噛みつき評論 ブログ版

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政治家に潔癖さを求めすぎては大物政治家がいなくなりはしないか

2007-10-09 17:12:36 | Weblog
 2007年09月04日付の朝日社説に故秦野章氏の有名な言葉が紹介されている。
 「政治家に正直や清潔を求めるのは、八百屋で魚をくれというに等しい」

 この面白い言葉を同社説は以下のように解釈する。
 「政治家と一般の人とでは求められる倫理の物差しが違う。要は立派な政治をすること――。そんな趣旨だろう。四半世紀も前の発言だが、今の政治家が聞けば深いため息をつくのではないか」

 そして今という時代を次のように言う。
 「どれほど立派な政治をしようが、「カネ」の問題で透明性に欠け、有権者に説明できないようでは政治家の資格がない・・・」

 この社説はたいへんご立派なことで、誰も反対できない。政治家は清潔な方がよいに決まっている。しかしそれも程度というものがあるのではないか。あまりにやりすぎると弊害が出ることを懸念する。

 重箱の隅をつつくようなことを続けると国政が空回りするだけでなく、貢献度の高い有能な政治家にまで退場を迫ることになり、残るは潔癖ではあるが小物ばかりということになりはしないだろうか。

 以前、年金未納問題で多くの政治家が叩かれたとき、私はその懸念を感じた。誰でも叩けば多少の埃は出ると言われる。税金の例で言えば、給与所得だけの人は脱税問題など起こるわけがないが、納税申告に裁量の余地がある自営業の場合には微妙な部分も出てくるのが普通だ。

 叩いて埃の出る人がごく少数なら税務調査などあまり必要ない。現実には全く埃のでない人の方が少数ではないか。調査対象の多くは更正申告をさせられる。

 悪質なものは論外であるが、立派な政治をやれば多少のことは大目に見るという寛容な態度もまた必要なのではないだろうか。隅々まで潔癖な性格と大きい仕事をする能力とはちょっと両立し難いように思う。むろん例外はあると思うが。

 「お次は○○大臣」というメディアのお祭りのような報道は確かに面白いが、そのため必要以上に寛容さを失い、有能な才能を無にしてしまうことが心配だ。