に用いられる。よって「他山の石」自体は、他人のよくない言行のことをいうのであり、人格形成のためのよい目標といった意味でこれを使うことはできない。基本的には悪口なのである。
先日、お茶を良く飲むと言うお話をした。
そのときのブログです。 静岡県民はお茶が命
そして、お茶と言うとこのお話を思い出す。
石田三成のエピソードと言われている。
三成の逸話の中では最も有名?
実は私はこのエピソードしか知らないが。
滋賀県・長浜駅前には、
この三献茶に因んだ三成と秀吉の像もあるそうです。
「砕玉話(武将感状記)」等に記されている?
この逸話は、
長浜城主となった秀吉が、領内で鷹狩をしていた時、
その帰途、喉の乾きを覚えて、
ある寺に立ち寄って茶を所望した。
対応した寺の小姓は、
まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。
喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干した後、
もう一杯所望した。
次に小姓は、やや小さめの碗に、
やや熱めにした茶を出した。
秀吉が試みにもう一杯所望したところ、
今度は小ぶりの碗に熱くした茶を出した。
相手の様子を見て、その欲するものを出す、
この心働きに感じいった秀吉は、
その小姓を城に連れて帰り家来とした。
この小姓が、その後累進し、
五奉行の一人、石田三成となったのである。
と言う有名なお話である。
一般的に気遣い?心遣い?気配り?
その大切さを訴えるエピソードである。
さて、ここからが本題なのだが、
私自体ががさつな人間なので、
気づかないうちに相当迷惑をかけているので!
気配りのお話をすれば、
皆様に笑われるのが必死?必至?
多分一番笑うのは奥様だろう。
偉そうなことを言えないのだが▪▪▪▪
細かい気配りが出来ない人が本当に多い。
正確に言えば、気配りする必要を感じていないのだから、
それが行われるはずもないのである。
色々その場その場で、気配りの無いことに腹を立てたのに、
今、思い出そうとしても思い出せない。
悲しい老人性の悲哀である。
まあ、石田三成だったらやらないだろうなあと、
思いながら、その自体を甘んじて受け入れている?
まあ、そこまで大袈裟な話ではないが。
書きたい内容は、本人が読む可能性があるので、
書くことは出来ない。
ただし、
私のブログを読んでくださっていると、
私が認識している方のお話ではないことは断言できる。
ご心配なく。
他山の石と考えていただければ。
他山の石
もともとは中国の古典『詩経』からのことばで、よその山から出た粗悪な石も、自分の玉を磨くのに利用できるという意味であり、そこから、他人のつまらない言行も、自分の人格を作るための反省材料とすることができるという比喩に用いられる。よって「他山の石」自体は、他人のよくない言行のことをいうのであり、人格形成のためのよい目標といった意味でこれを使うことはできない。基本的には悪口なのである。