4月23日の日経社説は「国民の感覚を映した死刑判決」というテーマで、光市母子殺害事件を例に引き、死刑判決についての見解を述べています。
その中に、失礼ながら社説の主題よりも興味深い調査結果が引用されています。それは司法研修所による「量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究」のアンケート結果で、再引用します。
『被告人が未成年者だったら刑を重くすべきか軽くすべきか、を尋ねたところ、一般国民の回答者はほぼ半数が「どちらでもない」を選び、裁判官の常識とは逆の「重くする」「やや重くする」が合わせて25%あった。裁判官で重くする方向の回答はゼロ。「軽くする」「やや軽くする」が計91%である』
更生の可能性が大きい未成年者の刑を重くすべき、という意見が25%もあったのには驚きます。それ以上に驚いたのは社説がこれを肯定し、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべきだと述べている点です。以下に引用します。
『死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。
これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある』
残虐性の判断は国民感情によって定まる、というのは妥当です。問題はその次の敷衍の仕方です。残虐性の判断を国民感情が定めるべきならば、量刑の判断も一般国民の感覚をくむべきである、ということですが、残虐性の判断と量刑の判断は別個のものであり、安易に敷衍してよいのでしょうか。ここは敷衍より飛躍がふさわしい言葉です。
裁判官は専門家の適正感でなく国民の適正感に拠るべきだということを言いたいのでしょうが、それにしては少年法の趣旨を理解しない者が25%という調査結果を示したのでは薮蛇です。この調査結果からはむしろ一般国民の判断は信頼に値しないことを強く示唆していると理解できるからです。
更正の可能性、未熟な判断力、知識・経験の不足、どれも少年に対する刑を軽くする理由になっても、重くする理由にはなりません。25%とはいえ、少年に重い刑を主張するという一般国民の感覚を尊重すべきだという社説の主張は説得力がありません。
裁判員制度ではこの25%の人が6人の中に含まれます。平均では6人中1.5人ですが、場合によっては6人中4人や5人もあり得ます。その場合の少年被告は成人より重い刑を受けるという不合理なことになるかもしれません。少年法の精神など理解しない人々によって。
米国は陪審員制ですが、被告は職業裁判官による裁判をも選択可能です。陪審員制は素人判断による「偶然司法」になっているという批判が根強く、連邦地裁における陪審利用率は刑事で5.2%(97年~98年)、民事では1.7%(同)という低率で、大多数は職業裁判官を選びます(参考)。
新聞各社は概ね裁判員制度に肯定的ですが、よく理解した上のことなのでしょうか。裁判員制度のもつ偶然性によって判決がばらつき、被告の公平性が犠牲になることに彼らは極めて鈍感のようです。この鈍感さゆえ、社説は皮肉にも本来の意図とは逆に裁判員制度の危うさを示すことになったようです。
その中に、失礼ながら社説の主題よりも興味深い調査結果が引用されています。それは司法研修所による「量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究」のアンケート結果で、再引用します。
『被告人が未成年者だったら刑を重くすべきか軽くすべきか、を尋ねたところ、一般国民の回答者はほぼ半数が「どちらでもない」を選び、裁判官の常識とは逆の「重くする」「やや重くする」が合わせて25%あった。裁判官で重くする方向の回答はゼロ。「軽くする」「やや軽くする」が計91%である』
更生の可能性が大きい未成年者の刑を重くすべき、という意見が25%もあったのには驚きます。それ以上に驚いたのは社説がこれを肯定し、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべきだと述べている点です。以下に引用します。
『死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。
これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある』
残虐性の判断は国民感情によって定まる、というのは妥当です。問題はその次の敷衍の仕方です。残虐性の判断を国民感情が定めるべきならば、量刑の判断も一般国民の感覚をくむべきである、ということですが、残虐性の判断と量刑の判断は別個のものであり、安易に敷衍してよいのでしょうか。ここは敷衍より飛躍がふさわしい言葉です。
裁判官は専門家の適正感でなく国民の適正感に拠るべきだということを言いたいのでしょうが、それにしては少年法の趣旨を理解しない者が25%という調査結果を示したのでは薮蛇です。この調査結果からはむしろ一般国民の判断は信頼に値しないことを強く示唆していると理解できるからです。
更正の可能性、未熟な判断力、知識・経験の不足、どれも少年に対する刑を軽くする理由になっても、重くする理由にはなりません。25%とはいえ、少年に重い刑を主張するという一般国民の感覚を尊重すべきだという社説の主張は説得力がありません。
裁判員制度ではこの25%の人が6人の中に含まれます。平均では6人中1.5人ですが、場合によっては6人中4人や5人もあり得ます。その場合の少年被告は成人より重い刑を受けるという不合理なことになるかもしれません。少年法の精神など理解しない人々によって。
米国は陪審員制ですが、被告は職業裁判官による裁判をも選択可能です。陪審員制は素人判断による「偶然司法」になっているという批判が根強く、連邦地裁における陪審利用率は刑事で5.2%(97年~98年)、民事では1.7%(同)という低率で、大多数は職業裁判官を選びます(参考)。
新聞各社は概ね裁判員制度に肯定的ですが、よく理解した上のことなのでしょうか。裁判員制度のもつ偶然性によって判決がばらつき、被告の公平性が犠牲になることに彼らは極めて鈍感のようです。この鈍感さゆえ、社説は皮肉にも本来の意図とは逆に裁判員制度の危うさを示すことになったようです。